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呪いの令嬢は処刑台で予言する

第6話 第6話「手紙の来ない婚約者」

第6話

第6話「手紙の来ない婚約者」

# 第6話「手紙の来ない婚約者」

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封蝋に、王家の紋章が押されていた。

ルルが朝餉と共に運んできた書簡。蝋の色は銀——第三王子の個人用の封だった。銀の蝋が窓からの朝日を受けて冷たく光っている。半年ぶりの、ディランからの手紙。わたくしは、左手で封を切った。右手では封蝋を剥がす力が入らない。蝋が割れる小さな音が、静かな部屋に響いた。割れた蝋の断面が銀色に光り、細かな破片がテーブルの上に散った。

文面は短かった。

『婚約の見直しについて、近日中に話し合いの場を設けたい。詳細は使いの者に伝える。——ディラン』

見直し。婚約の見直し。婉曲な表現だが、意味は明瞭だった。解消の打診だ。

インクの色が濃い。書き直した形跡がないのは、迷わずに書いたということだ。あるいは、何度も下書きを重ねた末に、短い言葉に削ったか。どちらにしても、ディランらしい書簡だった。筆の角度が一定で、文字の間隔が均等。感情を排した、政務文書のような筆致。けれどその均一さ自体が、かえって何かを堪えていることの証拠に見えた。

ルルが、テーブルの向こうからわたくしの顔を覗き込んでいた。丸い目が不安に揺れている。お団子に結い上げた栗色の髪が、首を傾けたせいで少し崩れかけていた。

「お嬢さま……何と書いてありましたか」

「ディラン殿下から。婚約について、お話がしたいそうですわ」

「婚約って——」

ルルの目が大きくなった。わたくしは書簡を畳み、封筒に戻した。手が震えなかったのは、覚悟していたからだ。半年間の沈黙が、とうとう言葉になっただけのこと。蝋の欠片がテーブルの上に残っていた。銀色の破片。わたくしたちの婚約のように、形を失いかけている。

書簡を机の端に置いて、紅茶に手を伸ばした。けれど、カップを持ち上げたところで、手が止まった。紅茶の水面に、幼い頃のディランの顔が映った——わけではない。ただ、思い出しただけだ。紅茶が揺れて、琥珀色の液面に天井の白い漆喰が映っていた。

十歳の頃。宮廷の庭園で、わたくしはディランに予言を見せたことがある。銀盤を覗かせて、「明日、中庭の泉に白鳥が来ますわ」と言った。翌日、本当に白鳥が来た。ディランは目を丸くして、それから、澄んだ声で笑った。あの頃のディランの笑い方は、声が高くて、少し息が混じっていて、耳に残る笑い方だった。

「すごいな、アイリーン。お前の目は、星と繋がっているんだな」

あの日のディランの笑顔を、わたくしはまだ覚えている。世界中の誰よりも、あの言葉が嬉しかった。「呪い」ではなく「すごい」と言ってくれた、最初の人だった。わたくしの力を怖がらず、純粋に驚いてくれた人。あの庭園には白い藤棚があって、花の甘い匂いの中で、二人並んで泉を眺めた。ディランの指が水面を弾いて、白鳥に向かって小さな波を送った。白鳥は驚いて羽を広げ、水飛沫がわたくしたちのドレスと外套を濡らした。二人で声を上げて笑った。あれがたぶん、わたくしとディランが最後に一緒に笑った日だ。

けれど、年月が過ぎ、わたくしの予言は死を当てるものに変わった。叔母の流産、従兄の戦死。予言のたびに、人が遠ざかった。白鳥を呼ぶ力と、死を告げる力は同じものなのに、人は前者だけを望んだ。ディランも、例外ではなかった。

「お嬢さま」

ルルの声で、思い出の水面が揺れた。紅茶が冷めかけていた。表面に薄い膜が張り始めている。

「殿下は、お嬢さまを嫌いになったわけじゃないと思います。だって、あの処刑台の日、殿下はわざわざ来てくださったじゃないですか」

「来てくれた理由が、好意なのか義務なのか、わたくしには分からないのよ、ルル」

「でも——」

「いいの。婚約は、もともと政略。ディラン殿下がご自身の道を歩まれるなら、わたくしが引き止める理由はないわ」

そう言いながら、胸の奥に小さな痛みが走った。恋心ではない。もっと昔の、遠い日の約束が崩れるような、そういう痛みだった。十歳のわたくしが「ずっと一緒に星を見ましょうね」と言って、ディランが曖昧に笑った日。あの曖昧な笑みの意味を、今なら分かる気がした。あれは「約束したい。けれどできない」という笑みだったのだ。

窓の外で小鳥が鳴いた。高い、澄んだ声。春の盛りの鳴き声だ。何の憂いもないように、繰り返し、繰り返し鳴いている。その無邪気さが、今のわたくしには少しだけ眩しかった。

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午後、わたくしは離宮の奥にある一室を訪ねた。

母の部屋だった。

母が亡くなったのは、わたくしが五歳のときだ。病死と聞かされていた。部屋はそのまま残され、年に一度、ルルの前任の侍女が掃除に入るだけだった。わたくしは、この部屋に入るのは三年ぶりだった。

扉を開けると、埃と古い花の香りが混じった空気が流れ出た。埃は甘く、花は苦い。十二年間、密封されていた時間の匂いだ。部屋の空気には、もうひとつ別の匂いが混じっていた。紙の匂い。古い便箋と、乾いたインクと、経年した革の匂い。母が毎日触れていたであろうものたちの、積もった気配だ。カーテンの隙間から差し込む夕日が、部屋の中を琥珀色に染めていた。光の筋の中で、埃の粒子がゆっくりと舞い上がる。粒子の一つひとつが金色に光って、まるで部屋の中に小さな星空が生まれたようだった。

母の机。母の椅子。母の鏡台。椅子の座面は少し沈んでいて、母が座っていた形が残っている。十二年経ってもまだ残る形。母の体の記憶が、この椅子には刻まれている。鏡の前に、干からびた薔薇の花瓶がひとつ。薔薇の花弁は黒く縮んでいたが、花瓶の水は涸れていなかった。——誰かが、定期的に水を足している。

「ルル、この水は……」

「あたしが、月に一度だけ。お嬢さまのお母さまに、お花を替えてあげたくて」

ルルの声が、少し震えていた。ルルは母を知らない。けれど、アイリーンの母だから、大切にしたいと思ってくれている。わたくしは、黙ってルルの手を握った。小さな手が、わたくしの手を握り返す。その力が強くて、少し驚いた。指の節がわたくしの手のひらに食い込むほどの力だった。

机の引き出しを開けた。便箋の束、乾いたインク壺、折れた羽根ペン。インク壺の蓋は半開きのままで、中のインクは完全に干上がっていた。干上がったインクの表面に細かなひび割れが走っていて、それが壊れた鏡に似ていた。最後に母がペンを置いた日が、そのまま凍っている。そして——革表紙の日記帳。

手に取った。古い革の匂いがした。手のひらに馴染む大きさで、何度も開かれた跡がある。背表紙が少し割れていた。わたくしの母の字だった。丸みのある、けれど芯の通った筆跡。一文字一文字が丁寧に書かれていて、急いだ形跡がない。母は、日記を書くとき、きっと椅子に深く腰掛けて、窓からの光を頼りに、ゆっくりとペンを走らせたのだろう。

最初の頁には、日付と共にこう書かれていた。

『星紋が、右手に現れた日のこと』

わたくしの心臓が跳ねた。母にも、星紋が。ページをめくる。一枚、また一枚。紙が指先で微かに音を立てる。古い紙特有のかさかさした感触が指に伝わる。母の言葉が、時間を超えて語りかけてくる。紙の匂いを吸い込むたびに、知らない母に少しだけ近づいている気がした。

『今日、銀盤に王家の未来が映った。恐ろしいものだった。けれど、見なかったことにはできない』

『セレスティアと話した。彼女は、書き換えを勧めなかった。けれど、止めもしなかった。あの子は、いつも、わたくしの選択を尊重してくれる』

『予言を書き換える決意をした。代償は覚悟している。けれど、アイリーンにだけは——』

そこで、ページが途切れた。

わたくしは手を止めた。残りの頁を探した。三枚、いや四枚ほどが、根元から破り取られていた。切り取りではない。力任せに引き千切った跡だった。紙の繊維が不揃いに残っていて、急いだ手つきが伝わってくる。繊維の断面に触れると、ざらりとした感触がした。誰の指がこの紙を引き千切ったのか。その手は震えていたのか、それとも決然としていたのか。

「母は、何を書いていたのだろう」

声に出していた。破られた跡を指でなぞった。紙の繊維が、爪に引っかかった。

ルルが、わたくしの傍で息を呑んでいた。

「お嬢さま……破ったのは、誰でしょう」

分からない。母自身が破ったのか。それとも——。

セレスティアの顔が浮かんだ。「あなたのお母さまとは古い友人だった」と言った女。母の日記に名前が出てくる女。黒い手袋の指先が、この日記に触れたのだろうか。あの黒く塗られた爪が、この紙を破ったのだろうか。

日記帳を胸に抱いた。革の表紙が体温で少しずつ温まっていく。母の温もりではない。わたくしの温もりが、十二年の冷たさを溶かしている。夕日が傾き、部屋が影に沈んでいく。母の鏡台の鏡に、わたくしの姿が映った。銀灰色の髪、淡い紫の瞳。母に似ていると、父に言われたことがある。鏡の中のわたくしが、母の面影を重ねて、一瞬だけ別人に見えた。鏡面が曇っていて、映り込んだわたくしの輪郭が柔らかくぼやけていた。それがかえって、母の面影を強くした。

(母は、何を見て、何を選んだの)

答えは、破られた頁の向こうにある。そしてその頁を持っているのは、おそらく——あの金色の瞳の女だ。

わたくしは日記帳を抱えたまま、部屋を出た。背後で、干からびた薔薇の花弁が、ひとひら机の上に落ちた。乾いた音がした。花弁が割れる音ではなく、何かが始まる音のように聞こえた。

廊下に出ると、夕風が頬を撫でた。母の部屋の時間が止まった空気から、生きている世界の風の中へ。その温度差に、一瞬だけ目眩がした。

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