第5話
第5話「影の郵便局の奥」
# 第5話「影の郵便局の奥」
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影の郵便局は、王都の裏通りの突き当たりにある。 表通りから細い路地を二度曲がった先に、煤けた煉瓦の建物がひっそりと立っている。看板はない。窓は小さく、分厚い硝子が嵌っていて、中の様子はほとんど見えない。壁を這う蔦だけが、この建物がまだ生きていることを教えてくれる。知らない人間が見れば、廃業した工房か倉庫だと思うだろう。ここが郵便局だと知る者は、この局を必要とする者だけだ。 水曜日の朝。返事の手紙を胸に抱え、私は路地を歩いていた。春の陽光が路地の壁に反射して、石畳に細い光の帯を落としている。空気はまだ冷たいが、光の色だけは確実に暖かくなっていた。頬に触れる風に、遠くの花壇の匂いがかすかに混ざっている。 古い扉を押し開けると、いつもの薄暗さと、紙とインクの匂いが迎えた。棚に整然と並ぶ封筒の束。壁に掛かった古い時計。埃の積もった帳簿。この空間だけが、外の時間から切り離されたように動いていない。 カウンターの向こうに、老郵便夫の姿があった。いつもの場所に、いつもの姿勢で。けれど今日は、顔色が悪かった。頬のあたりが灰色で、唇も乾いている。椅子に腰かけたまま、肩が小さく揺れていた。 「おじいさん。お加減が悪いのですか」 「ああ。少しな。歳だよ、嬢ちゃん。この身体が、局と一緒に古くなっているだけだ」 老人は笑おうとしたが、その拍子に咳が出た。乾いた、長い咳。私はカウンターの内側に回り込み、棚の奥から水差しを見つけて、コップに水を注いだ。老人はそれを受け取り、ゆっくり飲んだ。 「すまんね。最近、朝がつらい。夜の冷え込みが、まだ骨に応える」 「どなたかお手伝いの方は」 「いないよ。この局は、代々一人でやるもんだ。そういう決まりになっている。影の郵便は、多くの目に触れてはならんからな」 老郵便夫は立ち上がりかけて、よろめいた。私は咄嗟にその腕を支えた。布越しに伝わる腕の細さに、胸が痛んだ。この人がいなくなったら、影の郵便局はどうなるのだろう。 「嬢ちゃん。今日は少し、奥に入ってもいいよ。手紙の仕分けを手伝ってくれるなら助かる」 「はい。もちろんです」 老人に導かれて、カウンターの奥の扉を初めてくぐった。
作業場は思ったより広かった。天井の低い部屋に、木の棚が壁一面に並んでいる。棚の一つひとつに、番号と記号が書かれた仕切りが入り、封筒がびっしりと詰められていた。仕分け途中の手紙が机の上に積まれ、古い秤と蝋の塊が隅に置かれている。 部屋の奥に、一つだけ異質な棚があった。 他の棚より古い。木の色が暗く、表面が長年の手垢で黒光りしている。棚の前には薄い布がかけられていて、中身が見えないようになっていた。 「あれは」 「封印棚だよ」 老人が私の視線を追って言った。 「届けられなかった手紙が、あそこに保管されている。受取人が死んだか、行方不明になったか、あるいは——受取人が手紙の受け取りを拒絶した場合。理由は様々だが、結果は同じだ。行き場を失った言葉が、ここに帰ってくる。郵便局は、届けられなかった手紙を捨てない。言葉は、宛先を失っても言葉だからな」 布の隙間から、古い封筒の端が見えた。黄ばんだ紙。崩れかけた蝋印。何十年も前のものだろう。宛先を失った言葉たちが、ここで静かに眠っている。 「あの棚の手紙は、もう誰にも読まれることがない。でも、この局が続く限り、ここにある。それが、影の郵便局の約束なんだよ」 私は封印棚を見つめたまま、母のことを思った。母がこの奥に何かを隠した。あの鍵は、この棚のどこかに繋がっているのかもしれない。けれど今は聞けなかった。老郵便夫と母の関係を、唐突に問い質すべきではない。まだ、時期ではない。 手紙の仕分けを手伝いながら、私は封印棚のことを頭の隅に刻みつけた。あの布の向こうに、母が託したものがあるのかもしれない。いつか、あの布をめくる日が来る。その日まで、焦らず待とう。母だって、何年もかけてあそこに通ったのだから。 作業が一段落したとき、老郵便夫が窓の外を見て、ぽつりと呟いた。 「この局も、長くはないかもしれんなあ」 「どういう意味ですか」 「わしの身体がもたん、ということだよ。後を継ぐ者もおらん。わしが死んだら、この局は閉まる。封印棚の手紙も、全部、行き場を失う」 その言葉が、手紙の束越しに胸を打った。この場所がなくなる。私とユリアン様を繋いでくれた場所が。母が秘密を託した場所が。 「おじいさん。私に、もっとお手伝いできることはありませんか」 老人は少し驚いたような顔をして、それからゆっくり笑った。 「嬢ちゃん。あんたは優しいな。考えておくよ」
手紙を投函して、郵便局の扉を開けた。 路地に出た瞬間、目の前に人影があった。 銀の髪。灰青色の瞳。黒い外套の下に、騎士団の制服がわずかに見える。 「ユリアン様」 「エメラ嬢」 ユリアンは一瞬だけ目を見開き、それからふっと笑った。 「奇遇ですね。私も手紙を出しに来たところです」 「手紙を……ここに? 今日は水曜日ですけれど」 「ええ。あなた宛ての手紙です。本来は来週届くはずのものですが、書き上がったのが今朝で、どうしても待ちきれなくなって持ってきてしまいました。騎士団の朝の鍛錬を切り上げて」 路地の薄暗さの中で、ユリアン様の頬がわずかに赤くなっているのが見えた。副団長が、待ちきれないなどと言う。その姿が、肩書きと全く釣り合わなくて、私は口元を手で隠した。 「笑われていますか」 「いいえ。いいえ、笑って——少し、笑っています」 「少しだけですか」 「……かなり、笑っています」 声に出して笑ったのは、この路地が初めてだった。ユリアン様も、つられたように口元を緩めた。手紙の中ではたくさんの言葉を交わしてきたのに、こうして直接向き合うと、会話は短く、ぎこちなくなる。でも、その不格好さが、今は心地よかった。 「先週のお手紙、読みました。お母様のこと」 「……はい」 「あなたのお母様は、素敵な方だったのですね。文字は声の代わり、という言葉。私も、ずっと同じことを感じていました」 ユリアン様は路地の壁に軽く背を預けて、空を見上げた。細い路地の隙間から、青い空が一筋だけ見えている。 「私の母も、手紙が好きな人でした。父に叱られた夜、母はいつも、枕の下に手紙を忍ばせてくれた。『大丈夫よ。あなたの言葉は、あなただけのものよ』と書いてありました」 ユリアン様の目が、空から私に戻った。灰青色の中に、優しさと、少しの寂しさが混ざっていた。 「母が亡くなったとき、私はその手紙を全部、箱にしまいました。今でも、時々読み返します。文字が残っている限り、母はまだそこにいるような気がして」 「……ユリアン様のお母様も」 「ええ。私が八つの時に。それ以来、父とは手紙も言葉もほとんど交わしていません」 静かな声だった。悲しみの角が長い年月で丸くなった、穏やかな痛み。私たちは母を亡くした者同士だ。手紙に救われた者同士でもある。 「今日は、来てよかったです。手紙ではなく、直接、あなたと話ができて」 ユリアン様がそう言って、まっすぐに私を見た。 私は頷いた。紙の上の言葉とは違う。この路地の冷たい空気の中で、声が直接、耳に届く。それは手紙とは違う温度を持っていた。どちらが良いとか悪いとかではなく、ただ、違う形で温かかった。 「エメラ嬢。よければ、時々こうして、手紙の外でもお会いできませんか」 「……はい。ぜひ」 声が小さくなった。紙の上なら、もっと気の利いた返事が書けたのに。言葉遊びを仕掛けて、詩を引用して、もっと鮮やかに「嬉しい」を伝えられたのに。でも今の「はい」には、紙では書けない震えが含まれていた。声だけが運べる温度が、確かにあった。 ユリアン様は頷いて、路地の出口に向かった。角を曲がる直前に振り返り、小さく手を挙げた。私も手を挙げた。それだけのやり取りが、胸の中でずっと残響している。 一人になった路地で、しばらく立ち尽くしていた。空気が冷たくて気持ちよかった。頬が熱い。笑っていた。声に出して。路地に反響した自分の笑い声が、少し恥ずかしかった。 郵便局の中から、微かに咳の音が聞こえた。 私は振り返った。扉の向こうの暗がりに、老郵便夫の小さな背中が見えた。棚の間に座り込んで、肩を震わせている。 この場所が、いつまでもあるわけではない。 その実感が、笑顔の余韻の中に、冷たい水のように染み込んできた。路地の空気が、さっきまでとは違う冷たさで頬を打った。