第7話
第7話「騎士団の庭園」
# 第7話「騎士団の庭園」
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ユリアン様からの手紙には、こう書かれていた。 『エメラ様。水曜日の午後、もしお時間があれば、騎士団の庭園をご案内したいのです。一般には公開されていない場所ですが、副団長の権限で、一人の客人くらいは通せます。庭の奥に、あなたが好きそうな香草の一角があります。——差出人を名乗る者より』 私は返事に「ぜひ」とだけ書いた。紙の上なら、もっと長い言葉を添えられたはずなのに、嬉しさが先に立って、一語しか出てこなかった。
水曜日の午後、叔母が外出している隙を見て、私は屋敷を抜け出した。 騎士団の本部は王都の北側にある。石壁に囲まれた厳めしい建物で、正門には武装した門番が立っている。近づくだけで萎縮しそうな場所だった。けれど門の脇の小さな通用口に、ユリアン様が立って待っていてくれた。 今日は制服ではなく、白いシャツに暗い灰色の上着。銀髪を少しだけ緩く整えている。いつもの堅い佇まいが、わずかにほどけていた。 「お待たせして申し訳ありません」 「いいえ。私のほうが早く来すぎました。三十分ほど前から」 三十分。騎士団の副団長が、通用口の前で三十分。その事実が可笑しくて、私はまた口元を手で隠した。 「笑っていますね」 「少しだけです」 「また少しだけ。いつも少しだけですね」 「……かなり、です」 ユリアン様も笑った。この人が笑うと、灰青色の瞳の中に光が増える。冷たい色の目なのに、温かく見える不思議な瞬間だった。
庭園は、本部の建物の裏手に広がっていた。 騎士たちが鍛錬に使う中庭の、さらに奥。高い石壁に囲まれた静かな空間。柘植の生垣が低く刈り込まれ、砂利道が弧を描いて奥へ続いている。薔薇はまだ蕾だが、早咲きの藤が石壁の上から淡い紫色の房を垂らしていた。甘い香りが風に乗って鼻をくすぐる。 「ここは初代団長が造らせた庭だと聞いています。騎士に必要なのは剣だけではない、花を愛でる心も必要だ、と」 「素敵な初代団長ですね」 「実際には、恋人との密会場所として造らせたらしいのですが」 私は思わず声を出して笑った。ユリアン様が困ったように微笑む。 「公式の記録にはそう書いてありませんが、個人的な日記にはそう残っています。文学好きの副団長の特権で、資料室の古い日記を読み漁っているのです」 砂利道を並んで歩いた。肩と肩の間に、手のひら二つ分くらいの距離がある。近すぎず、遠すぎず。風が吹くたびに、ユリアン様の外套が微かに揺れて、布の擦れる音がした。 「先週のお手紙、読みました」 ユリアン様の声が、少し低くなった。家庭のことを書いた手紙。叔父の計算書のこと。 「あなたが打ち明けてくれたこと、全て受け止めました。数字の矛盾についても、気になっています。もしよければ、いつか計算書を見せていただけませんか。私の立場で、調べられることがあるかもしれません」 「……ありがとうございます。でも、ユリアン様にご迷惑をおかけするわけには」 「迷惑ではありません。あなたのことを、正しく知りたいだけです」 正しく知りたい。その言葉が、胸の中をまっすぐに貫いた。この人は、私を「悪役令嬢」としてではなく、「厄介者」としてでもなく、ただ「エメラ」として知ろうとしてくれている。 しばらく黙って歩いた。砂利を踏む音だけが二人の間を満たしていた。沈黙が苦しくなかった。手紙を書いている最中と同じだ。言葉を探している間の沈黙は、空白ではない。次の言葉を紡ぐための呼吸だ。 「ユリアン様」 「はい」 「ユリアン様のお父様のこと、もう少し聞いてもよいですか。前に手紙で少しだけ触れてくださいましたけれど」 ユリアン様は、少し歩みを緩めた。砂利が足の下で転がる音。 「父は、フェルネ伯爵家を騎士の家として守ることに、全てを懸けた人でした。剣の稽古は毎朝四時から。食事中に本を読めば皿を取り上げられました。文学は騎士の恥だと。詩は女子供の遊びだと。母がいた頃は、母が間に入ってくれていました。でも母が亡くなった後は」 言葉が途切れた。藤の花が風に揺れて、紫の影が砂利道の上を泳いだ。 「八つの歳から十五の歳まで、私は一通も手紙を書きませんでした。書く相手がいなかったのではなく、書くことを自分に禁じていたのです。父に見つかれば、また叱責されますから」 「十五歳で何が変わったのですか」 「母の遺品の整理をしていて、枕の下から手紙の束を見つけたのです。全部、母が私に宛てて書いた手紙でした。生きているうちには渡せなかったもの。日付を見ると、母が病に伏してからのものが多かった。私に会えない日に、代わりに手紙を書いていたのです」 ユリアン様が立ち止まった。薔薇の蕾の前で。灰青色の瞳が、蕾の赤い先端を見つめている。 「その日から、また手紙を書くようになりました。母への返事から始めました。もう届かない手紙を、それでも書いた。そうすることで、母とまだ話せている気がしたから」 私は、何も言えなかった。言葉にすれば安っぽくなってしまうことがある。代わりに、ユリアン様の隣に並んで、同じ蕾を見つめた。赤い蕾の先が、風に微かに震えている。 「私たちは似ていますね」 私がそう言うと、ユリアン様が少し驚いたように私を見た。 「母に文字を教わり、母を亡くし、手紙に救われた。私もそうです」 「……ええ。だから、あなたの手紙を読んだとき、最初の一通から、わかったのです。この人は同じ場所にいる、と」 庭の奥に、香草の一角があった。ユリアン様が言っていた場所だ。石の花壇にタイム、ローズマリー、セージ、ミントが植えられていて、春の風に葉が揺れている。騎士たちの傷の手当てや食事に使うものだという。 「これはタイムです。あなたの窓辺に植えた種と同じ品種。ここのは十年以上経っていますから、花の咲き方が見事ですよ。あと一月もすれば満開になります」 ユリアン様がタイムの株の前にしゃがみ、葉を一枚摘んで私に差し出した。指先に載った小さな緑色の葉。受け取ると、爽やかな香りが鼻を抜けた。 「いい匂い」 「ええ。タイムの香りは、勇気の象徴だそうです。古い騎士の慣習で、戦場に赴く騎士にタイムの枝を贈る風習がありました」 「勇気の象徴を、私に」 「あなたにこそ、ふさわしいと思ったのです」 その声が静かすぎて、風に攫われそうだった。私は摘まれた葉を手のひらに載せたまま、立ち上がったユリアン様を見上げた。逆光で表情が影になっている。けれど目だけが、灰青色の光を帯びていた。
庭園の出口まで戻ったとき、日が傾き始めていた。藤の花の影が砂利道に長く伸びている。 「今日は、ありがとうございました。とても楽しかったです」 「私もです。手紙では伝えきれないことが、直接会うとわかるものですね。あなたが笑うときの——声が」 ユリアン様は言葉を途中で止めた。少し困ったように目を逸らす。この人は、感情が口から出すぎそうになると、自分でブレーキをかける癖がある。騎士としての自制なのか、それとも不器用さなのか。 「声が、どうなのですか」 「……いえ。また手紙に書きます」 「ずるいです。それは」 「紙の上のほうが、正直になれる性分でして」 私たちは顔を見合わせて笑った。同じだ。どちらも、紙の上のほうが饒舌で、声に出すと途端にぎこちなくなる。 ユリアン様が、こちらへ手を伸ばした。私の手に触れようとして——指先が軽く、私の手の甲に触れた。ほんの一瞬。乾いた、温かい指先。そしてすぐに離れた。 「失礼しました」 「いいえ」 心臓が跳ねた。体温が、一瞬の接触だけで手の甲に焼きついている。頬が熱くなるのがわかった。ユリアン様の耳の先も、わずかに赤くなっていた。 「では、また。手紙でも、直接でも」 「はい。どちらでも」 通用口で別れた。ユリアン様が建物の中に消えるまで見送り、それから足早に帰路についた。 帰り道、手の甲をもう片方の手で包みながら歩いた。指先の温度がまだ残っている。ユリアン様の声が、庭園の砂利を踏む音と一緒に、体の中で響き続けていた。 「あなたが笑うときの、声が——」。 続きは手紙で読める。それを待つ時間が、今は何より贅沢に感じられた。 屋根裏の部屋に戻り、窓辺の鉢植えに水をやった。手のひらに載せたまま持ち帰ったタイムの葉を、鉢の縁に置いた。勇気の象徴。ユリアン様が摘んで、私の指先に載せてくれた一枚。この小さな葉が、いつか何の勇気をくれるのか、まだわからない。けれどいつか必要になるときが来る。そんな予感が、手の甲に残った温度と一緒に、体の奥でじんわりと広がっていた。