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処刑聖女は辺境で報われる

第1話 第1話

第1話

第1話

白い処刑台の上で、私は笑おうとして失敗した。

 空は憎らしいほど青い。広場を埋め尽くす民衆は、つい先月まで「聖女さま」と跪いていた顔ぶれだった。その同じ口が、今は石を投げ、唾を吐き、魔女と叫んでいる。石のひとつが頬をかすめ、生温い血がひとすじ、顎の線を伝って落ちた。痛みよりも、その血の赤が妙に鮮明で、ああ自分はまだ生きているのだと、他人事のように思った。

「──聖女セラフィナ。王太子殿下暗殺未遂、ならびに禁呪使用の罪により、斬首に処す」

 読み上げる神官の声が、やけに遠い。耳の奥で潮騒のような雑音が鳴っていて、単語のひとつひとつが水底から届く気泡みたいに、ぽつり、ぽつりと弾ける。視線の先、玉座を模した来賓席に王太子ユリウスがいた。私が毒から救い、戦場で結界を張り続けて守り抜いた男。三度、命を拾わせた。四度目の夜には、熱に浮かされた唇で「おまえだけは裏切るな」と囁いた男。彼は私と目を合わせず、退屈そうに指を組んでいる。金の髪が陽光を弾いて、まるで聖画のように眩しい。その隣に、親友だったはずの侍女ミレイユ。幼い頃、一緒に泥だらけになって薬草を摘んだ手が、いまは白い絹の手袋に包まれている。彼女は扇の影でにいと口角を上げた。勝ち誇った、あの笑み。扇の骨の隙間から覗いた瞳は、蜜のように甘く、蛇のように冷たかった。

(どうして。私、こんなに尽くしたのに)

 首枷の冷たさより、胸の奥の方が凍えた。鉄の錆びた匂いと、群衆の汗の匂いと、遠くで焚かれる香の匂いが混ざって、吐き気がこみ上げる。跪き、祈ろうとして、やめる。この国の神はもう、私の声を拾わない。祈りは届かない場所に投げる石のようなもので、投げれば投げるほど、自分の腕だけが痺れていく。

 刃が引き抜かれる音。鞘走りの、澄んだ金属音。風を切る白。

 ああ、もう──。

*

『──聞こえますか、娘』

 闇の底に、鈴を振るような声が落ちてきた。温度のない、けれど不思議と優しい声。母と呼んだ記憶のない“母”に似た声だ、と思った。

『あなたは報われるべき魂。神々の帳尻が合っていない。もう一度だけ、やり直しなさい。今度は護るための力と共に』

 返事をする唇がない。ただ、熱いものが胸に流し込まれる感覚があった。ふたつ。大きな塊がふたつ。片方は陽だまりのように穏やかで、もう片方は雷雲を呑み込んだように重い。

『万象を見通す“聖眼”。無限を詠う“神威”。──間違えないで、リリアーナ』

 その名を、私は知っている気がした。舌の上に、まだ呼んだことのない名前の輪郭が、砂糖菓子のようにほろりと溶けた。

*

 まぶたの裏が、朱い。

 そろりと目を開けると、見知らぬ天蓋が揺れていた。淡い水色の天鵞絨、金糸の縁取り、香草の匂い。ラベンダーと、少しの没薬。処刑台の血錆の匂いではない。窓から差し込む朝の光が、絨毯の毛先を金色に染めていて、その光の帯の中を埃が踊っている。信じられないほど、静かだ。遠くで小鳥が一羽、澄んだ声で鳴いた。その音が、胸の奥の固く凍っていた何かを、ほんの少しだけ溶かしていく。シーツの糊の匂いが鼻先をくすぐり、指先に触れる麻の繊維のひとつひとつが、やけに愛おしく感じられた。

 身体が、軽い。

 ……軽すぎる。

 起き上がろうとして、手のひらが視界に入った瞬間、息が止まった。ちいさい。指が細く、爪がまるい。剣ダコも、毒で焼けた火傷痕もない。十歳かそこらの、子どもの手だ。血管が青く透けていて、押せば簡単に折れてしまいそうな、儚い骨格。指を握り、ひらき、もう一度握る。関節の鳴る音すらしない、滑らかで頼りない動き。手首の内側に鼻を近づけると、乳のような、ほのかに甘い子どもの匂いがした。前世の、血と薬草と汗が染み付いた肌の匂いとは、まるで違う。

 ベッドの脇、姿見。転がるように駆け寄って覗き込む。裸足の足裏に、冷たい木の床がひやりと吸いついた。床板の節が土踏まずを押し返してきて、その感触が、ここが夢ではないと告げていた。

 銀の髪。翠の瞳。頬に幼い丸み。そして──その瞳の奥に、処刑台を見上げた記憶だけが、はっきりと残っている。鏡の中の少女と、内側から覗く私とが、互いを探るようにしばらく見つめ合った。銀の髪は朝日を受けて淡く発光し、絹糸を束ねたように一筋一筋が光を返す。翠の瞳の奥、瞳孔の縁に、前世で最後に見た青空の色が、まだ焼きついているような気がした。

「……リリアーナ」

 口が勝手にその名を呼んだ。辺境伯ヴァレンス家、長女リリアーナ。十歳。前世でいえば、私がまだ神殿に拾われる前の年齢。場所は同じ王国、ただし十年前。声帯の震えが、自分のものとは思えないほど高く、頼りない。けれどその名を呼んだ瞬間、身体の奥で、何かがかちりと噛み合う音がした。

 女神の声が、嘘ではなかった。

 冷静に。まず、冷静に。処刑台で学んだ。感情に呑まれた者から順に殺される。泣くのは後でいい。震えるのも後でいい。いまはまず、自分の手札を数えろ──前世で百の戦場を渡った経験が、幼い背骨に鞭を入れた。

 深く息を吸うと、幼い肺が少し咳き込んだ。肋骨の内側に、他人の家を借りたような違和感がある。けれどそれも、一拍呼吸を整えるうちに馴染んでいく。

「試してみるか」

 掌を上に向け、意識を内側へ落とす。前世で八年かけて掘り当てた“聖力の井戸”。あの底なしの感覚を探る──あった。ある、どころではない。井戸どころか、海だ。十歳の身体の中に、大陸ひとつ分の水面が静かに凪いでいる。覗き込んだだけで眩暈がするほどの深さ。底には星が沈んでいるように見えた。波一つない、黒曜石の鏡のような水面。その下で、星々がゆっくりと呼吸していた。息を吸うたび、その海が応え、吐くたび、静かに引いていく。自分の内側に、こんな途方もないものが眠っているという事実が、かえって現実感を奪った。

 試しに、指先へ微量を通す。《光よ》と唱えかけ、やめた。詠唱の必要を、身体が感じない。思っただけで、指先にぽつりと銀の灯がともった。灯は羽毛より軽く、呼吸に合わせて静かに明滅した。温度はなく、けれどその光に触れた空気だけが、ほんのわずかに震えている。指先で灯を撫でると、絹をすべらせたような感触がして、やがて露のように消えた。

「……詠唱、破棄」

 前世では、大司祭格でも難しかった芸当だ。教典を千回写経し、断食を重ねてなお、半分の術しか詠唱破棄できなかった。それが、呼吸と同じ軽さでできる。ふ、と笑いが漏れた。笑うのは、処刑台以来だった。自分の笑い声が、鏡の中の少女の喉から鈴のように転がり出て、部屋の隅まで跳ねていくのを、私は妙に他人事のように聞いていた。

(これが“神威”。──で、もうひとつ)

 視線を、鏡の中の自分に戻す。意識して“視ろう”と念じた瞬間、世界の解像度がひとつ上がった。

 鏡面の裏側、木の節目、その奥の壁紙の糊の乾き具合、廊下を歩く誰かの魔力の色。全部が、薄い光の糸になって見える。糸には色がある。優しい金、濁った鉛、透きとおった水色。嘘も、隠し事も、きっとこの眼の前では透けるのだろう。前世で私を陥れた扇の影の笑みも、この眼があれば、最初の一瞬で見抜けたはずだ。あの蜜と蛇の瞳の奥、どす黒く淀んでいたはずの悪意の糸を、私はきっと一目で手繰り寄せられた。

 “聖眼”。

 鏡の中の少女が、ゆっくりと口の端を上げた。前世の聖女セラフィナなら、絶対に浮かべなかった笑い方だった。牙を隠した獣の、静かな微笑。

「なるほど。これは──反則だ」

*

 窓の外、遠く北の空に黒い靄が見える。

 聖眼を細めると、靄の正体が視えた。魔獣の群れ。中型が十数、大型が三。森の結界が揺らいで、こちらの領地側へ滲み出している。結界を編んだ糸の一本が、古い縄のようにささくれ立って、ぷつりと音もなく切れるのが見えた。前世の記憶にある“ヴァレンス辺境伯領・初夏の魔獣溢れ”──たしか騎士団が三十名、領民が百人以上亡くなった。名もない子どもたちの泣き声が、当時神殿にまで届いた事件だ。

 父と兄の顔を、私はまだ知らない。でも、この身体は知っている。廊下の向こうで低く笑う男の声、階下で剣を振る少年の掛け声。木刀が空気を裂く、ひゅ、ひゅ、という律儀な間合い。それを聞いた瞬間、胸の奥で、処刑台でも流れなかった涙がひとすじ、頬を伝った。温かかった。涙がこんなに温かいものだと、私はもう忘れていた。

(今度は、奪わせない)

 幼い指で目元を拭う。袖口に刺繍された家紋が滲む。ヴァレンス家の、白い狼。牙を剥き、北を睨む意匠。──いい紋だ、と思った。

 扉の外で、足音が止まった。

「お嬢様、おはようございます。朝の支度を──」

 ノックと共に、侍女らしき声。前世の“親友”のそれとは、まるで違う、素朴で眠たげな響き。聖眼に映るその魔力の糸は、濁りのない淡い緑色をしていた。嘘のない色。

「ええ、入って」

 自分の声が、鈴のように高くて、一瞬くらりとした。けれど、もう震えてはいなかった。背筋を伸ばし、幼い顎を上げる。十歳の器の中に、百戦を潜った魂が静かに腰を据えた。

 扉が開く前の一瞬、私は鏡に向かって、処刑台で言えなかった言葉を呟いた。

「──やり直します。今度こそ、間違えない」

 窓の外、北の空の黒い靄が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。辺境伯令嬢リリアーナとしての、最初の一日が始まろうとしていた。

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