第3話
第3話「母の残り香」
# 第3話「母の残り香」
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屋根裏の物置は、この家の中で最も忘れられた場所だった。 叔母に「いい加減あの汚い部屋を片付けなさい」と命じられたのは日曜の昼過ぎで、私は古い雑巾と木の桶を持って、埃だらけの戸を押し開けた。蝶番が錆びた音を立てる。小窓から差し込む薄い光が、空気中の埃を白い柱のように浮かび上がらせた。 古い家具、壊れた燭台、虫に食われたカーテン。叔父の家の不用品が無秩序に積み上げられている。使い道のないものたちが、ここで静かに朽ちていくのを待っている。 私はその中に、自分と同じものを見た。この家で使い道がないと判断されたもの。捨てるには忍びないが、かといって居場所を与えるつもりもない。そういうものが、ここに集まる。 棚の奥から埃を払いながら雑巾をかけていく。指先が黒くなり、鼻の奥が埃でむずむずする。単調な作業の中で、手が一つのものに触れて止まった。 小さな木箱。表面に薄い革が貼られ、角が擦り切れている。蓋の金具は緑青を吹いていた。サイズは両手で抱えられる程度。この家のものにしては古すぎて、不用品にしては丁寧に作られすぎている。革の質は良い。かつて大切にされていたものだとわかる。 なぜか、この箱だけが他の不用品から少し離れた場所に置かれていた。意図的に隔てられたのか、偶然か。 金具を外し、蓋を持ち上げた。 匂いが立ち上った。 甘い、でも甘すぎない、乾いた花のような残り香。すみれ。母が好きだった香水の匂いだ。二年前に亡くなった母の。もうとっくにこの世から消えているはずの匂いが、箱の中に閉じ込められたまま、ここでずっと息を潜めていた。 呼吸が止まった。蓋を持つ手が震えている。箱の縁にしがみつくように指を白くして、私はしばらく動けなかった。母の匂い。忘れていたわけではない。けれど、こうして不意に嗅いだ瞬間、記憶の扉が一気に開いて、体中を母の気配が駆け巡った。 膝をつき、箱の中を見た。 古い革の手帳が一冊。表紙には何も刻まれていない。使い込まれた茶色の革が、手に馴染むように柔らかかった。指先で触れると、母の手がここを何度も握ったのだと、皮膚が教えてくれるような気がした。手帳の角は丸く磨り減り、表紙には爪のあとがかすかに残っている。毎日のように開いていたのだろう。 手帳の隣に、小さな鍵が一つ。銀色だが錆は浮いていない。箱の中で空気から守られていたのか、鍵の表面は妙にきれいだった。鍵の頭に、葉のような模様が彫り込まれている。繊細な細工。何の鍵なのか、見当がつかなかった。この家のどの扉とも、どの引き出しとも形が合わないだろう。 私は手帳を開いた。 母の筆跡。丸くて、少しだけ右に傾いた字。幼い頃、母が私に字を教えてくれたときの記憶が、文字の一画ごとに蘇ってきた。母の手が私の手を包み、一緒にペンを持って、紙の上に「エメラ」と書いた。「ね、できたでしょう。文字はね、声の代わりよ。声が届かない場所にも、文字なら届くの」 手帳は日記のようだった。ただし、日付は飛び飛びで、記述も断片的だった。日常の雑記ではなく、何かを記録する目的で書かれたもの。
『四月十五日。今日も郵便局へ。あの方は変わらず親切にしてくださった。封印棚の奥は、まだ誰にも見つかっていない様子。安心した』
郵便局。封印棚。私はその二つの言葉に釘付けになった。影の郵便局のことだ。あの薄暗い店内と、老いた郵便夫の顔が浮かんだ。母も、あの場所に通っていたのか。
『六月二日。夫には言えない。この文書の重さを知れば、あの人はきっと苦しむ。あの人は正直な人だから、知ったら公にしようとするだろう。でも、そうすれば家族が危険になる。私が一人で抱えていれば、家族は安全でいられる』
文書。母が一人で抱えた秘密。父にすら言えなかったもの。
『九月——日(日付が滲んで読めない)。エメラが大きくなったら、いつか話さなければならない。あの子にはその権利がある。でも、まだ早い。あの子はまだ、文字を覚えたばかりだから。いつか、あの子が自分の言葉で世界と向き合えるようになったら、その時に全てを託そう』
私は手帳を膝の上に置いたまま、物置の冷たい床に座り込んでいた。 母が影の郵便局を利用していた。封印棚の奥に何かを隠していた。「文書」を守ろうとしていた。そして、いつか私に託すつもりだった。 託す前に、死んでしまった。 目の奥が熱くなった。けれど泣かなかった。泣くのは、まだ早い。母が残そうとしたものの正体を、まだ何も知らないのだから。今は泣くよりも、読むべきだ。 鍵を手帳と一緒に、エプロンのポケットに入れた。木箱は元の位置に戻し、その上に古いカーテンを被せた。誰にも気づかれないように。 物置の掃除を続けた。手は雑巾を動かしていたが、頭の中では母の言葉がぐるぐると回っていた。
その夜、蝋燭の灯りの下で、私はユリアン様への手紙を書いた。 いつもの便箋に、いつものインクで。けれど今夜は、言葉遊びも皮肉も、一行も書けなかった。指が別のものを求めていた。代わりに、母のことを書いた。手紙の中でなら、私は本当のことを言える。 『ユリアン様。今日は少しだけ、昔の話をしてもよいでしょうか。 私の母は、リーネといいました。おとなしくて、笑うと目が細くなって、いつもすみれの香水をつけていました。文字を教えてくれたのも母です。「声が届かない場所にも、文字なら届くの」と言って、私の手を取って、一文字ずつ練習しました。 父は実務的な人で、帳簿や書類の山に埋もれていることが多かった。借金があったと聞いています。二人とも、私が十六の歳に、同じ流行病で、十日の間をおいて死にました。母が先でした。父は母の葬儀にも出られないまま、同じ病床で目を閉じました。 お葬式の日、雨が降っていたことを覚えています。傘を持つ手が震えていました。寒さではなくて、これからどうすればいいのかわからない震えでした。 今日、母の遺品を見つけました。古い手帳です。母の筆跡を見た瞬間、私は母に「文字を教えてもらった日」に引き戻されました。指先に、母の手の温度が蘇ったような気がしました。 母に会いたいです。でも、もう会えません。だから私は、手紙を書きます。声が届かない場所にいる人にも、文字なら届くと、母が教えてくれたから。 この手紙があなたに届くことが、今の私には、母の言葉の証明です。 ──長くなりました。次はもっと楽しい話を書きますね。名乗る受取人より』 ペンを置いた。蝋燭の炎が静かに揺れ、便箋の上に影を落とす。ペン先が紙を引っ掻く音が消えると、夜の深い静寂だけが屋根裏の部屋を満たした。虫の声すらない。春の夜は、まだ冷たい。 手紙を封筒に入れ、銀の蝋で封をした。明日の朝、影の郵便局に持っていこう。 便箋を片付けようと机の端に手を伸ばしたとき、目の端に母の手帳が入った。開いたままにしてあった。蝋燭の灯りがページを柔らかく照らしている。何気なく最後のページをめくった。 走り書きがあった。他のページより乱れた筆跡。書き急いだような字。インクの溜まりが不規則で、ペンの走りに迷いか焦りが滲んでいた。
『あの文書は、必ず守らなければ。エメラのために。この国のために。鍵は——』
そこで文字が途切れていた。ページの端がわずかに破れている。続きがあったのか、それとも書ききれなかったのか。破り取った跡なのか、経年で傷んだだけなのか、判断がつかない。 鍵。エプロンから取り出して枕の下に移したあの小さな銀の鍵のことだろうか。 母は何を守ろうとしていたのか。「この国のために」とは、どういう意味なのか。宮廷侍女だった母が、国に関わるような文書を持っていた。それを守るために、影の郵便局の封印棚を使った。 蝋燭が短くなり、芯がじりじりと音を立てていた。炎が低くなる。手帳を閉じ、枕の下にしまった。鍵も一緒に。硬い金属の感触が、枕越しに頬に伝わった。 眠れなかった。暗い天井を見つめながら、母の匂いと、母の字と、あの途切れた一行が、ぐるぐると頭の中を回り続けた。 母さん。あなたは、いったい何を抱えていたの。あなたが私に託そうとしたものは、この鍵の先にあるの。 窓の外で、風が一筋、通り過ぎた。窓辺の香草が、かすかに葉を揺らした。その隣で、ユリアン様の種を植えた鉢の土が、暗闇の中で静かに眠っている。まだ何も芽は出ていない。 母が残した謎と、ユリアン様が残した種。どちらも、まだ芽吹く前だ。