第2話
第2話
扉が開くと、淡い緑の光の糸が、先に部屋へ滑り込んできた。
聖眼を通して見る世界は、まだ慣れない。人の輪郭に沿って、魔力の糸がゆらゆらと揺れている。入ってきた侍女の糸は、朝露に濡れた若葉の色だった。嘘のない色。けれど、その糸の端にほんの少しだけ、錆びた鉄のような点が混じっている。
(……隠し事がある。悪意じゃない、もっと小さな何か)
「お嬢様、よくお休みになれましたか? 今朝は鶉の卵と、あたたかいミルクを──あら」
侍女が言葉を切った。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、それから慌てたように膝を折る。二十歳ほどだろうか。栗色の髪を耳の後ろで束ねた、素朴な顔立ちの娘だ。名前を、この身体は知っている。エルナ。三年前から仕えてくれている、下級貴族の三女。
「リリアーナお嬢様、お顔の色が……どこかお加減でも」
「なんでもないわ。少し、変な夢を見ただけ」
鈴のような声が、自分の喉から転がり出る。十歳の声帯は、嘘をつくには素直すぎた。けれどエルナは疑う様子もなく、ほっと胸を撫で下ろし、着替えのドレスを広げ始める。淡い水色の絹に、銀糸で小さな狼が刺繍されている。
袖を通される間、私はエルナの糸をそっと手繰った。錆びた点の正体を覗き込む。
──割れた陶器。昨夜、厨房で落とした、旦那様の大事にされている茶器。弁償を申し出たが、料理長が庇って「自分が片付けた」と報告した。朝になって、どうやって謝ろうか迷っている。
それだけのこと。
それだけのことが、聖眼を通すと、光の糸の上にぽつりと焦げ跡のように浮かぶ。前世なら、この小さな焦げ跡ひとつ見逃して、忠臣を疑った愚か者もいただろう。私も、そうだった。
「エルナ」
「はい」
「茶器のことは、お父さまに私から言っておくわ。あなたが片付けてくれたのでしょう?」
櫛を持つエルナの手が、固まった。鏡越しに、娘の瞳が大きく見開かれ、その奥の光の糸が、ぱっと色を変える。驚きの銀、続いて、泣き出しそうな金色。
「……どうして、それを」
「夢で視たの。変な夢だって、言ったでしょう」
幼い唇で微笑んでみせる。エルナは何か言いかけて、結局言葉にならず、ただ「はい」とだけ呟いた。櫛を持つ指先が、わずかに震えていた。
*
食堂は、想像していたより、ずっと広く、ずっと明るかった。
長いマホガニーの卓に、銀の食器。窓から差し込む朝の光が、磨かれた卓面に雲の影を落としている。上座に、黒髪の大柄な男。辺境伯ヴァレンス──父だ。こめかみに早い白髪が混じり、目尻に深い皺が刻まれている。前世の記録で「狼公」と呼ばれた男の、若い日の顔。三十代半ば、まだ肩の筋肉が戦場のそれをしている。
その右隣、十四歳ほどの少年。兄アルヴィス。銀の髪は私と同じ色。けれど瞳は父譲りの鋼色で、朝の光の中、刃物のように澄んでいた。
「リリィ、おはよう」
父の声は、思っていたより高く、そして、思っていたより、やわらかかった。前世の私には、誰も「おはよう」と言わなかった。神殿の朝は、祈りから始まる。挨拶は神へのものだった。
挨拶が、人から人へ、名前を添えて交わされる。その当たり前のことが、胸のどこかを、小さな針でつつくように痛ませる。
「……おはようございます、お父さま。お兄さま」
椅子を引いてくれたのは、兄だった。ぶっきらぼうな手つきで、けれど確かに妹のために動いた手だ。聖眼に映る兄の糸は、鋼色の地に、朱が一筋。──照れている。
(このひと、私が席に着くのを、待ってくれていたんだ)
気づいた瞬間、スプーンを握る指がわずかに強張った。温かいミルクの湯気が、睫毛の先で揺れる。匂いだけで、胃の奥が泣きそうになった。前世の処刑前夜、最後に運ばれてきたのは、固くなった黒パン一片と、濁った水だった。
「──リリィ、どうかしたのか」
父が眉を寄せる。聖眼が、その糸を透かし見た。鋼色の、太く、揺るぎない糸。ただ一点、娘を見る角度だけが、ほろりと金色に滲んでいる。心配。純粋な、混じりけのない心配。その色に、私はまた、危うく泣きそうになった。
「いいえ。……ミルクが、あんまり美味しそうで」
父がふっと笑った。「うちの牛は、辺境一だからな」と、少し得意げに。兄が「父上、また始まった」と呆れたように天井を仰ぐ。エルナが給仕の手を止めて、くすりと笑う。
食卓の上を、小さな笑いの輪が、ふわりと渡っていく。
聖眼が、その輪に沿って、光の糸を描き出す。父から兄へ、兄から私へ、私からエルナへ、エルナから父へ。誰も嘘をついていない。誰も隠していない──いや、エルナの茶器の一件だけが小さな焦げ跡になっているけれど、それすら、温かい焦げ方だった。
こんなにも、透き通った食卓が、世界にはあったのか。
前世で、私はこれを知らないまま、死んだのか。
幼い睫毛の縁に、薄く膜が張る。慌ててスプーンを口に運んだ。鶉の卵の黄身が、舌の上でほろりと崩れて、塩味の奥に、牛乳の甘さが広がる。味の記憶が、身体のどこかに刺さって、抜けなくなる。
*
食事が終わる頃、父が書類を広げ始めた。兄は剣の稽古に行くと立ち上がり、出がけに私の頭に、ぽん、と手を置いた。大きな手だった。木刀だこのある、硬い手のひら。その下で、私の髪がくしゃりと乱れる。
「リリィ、午前は庭に出るなよ。北の森が、少しうるさい」
「……うるさい?」
「騎士の話では、森の奥で魔獣の気配が増えているらしい。結界は張り直してあるが、念のためだ」
兄の糸に、朱が滲んだ。照れではない、緊張の朱。十四歳の少年が、妹を守ろうとして背筋を伸ばす、その色。
私は頷き、兄を見送った。その背中が食堂を出た瞬間、私は窓辺に駆け寄った。
北の窓。領境の森。
聖眼を、今朝よりも深く、開く。息を、長く、細く吐き出す。肺の奥に残っていた朝の温もりが、指先から静かに抜けていった。
世界の解像度が、また一段上がった。庭の芝の一本一本に、朝露の魔力がちいさく宿っているのが視える。その向こう、石塀、雑木林、なだらかな丘、そして──森。
森の輪郭に沿って、銀色の結界の糸が張られている。兄の言う通り、張り直されたばかりの、新しい糸だ。まだ張力が落ち着ききらず、朝日を受けて、ちらちらと鱗のように瞬いている。けれど。
けれど、その糸の、北側。ちょうど尾根のあたりで、糸が、ざわざわと揺れている。まるで水面の下で、巨大な魚が身をよじっているように。揺れに合わせて、かすかな軋みが、聖眼の奥──鼓膜ではなく、もっと深いところに、直接響いてくる。
(──これは)
結界の揺らぎの奥に、どす黒い魔力の滲みが見えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。数える指が、途中で止まる。十を超える。いや、二十を超える。中型の獣の糸が絡み合い、もつれ、互いの飢えを伝染させながら膨らんでいく。その中心に、鉛色の、大型の気配が三つ。重く、低く、ゆっくりと脈打っている。まるで眠りから覚めかけた心臓のように。
記憶が、ひりつくように蘇る。ヴァレンス辺境伯領・初夏の魔獣溢れ。前世の記録では、三日後の夜明け。焼け落ちた東門。泣きながら運ばれた子ども。黒く焦げた麦畑。──けれどこの視界の揺らぎ方は、三日も保たない。
早ければ、今日。
遅くとも、明日の夕。
幼い指が、窓枠を強く握った。木の冷たさが、指の骨まで染みる。爪の先が白くなるほど力を込めても、震えは止まらなかった。
*
背後で、父が書類から顔を上げる気配がした。紙の擦れる音が、ふ、と止む。
「リリィ? 何か、北に見えるか」
父の声は、静かだった。娘の幼い背中を見つめる父の糸が、ふ、と揺れる。金色の心配の中に、ほんのわずか、鋼色の警戒が混じる。この男は、狼公と呼ばれた男だ。娘の異変を、見逃す父ではない。
私は、ゆっくりと振り返った。十歳の膝が、ドレスの裾の下で小さく笑っている。それを悟られないように、踵にぐっと体重を乗せた。
十歳の口で、何をどう伝えればいいのか。夢で視た、と言えば、笑って流されるだろう。聖眼のことを告げれば、話は王都の神殿まで届き、前世と同じ檻が待っている。冷たい石床、鎖の擦れる音、祈りの名を借りた尋問。思い出すだけで、喉の奥に鉄の味が戻ってくる。
けれど、告げなければ、領民が死ぬ。名もない子どもたちの泣き声が、また、この世界に響く。焼けた麦畑の匂いが、まだ来てもいないのに、鼻の奥をちりりと刺した。
選ぶ時間は、長くなかった。一度だけ、浅く息を吸う。朝の光の味がした。
「お父さま」
鈴の声が、朝の食堂に、静かに落ちた。
「──北の森から、嫌な匂いがします。風に、鉄と、獣の息が混じっています。今日のうちに、騎士団の方に、森の縁まで見に行っていただけませんか」
父の眉が、ぴくりと動いた。聖眼に映る糸が、鋼色に、ぐっと締まる。娘の言葉を、冗談として流すか、本気として受け取るか──その判別を、狼公の勘が一瞬で済ませた。
「……エルナ。団長を、いますぐここへ」
侍女が深く頭を下げ、駆けていく。父は立ち上がり、窓辺の私の隣に並んだ。大きな身体が、朝の光を遮る。その影の中で、私は、もう一度、北を見た。
結界の糸が、また、一本、ぷつりと切れた音がした。