第2話
第2話「翌朝の光と影」
# 第2話「翌朝の光と影」
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目が覚めたとき、最初に確かめたのは枕元だった。 紙に包まれた小さな黒い粒。香草の種。指先で触れると、乾いた硬さが返ってきた。夢ではなかった。昨日の夕方、勝手口の石段に立っていた銀髪の騎士も、片膝をついた敬礼も、私の涙を黙って見ていたあの灰青色の瞳も、全部、本当にあったことだ。 私はしばらく種の包みを両手で包んだまま、天井を見つめていた。体温で紙がぬるくなる。それだけで、肋骨の奥がじんと熱くなった。 朝の光が屋根裏の小窓から斜めに差し込んでいる。昨日までの雨が嘘のように、空は青く澄んでいた。遅い春の、少し冷たい陽光。ほこりの粒が光の柱の中を泳いでいる。窓辺の香草の鉢が、朝日を浴びて葉先を光らせていた。 種は、今日植えよう。窓辺の鉢にはまだ余白がある。ユリアン様がくれたものを、ちゃんと土に根づかせたい。 身支度を整え、台所へ降りる。石段を一段ずつ踏むたびに、昨夜の記憶が足裏から体に立ち上ってくるようだった。「どちらのあなたにも、同じように会いたかった」。あの声が、石段の冷たさと一緒に、ずっと体に残っていた。
台所に入ると、パンの焼ける匂いが鼻先を包んだ。小麦粉とバターが焦げる手前の、甘くて香ばしい空気。鉄の竈で火を熾す係は私だが、今朝は先客がいた。 「あ、エメラおはよう。今日は早いのね」 リゼットが振り向いた。十六歳の丸い頬に、竈の赤い光が映えている。叔父の次女。無邪気な笑顔。この子に悪意はない。ただ、空気を読まない。好奇心が口よりも先に走る。 「おはようございます。火を入れてくれたんですね」 「うん、目が覚めちゃって。あのね、ねえ、エメラ」 リゼットが竈のそばに来て、声を落とした。落としたつもりらしいが、この子の囁き声は廊下の端まで聞こえる。 「昨日の夕方、勝手口のところで誰かと話してなかった? 私、二階の窓から見たの。背の高い人が立ってた。暗かったけど、なんか立派な服だったような気がして」 心臓が跳ねた。けれど、顔には出さなかった。この家で二年間、感情を隠す訓練だけは十分に積んできた。叔母の嫌味にも、従姉妹たちの無神経にも、使用人たちの同情の視線にも、表情を動かさずにやり過ごす術を、私は身につけてしまった。 「配達の方でした。厨房の香草の追加注文の確認に」 「ふうん。でも、普通の配達の人って、あんなに背が高くないよね。肩幅も広くて──」 「暗くて見間違えたのではありませんか」 「そっかなあ」 リゼットは首をかしげたが、パンがこげかけたのに気づいて慌てて竈に戻った。この子の好奇心は強いが、追及力は弱い。一つの関心が別の関心に押し出される。助かった。 だが、安堵したのは一呼吸だけだった。 「エメラ」 台所の入り口に、叔母が立っていた。 ヘルダ・リルティング。藍色の部屋着に髪をきっちりまとめ、唇を一文字に結んでいる。この家で私が最も恐れる人物だ。恐れる、というより、その視線の冷たさに、体が勝手に縮む。刃物のような目。値踏みするように上から下まで見て、それから口を開く。 「昨日、勝手口で騒ぎがあったそうね。アンナが言っていたわ。見知らぬ男が訪ねてきた、と」 「香草の配達の方です、叔母様」 「配達は正面の通用口を使うものよ。勝手口に来るのは、正規の用事ではない人間だけ」 叔母は一歩、台所に踏み込んだ。パンの甘い匂いの中に、叔母が纏う白粉の硬い香りが混ざる。 「悪役令嬢の分際で、妙な真似をしていないでしょうね。あなたが何か騒ぎを起こせば、この家の名に傷がつくのよ。わかっているの」 悪役令嬢。その言葉を、叔母は躊躇なく使う。私の名前の代わりのように。まるで、社交界の噂をそのまま家の中に持ち込んでいるかのように。 ──でも、おかしい。 社交界に出たことのない私が、なぜ社交界で「悪役令嬢」と呼ばれているのか。噂というのは、誰かが最初に言い始めなければ広まらない。私の顔すら知らない社交界の人々が、なぜ私を「悪役令嬢」と呼ぶのか。誰が、最初にその言葉を使ったのか。 この家の中で「悪役令嬢」という呼び方を当たり前のように使うのは、叔母だけだ。 その疑問が、朝のパンの匂いの中で、ふいに鮮明な輪郭を持った。 「妙な真似は何もしておりません。今後、配達の方には正面を使うよう伝えます」 「そうしなさい。──リゼット、あなたも二階から覗き見なんてはしたないわよ」 叔母は踵を返し、廊下の奥へ消えた。スリッパの硬い足音が遠ざかる。リゼットが小さく舌を出して、私にそっと目配せした。私はそれに応えず、竈の前に立った。火のはぜる音だけが、しばらく台所を満たしていた。
午後の仕事を終えて屋根裏の自室に戻ったのは、日が西に傾き始めた頃だった。 夕陽が窓から射し込み、香草の鉢を琥珀色に染めている。三枚の葉が、窓のすきまから入るわずかな風に揺れていた。この鉢だけが、この部屋で私のものだ。ベッドも机も椅子も、叔父の家の備品。けれどこの香草だけは、私が市場で種を買い、私が水をやり、私が枯らさずに育ててきた。 種の包みを開いた。紙の中に残った黒い粒を、指先でそっと鉢の土の端に押し込む。柔らかい土の感触。水を少しだけ注いだ。何も変わらない。土は土のまま、黒い粒は見えなくなった。でも、この土の下で、ユリアン様がくれたものが眠っている。やがて芽を出して、葉を広げて、この窓辺の仲間になる。そう思うだけで、胸の空気が軽くなった。 しばらく鉢を眺めていると、背後で床板が軋んだ。 「何をしているの」 振り向くと、部屋の戸口にセレナが立っていた。 従姉妹の長女。十九歳。栗色の髪をきつく編み上げ、薄い唇を引き結んでいる。母親のヘルダに似た切れ長の目。けれど、叔母の目が刃物なら、セレナの目は氷だった。刃物は切りつけてくるが、氷はただ、拒絶する。近づくな、と。 「香草を植えていました」 「……ふうん」 セレナは部屋の中を一瞥した。狭い屋根裏、古い寝台、傷だらけの机、そして窓辺の鉢植え。それから私の手元の土で汚れた指先に目を留めて、眉をわずかにひそめた。 「また増やすの。窓辺がそればかりで、みっともないわ」 「私の部屋ですから」 「叔父様の家の部屋でしょう」 正論だった。反論する言葉が見つからず、私は黙った。 セレナは少しの間、戸口に立ったまま動かなかった。何か言いかけて、やめたように見えた。唇が微かに開いて、閉じる。視線が鉢植えから私の顔に移り、それからまた逸れる。その横顔に、一瞬だけ、冷淡さとは違う色が横切った。苛立ちとも、ためらいとも、あるいは──自分でも持て余している何かとも見えた。 「……別に。好きにすれば」 セレナは背を向け、階段を降りていった。軽い足音がきしみながら遠ざかり、やがて聞こえなくなった。 私は鉢を抱えたまま、しばらく動けなかった。あの一瞬の表情が頭から離れない。私を嫌っているなら、わざわざ屋根裏まで上がってくる理由がない。用があったわけでもなさそうだった。何か確かめに来たのか。それとも、何か言いたかったのか。 答えは出ないまま、窓の外の空が紫に変わった。
夕食の片付けを終え、部屋に戻ると、枕の上に封筒が置かれていた。 上質な羊皮紙。銀色の無地の蝋印。見慣れた筆跡で「エメラ・リルティング様」と記されている。影の郵便局を経由して届いたものだ。配達の時間を考えると、昨日の訪問よりも前に投函されていたのだろう。ユリアン様が直接来ることを決める前に書いて、郵便局に預けた手紙。 封を切る指が震えた。蝋印をそっと剥がし、中の便箋を開く。 『拝啓、エメラ様。昨日は突然の訪問を失礼いたしました。あれほど長い間、手紙でしか言葉を交わしていなかった方の前に立つのは、想像していたよりもずっと緊張するものでした。帰り道、自分の声が上ずっていなかったか、不躾なことを言わなかったか、そればかり考えていました。緊張していたのは、私のほうです。あなたの前ではいつも、言葉が足りなくなります。紙の上ではもう少しましなのですが。──差出人を名乗る者より』 最後の一行に、小さく付け足しがあった。 『追伸。香草の種は、タイムの一種です。花が咲くまでに二月ほどかかります。咲いた頃に、またお会いできると嬉しいのですが』 私はその手紙を三度読み返した。 ユリアン様も、紙の上のほうが饒舌なのだ。直接会うと言葉が足りなくなると言っている。騎士団の副団長で、宮廷の詩会にも顔を出す貴公子が、私の前では緊張して言葉に詰まる。それが嬉しくて、少しだけ可笑しくて、私は窓辺の鉢植えに向かって、声に出さずに笑った。 二月後。タイムの花が咲く頃。それは、夏の始まりだ。 机に向かい、便箋を広げた。返事を書こう。紙の上なら、私はちゃんと伝えられる。ユリアン様の緊張が嬉しかったこと。種を今日植えたこと。花が咲いたら、ぜひ見に来てほしいこと。 蝋燭の炎が揺れた。ペン先にインクを含ませ、最初の一文字を書き始めた瞬間、ふと手が止まった。 今朝の叔母の言葉が蘇る。「悪役令嬢の分際で」。あの噂は、いったいどこから来たのだろう。社交界に一度も出たことのない私の悪評が、なぜこれほど当たり前のように広まっているのか。 ペン先のインクが、便箋の上に小さな染みを落とした。返事を書く手が、別の問いに引き留められていた。