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呪いの令嬢は処刑台で予言する

第8話 第8話「王子の仮面」

第8話

第8話「王子の仮面」

# 第8話「王子の仮面」

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ディランの執務室は、王宮の北翼にあった。

第三王子の部屋にしては質素だった。机の上に書類が積まれ、壁には地図と国境線の図面。装飾品の類はなく、窓から差し込む午後の光が、部屋の唯一の彩りだった。書類の山に混じって、ペンが無造作に転がっている。インク壺の蓋が少しずれていて、中身が乾きかけていた。書類に追われる日々を物語っている。部屋の隅に小さな書棚があり、背表紙が色褪せた政務関連の書物が隙間なく詰まっていた。趣味の本は一冊もない。この部屋には、王子の個人的な趣向が何も反映されていなかった。まるで部屋そのものが仮面を被っているかのようだった。

「座れ」

ディランの声は短かった。王族の格式は崩さないが、わたくしと二人のときは余計な修辞を省く。それは昔からだった。十歳の頃、「わたくしに命令しないでくださいまし」と噛みついたことを、ふと思い出した。あのときディランは「では、座っていただけますか」と言い直して、わたくしはなぜか余計に悔しくなった。

わたくしは椅子に腰を下ろした。革張りの椅子が軋んだ。革の匂いが鼻をかすめる。使い込まれた革特有の、温かみのある匂いだ。リオンは廊下で待たせた。ディランが「二人で話したい」と指定したからだ。

ディランが窓際に立っている。金髪に午後の光が当たり、一瞬、十歳の頃の少年の面影が重なった。あの頃の細い肩と、今の広い肩が、光の中で交差する。けれど、振り返った顔は大人のものだった。灰色の瞳が、まっすぐにわたくしを見ている。珍しいことだった。この半年、彼はわたくしの目を見なかった。

顎の線が硬い。唇が薄く結ばれている。何かを決めた人間の顔だった。目の下の隈が深く、窓からの光がかえってそれを際立たせていた。

「書状の件、読んだか」

「読みましたわ。婚約の見直し——つまり、解消の打診ですわね」

「……相変わらず、遠回りを嫌う」

「星詠みは、見えたものを見えたまま口にしますの」

ディランが、小さく息をついた。疲れた顔だった。目の下の隈が、執務室の薄暗がりの中で影になっている。窓辺に立つ彼の背後で、午後の雲がゆっくりと動いていた。

「解消の理由を聞くか」

「お聞きしますわ」

ディランが椅子に座った。机を挟んで、向かい合う。婚約者というより、交渉相手のような構図だった。机の上の書類の束が二人の間に壁のように積まれていて、それがまた距離を感じさせた。ディランの指が机の端を無意識に叩いている。こつこつと、小さく規則正しい音。この癖は昔からだ。考え事をしているときの癖。

「政略上の理由は複数ある。星詠みの掟破りの汚名を持つ令嬢との婚約は、王家への風当たりを強くする。第三王子の立場では、それを跳ね返す政治力がない」

「合理的ですわね」

「——だが、本音は別だ」

ディランの声が、低くなった。仮面が一枚、剥がれた音がした。声の質が変わった。王族の声ではなく、一人の青年の声。指の動きが止まった。

「お前が、壊れていくのを、見ていられない」

わたくしの手が、膝の上で止まった。指先が冷たい。

「八歳のとき、お前が叔母の流産を予言した日を覚えているか。叔母が泣き崩れた後、お前は中庭で一人で座っていた。私が声をかけたら、お前は笑って『当たってしまいましたわ』と言った。あの笑い方が——」

ディランが、言葉を切った。窓の外を見た。午後の光が彼の横顔を白く照らしている。睫毛の影が頬に落ちていた。

「——壊れ始めている人間の笑い方だった」

息が詰まった。覚えている。あの日、わたくしは泣きたかった。泣く代わりに笑った。星詠みは泣いてはいけないと、祖母に教えられていたから。頬が痛くなるほど笑って、中庭の石のベンチの冷たさだけが現実だった。ベンチの下で蟻が列を作っていて、わたくしはそれをずっと見つめていた。蟻の行列の方が、自分の心よりもよほど秩序立っていた。

「それ以来、お前の笑い方を見るたびに、私は——」

ディランが目を伏せた。灰色の瞳が、机の上の書類を見つめている。けれど、文字を読んでいる目ではなかった。もっと遠くを、もっと昔を見ている目だった。

「お前の予言が怖いのではない。お前が予言のために壊れていくのが、見ていられないだけだ。そして、私にはそれを止める力がない」

「ディラン殿下——」

「婚約を解消すれば、お前はファルネーゼ家に戻れる。王宮から離れれば、予言を求められる頻度も減る。宮廷の圧力からも逃れられる。——これは、お前を星詠みの掟から逃がすための布石だ」

わたくしは、長い間、黙っていた。窓の外で、鳥が一羽飛び立った。羽音が遠ざかっていく。机の上のインク壺から、乾いたインクの匂いがかすかに漂ってきた。

この人は、不器用なのだ。距離を置いたのは、嫌いになったからではない。壊れていくわたくしを見ていられなくて、けれどそれを直接言う言葉を持たなくて。だから半年間、手紙一通寄越さなかった。王族の仮面の下に、臆病な優しさを隠していた。

十歳のディランが「すごいな」と笑った日。あの笑顔は、わたくしの力を怖がっていなかった。けれど今のディランは、わたくしの力が奪うものの大きさを知っている。知ってしまったから、笑えなくなった。

(この人もまた、一人で背負っていたのだ)

「殿下。あなたの気持ちは、分かりましたわ」

「ならば——」

「けれど、わたくしは王宮から逃げません」

ディランの目が、わたくしに戻った。灰色の瞳が少し見開かれる。

「星紋がここまで広がっても、わたくしは星詠みです。予言の力を持つ限り、逃げたところで追いかけてくるのは運命ですわ。あなたが婚約を解消なさるのは、ご自由に。けれど、わたくしがここを去る理由にはなりません」

ディランが、かすかに笑った。苦い笑みだった。けれど、その苦さの中に、わずかな安堵のようなものが滲んでいた。唇の端が少しだけ上がり、目元の硬さがほんの一瞬だけ緩んだ。

「変わらないな、お前は」

「変わりましたわ。昔は一人で背負っていましたけれど、今は——」

言いかけて、やめた。リオンの名前を出すのは、この場では適切ではなかった。婚約解消を告げにきた相手の前で、別の男の名を口にするほど、わたくしは鈍くない。

「……今は?」

「一人ではありませんわ、と。それだけです」

ディランが、窓の外を見た。午後の光が傾いて、執務室の影が長くなっていた。彼の影が床を横切り、わたくしの椅子の足元まで伸びている。

「あの騎士か」

答えなかった。答える必要はなかった。ディランは、察しのいい人だ。

「分かった。婚約の件は、もう少し時間をくれ。——お前が王宮に残るなら、私も私の方法で動く」

「動く、とは」

「星詠みの掟改正に関して、議会で発言する。お前が予言を書き換えたことを、違法ではなく例外として処理するための根回しだ」

わたくしの目が、わずかに見開かれた。

「殿下が、そこまで——」

「勘違いするな。これは政治だ。お前個人のためではない。星詠みの制度が機能不全を起こしているのは、国政上の問題だ」

王族の仮面を被り直した声だった。けれど、仮面の下の温度が、さっきまでとは違っていた。温かかった。不器用な温もりが、言葉の硬さの裏側に、確かにあった。机の上で無意識に叩いていた指が止まっていた。

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執務室を出た。廊下にリオンが待っていた。壁に寄りかかり、腕を組んでいる。壁の石に背中を預けた姿が、妙に絵になった。廊下の蝋燭の光が赤毛を暗い銅色に染めている。わたくしの顔を見て、何かを読み取ったのか、小さく頷いた。

「終わりましたか」

「ええ。行きましょう」

廊下を歩き始めた。二歩、三歩。そこで、振り返った。理由は分からない。ただ、何かが引っかかった。靴の音が変わったのか、空気の温度が変わったのか。

執務室の扉が、もう一度開いた。

ディランの姿が見えた。その隣に——黒い髪が、あった。

セレスティアだった。

金色の瞳が、わたくしの方を一瞬だけ見た。そして、ゆったりと微笑んだ。まるで、最初からそこにいたかのように。ディランの傍に、自然に立っている。黒い手袋の指先が、扉の縁に軽く触れていた。彼女の纏う空気は冷たく、廊下の温度が一段下がったように感じた。

ディランの顔に、一瞬、困惑の色が走った。けれど、それはすぐに仮面の下に消えた。王族は表情を殺すのが上手い。けれど、今のは殺しきれなかった。

わたくしは、立ち尽くした。

セレスティアがディランの傍にいる。王宮付きの星詠みと第三王子。それは制度上、あり得る構図だった。けれど、あの微笑みの中に、わたくしは別のものを見た。計算。配置。誰かの手のひらの上で、駒が動いている感覚。胸の底が冷えた。冷たさが背骨を伝い、首筋にまで上ってくる。

「アイリーンさま?」

リオンの声に、わたくしは振り返った。

「——何でもありませんわ」

嘘だった。何でもなくはない。けれど、今この場で言葉にできるものではなかった。

廊下を歩きながら、わたくしは考えた。ディランの本心は、おそらく嘘ではない。彼はわたくしを守ろうとしていた。けれど、セレスティアがあの傍にいるということは——守り方を、セレスティアに教えられているのかもしれない。あるいは、セレスティアがディランの善意を利用しようとしている。

星紋が、右腕の上でじくりと痛んだ。昼間の執務室で座っていた間は忘れていた痛みが、廊下の冷えた空気の中で戻ってきた。

(気をつけなければ。ディランだけでなく、わたくし自身も——あの女の盤の上の駒にされかねない)

リオンが半歩後ろを歩いている。その足音だけが、わたくしを現実に繋ぎ止めていた。

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