第6話
第6話「叔父の書斎」
# 第6話「叔父の書斎」
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叔父の書斎に呼ばれたのは、夕食の前だった。 使用人のアンナが台所に来て、「旦那様がお呼びです」と伝えた。その声が妙に硬かったのを覚えている。叔父が私を書斎に呼ぶことは、この二年間でほとんどなかった。食事の席での指示、廊下ですれ違うときの会釈。それ以上の接触を、叔父は避けてきた。私のほうも避けてきた。 何かあったのだろう。良いことではないだろう。この家で「良いこと」が私に降りかかった試しは一度もない。 エプロンを外し、手を洗い、階段を上がった。二階の廊下は夕方の陽が橙色に染めていて、壁に掛かった風景画の額縁が光っていた。書斎の扉の前で足が止まる。深く息を吸い、吐いて、叩いた。 「入りなさい」
叔父の書斎は、この家の中で最も叔父らしい部屋だった。 整然と並んだ書架。机の上に積まれた帳簿と書類の束。インク壺と羽根ペンが定規で測ったように正確に配置されている。壁には父の肖像画が掛かっていた。叔父の兄、私の父の若い頃の油絵。まだ借金が膨れ上がる前の、穏やかな顔をした父。叔父はその弟だ。父の面影を残しながらも、もっと角ばった輪郭と、もっと硬い目をしていた。 窓から差し込む西日が、書斎の埃を金色に浮かび上がらせている。インクと古い紙の匂い。どこか、母の手帳の匂いに似ていた。 叔父のオスカーは、机の向こうの革張りの椅子に座って書類に目を落としていた。私が入っても顔を上げない。しばらく待たされた。書斎の壁掛け時計が、秒針を刻む音だけが室内を満たしていた。一秒ごとに、部屋の空気が重くなるような錯覚。 「座りなさい」 叔父がようやく顔を上げた。表情は事務的だった。怒りでも同情でもない。帳簿の数字を読み上げるときのような、乾いた顔。目の下に薄い隈がある。この人もこの人なりに、何かに疲れているのかもしれない。 「お前の両親の遺産整理について、話しておかなければならないことがある。お前もいい歳だ。十八になった。いつまでも子供扱いしておくわけにもいかん。知っておくべきだろう」 私は椅子の端に腰を下ろし、背筋を伸ばした。遺産。その言葉が何を意味するのか、漠然とした予感はあった。 「リルティング子爵家の財産は、兄——お前の父が存命の間に、大半が借金の返済に充てられていた。子爵位を維持するための交際費、邸宅の修繕費、使用人の給金、それに祖父の代からの未払い分。兄は真面目な人間だったが、財務の才覚がなかった。収入以上の支出を続け、最後には首が回らなくなっていた」 叔父は紙を一枚、机の上に滑らせた。金額が並んだ計算書。支出と収入の列が几帳面な字で記されている。最終行に赤い字で「残高なし」と書かれていた。 「兄の死後、残された借金を私が肩代わりした。債権者への返済、邸宅の売却処理、葬儀費用、その他もろもろの事務手続き。全て私が処理した。計算上、お前に残る財産はない。これが結論だ」 叔父は机の上で指を組んだ。 「養育費として、この二年間にかかった食費、衣服代、部屋代は、私が立て替えている。これについて返済を求めるつもりはないが、事実として認識しておきなさい。お前がこの家にいられるのは、私の判断だ。それを忘れないように」 淡々とした口調だった。事務的な報告。怒鳴られるより、泣かれるより、この乾いた声のほうが堪えた。私が二年間この家で食べてきた飯の金額が、数字に変換されて机の上に並んでいる。一杯のスープも、一切れのパンも、全て計上されている。 「……はい。お話は理解しました。ありがとうございます、叔父様」 叔父はわずかに眉を動かした。何を期待していたのだろう。泣くことか。怒ることか。感謝か、恨み言か。どちらでもなかった私の反応に、少し拍子抜けしたようにも見えた。あるいは、罪悪感を刺激されたのかもしれない。叔父の指が、一瞬だけ組み直された。 「もう下がっていい」 立ち上がりかけたとき、机の上の計算書がもう一度、目に入った。数字の列。支出の項目。その中の一行に、視線が引っかかった。 「邸宅修繕費 三年前 金貨四百枚」 三年前。父がまだ生きていた頃。けれど、私の記憶では、三年前にリルティング家の邸宅が修繕された事実はない。雨漏りは放置されたままだった。屋根の瓦は何枚も割れていた。二階の窓枠は腐食して、風が入り込んでいた。あの家は修繕など一度もされないまま、結局債権者に渡されたはずだ。 金貨四百枚の修繕費は、いったいどこに消えたのか。 それだけではない。母の手帳の記述が蘇った。母は「この文書の重さを知れば、あの人はきっと苦しむ」と書いていた。あの人とは父のことだ。父には確かに借金があった。それは事実だろう。けれど、母が命がけで守ろうとした「文書」と、叔父が提示する計算書の間には、何かが噛み合わない隙間がある。 顔には出さなかった。二年間で鍛えた技術が、また私を守った。 「ありがとうございます。失礼いたします」 書斎を出た。扉を閉めた瞬間、背中に叔父の視線を感じた。振り返らなかった。 廊下に出ると、橙色の光はもう消えていた。窓の外は薄い紫色で、一番星が見え始めていた。廊下を歩きながら、指先が冷たくなっていくのを感じた。怒りではない。恐怖でもない。ただ、輪郭のはっきりしない疑惑が、胸の中でゆっくりと形を取ろうとしていた。 叔父は嘘をついているのか。全てが嘘なのか、それとも真実の上に一枚だけ嘘を重ねているのか。計算書の数字の大部分は正しくて、けれどその中に紛れ込んだ一行だけが偽物だとしたら。 屋根裏に戻り、枕の下から母の手帳を取り出した。もう一度、日記の断片を読み返す。母の字と叔父の計算書の字を、頭の中で並べてみる。点と点の間にまだ線は引けない。けれど何かが繋がりかけている感覚が、指先にじりじりと伝わってきた。
その夜、蝋燭の灯りの下で、私は長い手紙を書いた。 これまでの手紙では、家庭のことは曖昧にしか書いてこなかった。「叔父の家に世話になっている」「従姉妹たちがいる」——その程度の輪郭だけ。具体的な苦しさは、紙の上でも声にするのが怖かった。言葉にしてしまえば、それは現実として固まる。現実として認めなければならなくなる。 けれど今夜は書いた。ユリアン様になら書ける。あの人は、重いものを受け止めてくれる人だ。母の話をしたときも、黙って聴いてくれた。だから今度も、信じて書く。 『ユリアン様。今日は少し、重い話をお許しください。 叔父に呼ばれ、両親の遺産について説明を受けました。残る財産はないと告げられました。父の借金が全てを呑み込んだのだ、と。 数字の上では、辻褄が合っているように見えます。けれど、私の記憶と照らし合わせると、合わない箇所がありました。存在しない修繕の費用が計上されています。私はまだ確証を持っていません。持っていないことを、ここに正直に書きます。 この家で厄介者として扱われているのは、養育費を立て替えてもらっている負い目があるからです。けれど、もしその前提自体が嘘の上に成り立っているのなら——私は何のために、二年間、口を閉じて耐えてきたのでしょう。 ユリアン様。あなたに嘘をつきたくありません。だから、まだわからないことを「わからない」と正直に書きます。答えが出たら、また書きます。 こんな重い話を手紙に書いてしまって申し訳ありません。あなたの手紙は、いつも私の心を軽くしてくれます。だからこそ、あなたの心を重くしてしまう手紙を書くのが、少し怖いのです。 でも、紙の上でなら正直でいられるのだと、あなたが教えてくれました。だから、書きます。 名乗る受取人より』 封をして、机の上に置いた。蝋の赤い跡が、封筒の白さの上でゆっくり固まった。明日の朝、影の郵便局へ持っていく。この手紙がユリアン様の手に届くまで、数日。それまでの間、私はこの疑惑を一人で抱えることになる。 蝋燭を吹き消す。炎が消えた瞬間、蝋の煙が一筋立ち上って、暗闇に吸い込まれた。叔父の書斎の時計の音が、まだ耳の奥に残っている気がした。秒針が一つずつ刻むたびに、疑惑の輪郭が少しずつ鮮明になっていく。 母さん。あなたが守ろうとした文書は、この家の嘘と、どこかで繋がっているの。 窓の外では、月が薄い雲に半分隠れていた。香草の鉢の影が壁にぼんやりと映っている。隣の鉢の土の中で、ユリアン様の種が眠っている。まだ芽は出ない。けれど土の下で、確かに何かが動き始めているはずだ。この家の床の下にも、長い間誰にも気づかれなかった何かが眠っている。それが芽を出す日は、思ったより近いのかもしれない。