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呪いの令嬢は処刑台で予言する

第26話 第26話「糸の片方」

第26話

第26話「糸の片方」

# 第26話「糸の片方」

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わたくしは、星の海にいた。

暗闇ではなかった。無数の光の点が、四方八方に広がっている。星だ。けれど夜空の星ではない。もっと近く、もっと鮮明で、手を伸ばせば触れられそうなほど近くに、光の粒が漂っている。粒の一つひとつが微かに色を持っていた。青、金、銀、白。それぞれの色が微妙に異なり、同じ色は二つとなかった。

星の糸が見えた。

光の点と点を結ぶ、金色の細い線。無数の線が交差し、網の目のように広がっている。未来の糸。始祖エレーヌが手繰ったもの。糸は生きているかのように微かに振動し、触れれば音を発しそうだった。琴の弦のように張り詰めた糸もあれば、弛んで波打つ糸もある。

(ここが——銀盤の向こう側。扉の内側。母が壊せと言った鏡の、さらに奥にある世界)

足元がない。上も下もない。ただ星の糸だけが、わたくしを包んでいる。体の感覚が曖昧だった。右半身の痛みは消えていた。星紋の重さもない。ここでは、わたくしはただの意識として存在している。肉体の制約から解放されている。

空気の匂いがした——いや、匂いではない。記憶の匂いだ。糸の中に、過去の予言の残像が編み込まれている。

母が笑っている。幼いわたくしを抱いて。母の腕の温もりが、糸を通じて伝わってくる。——それは予言ではなく、記憶だった。銀盤を通して、わたくし自身の記憶が星の糸に編み込まれている。わたくしが見たすべてのもの、感じたすべてのものが、ここに刻まれている。

祖母の姿。星を指差して笑う晩年の祖母。狂気の中で。祖母の指は骨ばっていて、指先が空を切るたびに銀色の光が散っていた。あの光を怖いと思ったのは、五歳のわたくしが最初に感じた恐怖だった。

叔母の流産。従兄の戦死。予言として見た、数えきれない死と悲劇。それらすべてが、糸の中に刻まれていた。一本一本の糸に、わたくしが見た未来の残像が走っている。触れれば、その未来が蘇る。

「——重い」

呟いた。声が星の海に吸い込まれた。反響もなく、ただ消えた。星詠みの人生の重さが、ここに凝縮されている。一人で背負ってきた重さ。九年間の予言。数えきれない夜の銀盤。涙を堪えた朝。笑いたくないのに笑った日。すべてが糸として編み込まれ、わたくしの周りに網のように広がっている。九年間、一人で見続けてきた未来の重さ。

糸が絡まっている場所があった。黒く澱んだ結び目。周囲の糸が暗い色に染まり、光が吸い込まれている。その結び目から、暗い糸が伸びている——わたくしの死の予言だ。秋の大広間で倒れるわたくし。その未来が、糸として固定されている。結び目は硬く、何層にも重なっていた。時間が経つほど固くなるのだろう。

解かなければならない。この結び目を。ここにある限り、わたくしの死は確定している。糸が固定されている限り、未来は変わらない。

けれど、始祖は言った。銀盤は鏡ではなく糸車だと。糸車で紡げるものは、解くこともできるはずだ。母が辿り着けなかった答えに、わたくしは辿り着いた。ここに立っている。星の海の中で、死の結び目の前に立っている。一人ではない。リオンの手が、すぐそこにある。

手を伸ばした。右手は——動いた。この場所では、星紋の制約がない。わたくし自身の意識だけが存在している。右手も左手も、同じように動く。体が戻っている。ここでは、壊れていない自分でいられる。

結び目に触れた。指先に、冷たい抵抗があった。固い。氷のように固く、指先を弾き返す。爪を立てても、糸は解れない。一人では解けない。始祖の言葉通りだった。

「こちらへ来い」

声が聞こえた。リオンの声だ。低く、穏やかで、けれど強い声。星の海の中を、声が波のように伝わってきた。

振り返った。星の海の彼方に、金色の光が一点、輝いている。リオンだ。彼の意識が、銀盤を通してこの場所に触れている。外側から、糸の片方を持って。金色の光が脈打っている。彼の心臓の鼓動と同じリズムで。

「糸の片方は、俺が持っている」

声が近づいてくる。金色の光が大きくなる。光の中に、リオンの手が見えた。星の糸の向こう側から伸びてくる手。左手。火傷の跡が金色に光り、糸の片方を握っている。瘢痕の肌が光を放ち、その光が星の糸と共鳴している。

わたくしは、結び目から手を離し、リオンの手に向かって歩いた。歩くというより、泳ぐように。星の海を渡って。糸が体を擦り、微かな音を立てた。高い音。風鈴に似た、透明な音。

リオンの手が見えた。左手。火傷の跡が金色に光っている。糸の片方を握っている。指の形が見える。剣胼胝の硬い指先。けれど、その指は今、武器ではなく糸を握っている。

リオンの手が近い。あと少しで届く。指先が見える。剣胼胝のある指。左手の火傷の跡が金色の光を放ち、暗い星の海の中で灯台のように光っている。

わたくしは——初めて、この場所で「助けて」と言った。

「助けて。一人では、この結び目を解けない」

声が震えた。星詠みは助けを求めない。観測者は、一人で世界を見下ろす者だ。けれどわたくしは、もう観測者ではない。処刑台でリオンの命を救った日から。銀盤の中で泣いた夜から。ずっと、もう——わたくしは、この物語の中にいた。

「助ける。それが、俺のここにいる理由だ」

リオンの手が、わたくしの手を掴んだ。温かかった。星の海の中で、彼の温もりだけが、生きている世界と繋がっていた。指と指が絡まり、手のひらが重なった。火傷の跡とわたくしの肌が触れ合い、金色の光が二人の手から溢れた。

二人で、結び目に手を伸ばした。リオンが片方の糸を持ち、わたくしがもう片方を持つ。糸の感触が手のひらに伝わった。冷たい糸と温かい糸が交互に走っている。暗い糸の下に、金色の糸が隠れている。引っ張った。結び目が震えた。少しずつ、少しずつ、ほどけていく。糸が一本解れるたびに、小さな光の粒が散った。

暗い糸が解れ、その下から新しい糸が現れた。金色の、温かい糸。わたくしが死なない未来の糸。その糸は柔らかく、触れると指先に温もりが伝わった。日だまりの中で眠るときの温もりに似ていた。生きている温もり。

全部は解けなかった。結び目は複雑で、いくつもの層が重なっている。何年もかけて固められた結び目は、一度では解けない。けれど、最初の一つがほどけた。それだけで、星の海の色が変わった。少しだけ、明るくなった。暗い澱みが薄れ、光の粒が増えた。黒い結び目の周囲に、金色の光が差し込んでいる。次に来たときには、もう少し解けるだろう。希望が、目に見える形でそこにあった。

「帰りましょう」

リオンが言った。声に焦りがあった。

「まだ——」

「十分です。残りは、目が覚めてから。体が持たない」

リオンの声に焦りがあった。外の世界で、わたくしの体が限界に近いのだろう。彼は外側と内側の両方を感じている。糸の片方を持つ者として、わたくしの体の状態が彼にも伝わっているのだ。

わたくしは頷いた。名残惜しかった。けれど、リオンの焦りは本物だった。リオンの手を握ったまま、星の海から浮上した。光が——遠くなっていく。星の糸が指先から離れ、光の粒が視界の端に流れていく。

最後に、一つの声が聞こえた。母の声。

「よくやったわ、アイリーン」

温かい声だった。薔薇の匂いがした。母の部屋の、あの古い薔薇の匂い。目覚めの直前に聞いた、幻聴かもしれない声。けれど、温かかった。胸の奥で、何かが柔らかくほどけた。結び目ではない。もっと小さな、けれど同じくらい固く結ばれていたもの。母を失った悲しみの結び目が、ほんの少しだけ緩んだ。

星の海が遠ざかる。糸の光が薄れ、星の粒が視界の端に流れていく。最後に、一本だけ——金色に輝く太い糸が見えた。それはわたくしとリオンを繋ぐ糸だった。二人の手から伸び、星の海を貫いて、どこまでも続いている。

その糸は、これまで見たどの糸よりも温かく、どの糸よりも強かった。始祖が「想いが届く者」と呼んだもの。予言でも掟でもなく、二人の間に生まれた、ただの絆。

糸を握りしめたまま、わたくしは意識の水面へ浮上した。

暗闇が薄れ、光が差し込んでくる。瞼の向こうに、現実の世界が待っている。広間の白檀の残り香が鼻先をかすめた。石畳の冷たさが背中に触れている。痛みと、冷たさと、けれど——温かい手の感触が。リオンの手。まだ、わたくしの手を握っている。星の海の中でも、現実の世界でも、離さなかった手。

目を開ける前に、もう一度だけ、母の声を思い出した。

「よくやったわ、アイリーン」

ありがとう、母さま。わたくしは——まだ、生きている。リオンの手の温もりが指先にある。それだけで、十分だった。

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