第3話
第3話
結界の糸が、また一本切れた。
今度は、音が大きかった。聖眼の奥で、太い縄が軋み、繊維の一本一本が悲鳴を上げながら解けていく。領境の森の北、尾根のひとつ向こう。黒い靄がついに森の縁を越え、朝の光の下へ這い出してくる。遠目には、ただの霧にしか見えないだろう。けれど、聖眼を通せば、その靄の一粒一粒が、飢えの色をしていた。
「──父上!」
廊下から、兄の声が飛び込んでくる。剣の稽古場から駆け戻ってきたらしく、襟元が乱れ、額に汗が滲んでいる。鋼色の糸は、もう照れの朱をどこかに置き忘れて、ぴんと張り詰めていた。
「門番が、北の見張り櫓から狼煙を──」
「わかっている」
父の声が、低く、短く落ちた。それだけで、食堂の空気が一段冷える。狼公と呼ばれた男の声だった。私の肩に、大きな手のひらが一度だけ置かれ、すぐに離れていく。ほんの一秒の触れ方で、父は娘を抱きしめるのを堪えたのだと、聖眼は知っていた。
「リリィ、奥の部屋へ。エルナ、娘を頼む」
「──いいえ、お父さま」
自分の声が、思ったよりも、まっすぐに出た。鈴の高さのまま、けれど芯だけが、前世の聖女のそれに戻っていた。
「私も、行きます」
*
結論から言えば、父は反対した。兄も反対した。エルナは顔を蒼くして袖を握った。当然だ。十歳の令嬢が魔獣溢れの現場へ出たいと言えば、まともな大人は全員止める。私だって、前世で同じ立場なら、縄で縛ってでも奥へ押し込めただろう。
けれど私は、一言だけ添えた。
「私が行けば、誰も死にません」
嘘ではなかった。嘘ではないと、聖眼に映る自分の糸が教えてくれた。父の鋼色が、ほんの一瞬、娘の糸を透かし見るように細められ──それから、諦めとも信頼ともつかない色に、ふ、と揺れた。
「……馬車の奥から出るな。騎士の輪の内側にいろ」
「はい、お父さま」
*
北の街道は、もう静かではなかった。
馬車の揺れが、幼い尾骨に響く。窓の外、畑を走る農夫たちの背中、子を抱えて屋敷の方へ逃げてくる母親、犬の吠え声、鐘の音。三つ目の鐘が鳴った時には、もう前方の尾根から、黒い奔流が斜面を駆け下りてくるのが肉眼でも見えた。
中型の魔獣。狼に似た、けれど狼ではないもの。背に棘、顎に二重の牙、眼窩に赤い燐光。十数、二十、──数えるのが間に合わない。群れの奥に、丘ほどもある影が三つ、重く揺れている。大型。背の鱗が朝日を鈍く弾いて、まるで岩が歩いているようだった。
「盾列、構え! 槍、前へ!」
騎士団長の号令が飛ぶ。四十がらみの、鬚の濃い男。聖眼に映る糸は、鋼を何度も叩き直した古鉄の色だった。頼れる色。けれど、その糸の先端が、すでに少し、ほつれ始めている。前線の騎士たちの糸も、同じ。勇敢で、誠実で、──数が足りない。
最初の衝突は、呆気なかった。
先頭の中型が、盾列に体当たりをかける。騎士の盾が三枚、紙のように弾け飛んだ。悲鳴。血。土埃。二人目の騎士が、牙に肩を抉られて地面に転がる。槍を構え直す間もなく、二匹目、三匹目が突っ込んできた。団長が自ら前に出て、大剣を振るう。一匹の首が宙を舞い、けれどその背後から、大型の一頭が、ゆっくりと首をもたげた。
鉛色の喉が、膨らむ。
(──息を吐かせたら、前列が全員焼ける)
前世の記憶が、冷たく告げた。ヴァレンス辺境伯領・初夏の魔獣溢れ。あの日、東門で三十人の騎士が一瞬で炭になった。団長の名を、私は神殿の追悼名簿で読んだ。鬚の濃い、古鉄の糸の男の名を。
馬車の扉に、手をかけた。
「お嬢様、なりません!」
エルナの悲鳴を、私は聞かなかったふりをした。ドレスの裾を踏みしめ、幼い足で土の上に降りる。踵に伝わる地面の震動が、前世の処刑台の床板に似ていた。けれど、もう震えはしなかった。
*
「団長」
鈴の声が、戦場の喧騒を、まるで水面に落ちた雫のように、静かに割った。
不思議なことに、誰もが一瞬、振り返った。騎士も、魔獣も、風までもが。聖眼の奥で、大陸ひとつ分の海が、ゆっくりと水面を上げ始めていた。十歳の身体の内側に、星が沈んだ黒曜石の海が、静かに、静かに、満ちていく。
「下がってください。──前列、全員」
「お嬢様、何を──」
「早く」
団長の古鉄の糸が、一瞬だけ、娘の糸に触れた。その接触の刹那、男の背骨に、何かが走ったらしい。彼は理屈ではなく、戦場の勘で悟った。後ろの少女は、いま、自分より遥か遠い場所に立っている、と。
「全騎、後退! 盾を下ろせ! 姫様の後ろに回れ──!」
訓練された騎士団の動きは速かった。血に濡れた盾列が、波のように引いていく。その波が引ききった瞬間、大型の一頭が、ついに喉を限界まで膨らませた。鉛色が、内側から朱に灼けていく。魔獣の咆哮が、空気を裂こうとした──その寸前。
私は、詠唱を、しなかった。
ただ、胸の奥の海に、そっと指を浸した。
──上級浄化。前世で、大司祭七人が車座になって、半日かけて編んだ術。禁呪の手前、神代の光。
銀の光が、私の足元から、音もなく立ち上がった。
それは、炎ではなかった。熱はなく、風もなく、匂いもなかった。ただ、朝の光が千倍に濃くなったような、そういう銀色だった。光は円錐状に広がり、ゆっくりと、けれど抗いようのない速度で、前方の斜面を呑み込んでいく。先頭の中型が、牙を剥いたまま、輪郭からほろりと崩れた。崩れた、というより、そこに在る理由を、光に静かに問い返され、答えられずに、塵になった、という方が近い。
二匹目、三匹目、十匹目。群れが、次々と銀の中へ溶けていく。悲鳴も、断末魔もなかった。ただ、朝の空気に、乾いた砂が一瞬舞って、すぐに風が連れていった。
大型の三頭が、最後に残った。鉛色の喉が、今度は恐怖で膨らみかけ──膨らみきる前に、銀光がそれを撫でた。撫でた、としか言いようがない。巨体が、背の鱗から順に、ゆっくりと白く抜けていく。岩のような影が、砂の城のように崩れ、朝日の中へ還っていった。
銀の光が、ふ、と引いた。
斜面には、もう何も残っていなかった。踏み荒らされた土と、騎士たちが流した血の跡と、──朝の風だけ。
*
静寂が、長かった。
風が、ひとつ、畑を渡っていく音。誰かの馬が、不安げに前足で土をかく音。それ以外、何も鳴らなかった。騎士たちは、盾を下ろしたまま、誰一人、動けずにいた。
団長が、ゆっくりと、私の方へ歩み寄ってくる。古鉄の糸が、ほつれを直されたように、ぴんと張り直されていた。大剣を鞘に戻し、兜を脱ぎ、鬚の濃い顔を朝の光に晒す。その頬に、一筋、涙だか汗だかわからないものが流れていた。
そして、男は、私の前で、片膝をついた。
鎧の擦れる音。土に当たる金属の、重い音。
「……姫様」
声が、かすれていた。
「この命、──ヴァレンス家の、どの姫君より先に、あなたに」
騎士たちが、ひとり、またひとりと、同じように膝を折っていく。波のように、斜面全体に、銀の髪の少女を囲む円が広がっていった。
私は、その円の真ん中で、幼い指先を、そっと握り込んだ。掌に、まだ銀光の残滓が、ぬくもりとして残っている。温度のない、けれど確かに、私を私として呼び戻してくれる温度だった。
前世の処刑台で、私を見下ろした民衆の顔。そのどれともちがう顔が、いま、私を見上げている。恐れと、畏れと、感謝と、──信頼。糸の色は、全員ばらばらで、全員、まっすぐだった。
「お立ちください、団長」
鈴の声が、震えないように、奥歯で支えた。
「私は、ただの、領主の娘です」
団長は首を振った。立ち上がらなかった。
*
馬車に戻る途中、父が駆けつけてきた。
馬を降りる間も惜しんで、ほとんど転げ落ちるようにして、父は私の前に膝をついた。大きな手が、幼い肩を掴み、それから、言葉にならない息を吐いて、ただ、一度だけ、強く抱きしめた。鎧の冷たさの奥に、父の心臓の音がした。速く、乱れ、けれど確かに生きている音。
その肩越しに、私は、北の空を見た。
黒い靄は、もう、ない。結界の糸は、少女の銀光に撫でられたせいか、元より艶を取り戻して、朝の光の中で静かに張り直っている。
けれど、聖眼は、見てしまった。
魔獣が溶けた斜面の、いちばん奥。大型の一頭が最後に立っていた場所に、銀光にも消えなかった、小さな、黒い点が、ひとつ、残っている。
点は、人の手のひらほどの大きさだった。
形は、──紋章。
前世で、私を処刑台に送った派閥の、見覚えのある紋。
指先が、父の背に添えられたまま、ほんの一瞬、冷たくなった。幼い喉の奥で、鉄の味が、静かに戻ってくる。魔獣溢れは、自然の厄ではなかった。誰かが、撒いたのだ。十年前のこの辺境に、前世の宿敵の手が、もう、伸びている。
(──早い)
父の腕の中で、私は、誰にも聞こえない声で呟いた。
「今度は、間違えない」
北の風が、銀の髪を、ひとすじ、さらっていった。