第9話
第9話「嵐の夜の来訪者」
# 第9話「嵐の夜の来訪者」
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その夜の嵐は、春の終わりを告げるように激しかった。 雷鳴が屋根瓦を揺らし、雨が窓硝子を横殴りに打ちつける。風が屋根裏の隙間から入り込んで、蝋燭の炎を何度も消しかけた。私は毛布を肩に巻いて、窓辺の鉢植えが風で倒れないように片手で押さえていた。タイムの双葉が雨粒に打たれて震えている。もう片方の手で窓の隙間に雑巾を押し込んだが、風が強すぎて意味がなかった。 この嵐は夕方から始まった。西の空が鉛色に沈み、やがて空全体が重い幕で覆われた。夕食の席で叔母が「嫌な天気ね」と眉をひそめ、リゼットが「雷は怖い」と言った。セレナは黙って食事を続けていた。 叔父の顔色が妙に悪かったのを、私は見逃さなかった。額に薄い汗が浮き、目が泳いでいた。何かを待っている人間の目だった。あるいは、何かを恐れている人間の。スープを持つ手が一度だけ震えたのを、叔母も気づいていたかもしれない。 夜の十時を過ぎた頃だった。 階下で、扉を叩く音がした。 嵐の轟音の合間を縫うように、規則正しい三回のノック。それが繰り返される。正面玄関ではない。屋敷の裏手、叔父の書斎に面した小さな通用口だ。客人ではなく、知られたくない来訪者が使う口。 使用人はもう引き上げている。叔母と従姉妹たちは寝室に入ったはずだった。 足音が聞こえた。叔父が一人で階段を降りていく、重い、覚悟を決めたような足取り。叔父はこの訪問を予期していたのだ。 私は屋根裏の戸口にそっと近づき、耳を当てた。嵐の轟音と雷鳴の隙間を縫って、声が断片的に届いた。 「──夜分に失礼する。リルティング殿、少しお話を」 知らない男の声だった。低く、落ち着いているが、どこか有無を言わせない圧がある。貴族のような滑らかな口調だが、そこに潜む硬さは、命令に慣れた人間のものだった。 「こんな時間に何事だ。明日の朝にでも──」 「明日では遅いのです。リルティングの文書について、お伺いしたい」 リルティングの文書。 その言葉を聞いた瞬間、血管の中の血が全部凍った気がした。母の手帳に書かれていた文書。母が「この国のために」守ろうとした文書。それを、見知らぬ男が、嵐の夜に叔父の家を訪ねてきて口にしている。 裸足のまま、音を立てないように階段を降りた。古い板が軋まないよう、壁際のきしみの少ない場所を選んで足を運ぶ。二年間この家で暮らした経験が、板の一枚一枚の癖を体に覚え込ませていた。二階の廊下を進み、書斎の扉の手前で壁に背をつけた。扉は半分閉まっていて、隙間から灯りが漏れている。 嵐の音が会話を断続的に掻き消す。けれど、身を屈めて耳を寄せると、男の声が間欠的に聞こえた。 「──あの女の娘が、持っているはずです」 「娘は何も知りません。あの子はただの──」 「ただの、何です。あの女──あなたの義姉は宮廷侍女でした。侍女の中でも、王家の財務記録室に出入りを許された数少ない人間の一人です。文書の写しを作ったことは、我々も把握しています。リルティング殿、あなたが文書を持っていないのなら、娘が持っている。どちらかです」 叔父の声が震えていた。怒りではない。恐怖だ。叔父は怯えている。この男を、あるいはこの男の背後にある組織を。 「……文書の件は、兄の妻が独断でやったことだ。私は一切関知していない。エメラにも何も話していない」 「そうでしょうとも。ですから、お嬢さんの持ち物を確認していただきたいのです。母親の遺品──手帳か何か、持っていませんか。あの女は几帳面な性格だった。記録を残さずにはいられない人間でした」 心臓が喉の奥まで押し上がった。母の手帳。枕の下に隠してあるあの手帳を、この男は探している。母の性格まで知っている。「あの女」と呼ぶ口調に、長い監視の気配があった。 「娘の部屋を調べろと言うのか」 「お願いしているのです。穏やかに済ませたいのは、お互い様でしょう。あの文書が外に出れば──リルティング家にとっても不都合が生じます。あなたが兄上の遺産をどのように処理されたか。その経緯も、文書と無関係ではない」 脅迫だった。丁寧な言葉を纏った脅迫。叔父の遺産処理にも、何か弱みがあるらしい。この男はそれを知っている。計算書の「邸宅修繕費 金貨四百枚」が脳裏をよぎった。あの架空の修繕費と、この脅迫は繋がっているのかもしれない。 叔父は長い間返事をしなかった。嵐の風が窓を叩く音だけが続いた。雷が光り、一瞬だけ廊下が白くなり、また闇に沈む。 「……考えておきましょう。今夜はお帰りください」 「では、お言葉に甘えて。一週間、お待ちします。賢明なご判断を」 足音が遠ざかった。通用口の扉が閉まる音。嵐の風がその隙間から最後の一吹きを送り込んで、廊下の燭台の炎を大きく揺らした。 叔父が書斎の机に崩れるように座る気配がした。深い溜息が聞こえた。それは、長い間隠してきた何かの重さに潰されかけている人間の音だった。 私は壁に背をつけたまま、動けなかった。呼吸が浅く速くなっている。膝が震えていた。手の甲に爪が食い込むほど拳を握りしめていた。 あの男が探しているのは、母の文書だ。母が影の郵便局の封印棚に隠した、王家の財務不正の記録。そしてその文書への手がかりが、母の手帳と銀の鍵にある。あの男は、私がそれを持っていることを──今はまだ、知らない。でも叔父が調べろと言われれば、この小さな屋根裏部屋で隠し通せるだろうか。 音を殺して屋根裏に戻った。二階の廊下を通り過ぎるとき、セレナの部屋の扉の隙間から、か細い灯りが漏れていた。起きているのか。嵐の音に紛れて、何かが聞こえた気がしたが、確かめる余裕はなかった。 自分の部屋に入った瞬間、違和感に気づいた。 微かだが、物が動いた気配。机の上の便箋の束がわずかにずれている。引き出しの取っ手に、私のものではない指の跡。窓辺の鉢は動いていないが、枕元の蝋燭の位置が数センチ違う。 誰かが、嵐の最中に、この部屋に入った。 枕の下を探った。手帳と鍵はあった。動かされた形跡はない。けれど、便箋と手紙の束──ユリアン様からの手紙──は確かに触られていた。紐の結び方が、私の結び方と違う。 誰が。嵐の夜に来た男ではない。あの男は書斎にいた。だとすれば、この家の中の誰かだ。使用人のアンナか。叔母か。叔父自身か。あるいは──セレナか。 手帳をドレスの内側に縫い付けた布ポケットに移した。鍵は首に紐で下げた。冷たい銀が素肌に触れて、鼓動と一緒に揺れた。もう枕の下には置けない。身体から離さない。 窓の外で稲光が走った。部屋が一瞬白く照らされ、壁に私の影が映る。すぐに闇が戻った。香草の鉢は無事だった。タイムの双葉も、嵐に打たれながらまだ立っていた。あの小さな茎が、こんな風に耐えている。 震える手で便箋を取り出した。ユリアン様に手紙を書かなければ。今すぐに。影の郵便局経由では間に合わない。明日の朝一番で、騎士団の通用口に直接届けなければ。 ペンにインクを含ませた。手が震えて、最初の文字が滲んだ。書き直す余裕はなかった。 『ユリアン様。緊急のお願いがあります。 今夜、叔父の家に見知らぬ男が訪ねてきました。「リルティングの文書」を探しています。母が守った文書です。男は「娘が持っているはず」と言いました。私の部屋も、誰かに探られた形跡があります。 手帳と鍵は無事です。身につけています。 助けてください。 一人では、もう抱えきれません。 名乗る受取人より』 助けてください。一人では抱えきれない。その二つの文を書いたのは、生まれて初めてだった。自分の弱さを認めること。叔母の嫌味にも茶会の囁きにも耐えた二年間で、一度もしなかったことだ。涙を見せない。助けを求めない。一人で立つ。それが、この家で生き延びるための私の鎧だった。 けれど今夜、鎧を脱いだ。紙の上でなら、弱さも声にできる。ユリアン様になら、見せられる。 手紙を封筒に入れ、枕元に置いた。蝋で封をする手が、まだ震えていた。 嵐は明け方まで続いた。雷鳴が遠ざかり、雨脚が弱まり、やがて風だけが残った。私は一睡もできなかった。窓辺の鉢植えを膝に抱えたまま、壁に背をもたれて夜を明かした。首に下げた鍵が、心臓の真上で冷たく脈打っている。 夜明けの薄い光が小窓から差し込んだとき、タイムの双葉が、私の腕の中で朝日を受けた。嵐を越えた葉は、昨日より少しだけ濃い緑をしていた。 この子が生き延びたなら、私も生き延びなければ。手紙を握りしめ、朝一番で騎士団へ向かおう。