第25話
第25話「銀盤の覚醒」
# 第25話「銀盤の覚醒」
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倒れたわたくしの手の中で、銀盤が変わった。
——と、後からリオンに聞いた。
わたくしの意識は暗闇の中にあった。痛みは消えていた。代わりに、体全体が銀色の水の中に沈んでいくような感覚があった。水は冷たくなかった。温かくもなかった。ただ、重い。全身を包む重力が、わたくしをゆっくりと深い場所へ引きずり込んでいく。浮かび上がれない。けれど、苦しくもない。ただ——遠くなっていく。世界が、遠くなっていく。蝋燭の光も、人の声も、石畳の冷たさも。すべてが水面の上に残され、わたくしだけが沈んでいく。
水の底に、かすかな光が見えた。母の面影に似た、淡い銀色の揺らぎ。手を伸ばしたかったが、体が動かなかった。沈むことしかできない。ただ、沈んでいく。
広間では、混乱が起きていたらしい。
リオンがわたくしに駆け寄った。わたくしの体を抱き起こし、名前を呼んだ。「アイリーンさま」と。けれど返事はなかった。目は閉じたまま、呼吸は浅く、右半身の星紋が激しく脈打っていた。銀色の紋様が自ら発光し、わたくしの体が淡い光に包まれていたという。
議員たちが叫び、椅子を蹴って立ち上がる者もいた。衛兵が剣に手をかけたが、何を斬ればいいのか分からず立ち尽くしている。星詠みの代償は剣では切れない。セレスティアが動けなくなっていた。金色の瞳が見開かれ、黒い手袋の手が口元を押さえていたとルルが後から教えてくれた。彼女の顔には、驚きと——自責が浮かんでいたという。「まだ間に合ったのに」と、唇が動いたのを、近くにいた議員が聞いていた。ディランが王族席から飛び降りて駆け寄った。白い軍服の裾が翻り、肩章が蝋燭の光を散らした。
「医師を呼べ!」
けれど、医師に治せるものではなかった。これは病ではない。星詠みの代償だ。何百年もの掟の重さが、一人の体に降りかかっている。薬も手術も、人の手では止められない。
リオンは、わたくしの手を握った。冷たくなった右手を、両手で包んだ。左手の火傷の跡がわたくしの星紋に重なった。温もりが流れ込んできた——はずだが、わたくしの意識は暗闇の中にあり、感じ取れたのはかすかな脈動だけだった。遠い場所で、誰かが手を握っている。その感触だけが、暗闇の中の灯台のように、かすかに届いていた。
そのとき——銀盤が光った。
石畳に転がっていた銀盤が、ひとりでに浮き上がった。広間の人々が息を呑んだ。銀面に亀裂が走った。蜘蛛の巣のように細い亀裂が放射状に広がり、鏡面が割れていく。けれど砕け散るのではない。銀の層が花弁のように一枚ずつ剥がれ落ち、その下から——金色の面が現れた。
母が仕込んだ制御装置が、解けた。わたくしの覚悟が——意識がない中でも、銀盤に届いたのだ。広間で全力を出し切ったこと。自分の死を覚悟しながら、それでもセレスティアに立ち向かったこと。母が求めた「覚悟」は、まさにこれだったのかもしれない。
「金色に——」リオンが呟いた。声が震えていた。
金色の銀盤。いや、もう銀盤ではない。金盤だ。表面に糸のような光の筋が走っている。糸車。始祖が「糸車」と呼んだもの。金色の面の上で、無数の細い光の線が交差し、網を編むように動いていた。
リオンの手が、わたくしの手を通して銀盤に触れていた。わたくしの冷たい手を握ったまま、彼の指先が金盤の縁に触れていた。触れた瞬間、彼の左手の火傷の跡が金色に光った。痛みではない。温もりだ。強く、深い温もりが、彼の手からわたくしの体に流れ込んでくる。火傷の跡に沿って走る金色の光が脈打ち、わたくしの星紋と共鳴した。
広間の人々が息を呑んだ。議員たちが椅子の背もたれに押しつけられるように後ずさった。衛兵が目を覆った。光が強すぎて直視できなかったのだ。セレスティアが一歩前に出かけて、足を止めた。金色の瞳に、金色の光が映っていた。
銀盤——金盤から、光の糸が立ち上った。無数の糸が天井に向かって伸び、広間を金色の光で満たした。星の糸だ。未来を織る糸。始祖エレーヌが手繰ったものと、同じ糸。光の糸が蝋燭の炎をすり抜け、列柱を包み、壁画の始祖の顔を照らした。壁画の中のエレーヌが、微笑んでいるように見えた。
リオンは、わたくしの手を離さなかった。冷たくなっていくわたくしの手を、温め続けていた。彼の手のひらの汗が、わたくしの指の間に滲んでいた。必死だったのだ。冷静に見えるこの人が、手のひらに汗をかくほど。
広間の空気が金色に染まっていた。蝋燭の炎が金色の光に呑まれ、広間全体が太陽の中にいるような明るさになった。議員たちが目を覆い、衛兵が後ずさった。セレスティアだけが、金色の光の中で立ち尽くしていた。手が震えている。黒い手袋の下で。
「アイリーン」
初めて、敬称なしで名前を呼んだ。広間の誰もがそれを聞いた。王族も、議員も、セレスティアも。けれどリオンは気にしなかった。彼の世界には、今、わたくししかいなかった。
「こちらに来い。糸の片方は、俺が持っている」
口調が変わった。「私」ではなく「俺」。公式の場で、護衛の礼節を脱ぎ捨てた。剥き出しの声だった。
わたくしの意識の中に、声が届いた。
暗闇の中に、金色の光が一筋、差し込んだ。細い光の線が、暗闇を縦に割った。
光の向こうに——リオンの碧眼が見えた。星の糸の中で、彼が手を伸ばしている。左手の火傷の跡が金色に光り、糸の片方を握っている。彼の顔は見えない。けれど目だけが見える。碧色の瞳。その中に、わたくしの姿が映っていた。
わたくしは、暗闘の中で手を伸ばした。右手は動かない。けれど、左手が——星紋のない、わたくし自身の手が、リオンの手に向かって伸びていく。重い水の中で腕を伸ばすように。ゆっくりと、けれど確かに。
指先が、触れた。
彼の指先は温かかった。暗闇の中で、その温もりだけが生きている世界からの便りだった。
金色の光が弾けた。広間が、光に包まれた。金色の光が壁を、天井を、床を覆い尽くし、一瞬だけ、広間が星の海になった。
意識の底で、わたくしは聞いた。始祖エレーヌの声——のようなものが。
『扉が開いた。紡ぎなさい。二人で』
銀盤から溢れた光が、わたくしの体を包んだ。星紋が、光の中で揺らいだ。消えたのではない。変化した。銀色が金色に変わり、脈打ちが穏やかになった。痛みが、引いていく。冷たさが温もりに溶けていく。右半身を覆っていた石の鎧が、金色の絹に変わるような感覚だった。
リオンの手にも、星紋が現れた。薄い金色の紋様が、火傷の跡に重なるように浮かんでいる。代償が——分散された。二人の間で、力が分かち合われた。
光がゆっくりと収まった。広間に静寂が戻った。蝋燭の炎が、元の穏やかな揺れに戻った。
わたくしは、まだ意識を取り戻していなかった。けれど、呼吸は安定し、顔色が戻っていた。右頬の星紋が、銀色から金色に変わっていた。リオンが、わたくしを抱きかかえたまま、広間の床に座り込んでいた。軍服の膝が石畳についている。
彼の碧眼から、一筋の涙が落ちた。わたくしの頬に落ち、温かい跡を残した。
「——よかった」
その一言を、わたくしは聞いていなかった。けれど、後から、ルルが教えてくれた。泣きながら。
「リオンさまの涙が、お嬢さまの頬に落ちたんです。そしたら、お嬢さまの頬の色が少しだけ戻って——あたし、そのとき初めて、大丈夫だって思えたんです」
ルルの話を聞きながら、わたくしはその場面を想像した。広間の石畳の上で、リオンに抱きかかえられているわたくし。金色の光に包まれたわたくし。そして、彼の涙。
涙は温かかっただろう。リオンの体温と同じ温度の涙が、わたくしの頬に落ちた。それが、最後の一押しだったのかもしれない。銀盤の覚醒に、彼の覚悟が——彼の涙が——必要だったのかもしれない。
始祖は言った。「糸の片方を持つ者は、星詠みを愛する者でなければならない」と。愛するということは、涙を流すということだ。相手のために、心が揺れるということだ。
セレスティアも立ち尽くしていたという。金色の光が広間を満たしたとき、彼女の表情は——驚きと、悲しみと、そして微かな希望が混じったものだったとディランが後から語った。「あの光を見たとき、セレスティアの目が変わった」と。
広間にいた全員が、あの金色の光を見た。始祖の時代以来、数百年ぶりに銀盤が本来の姿を取り戻した瞬間を。星詠みの力が「見る力」ではなく「紡ぐ力」であることを。
その光景は、きっとこの国の歴史に刻まれるだろう。後の世の年代記に、この日のことが記されるかもしれない。けれど今のわたくしにとって、一番大切なのは——リオンの涙の温もりだけだった。