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影の郵便局と秘密の手紙

第29話 第29話「最後の匿名の手紙」

第29話

第29話「最後の匿名の手紙」

# 第29話「最後の匿名の手紙」

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 影の郵便局の最終営業日は、秋の始まりの水曜日だった。  引き継ぎの三ヶ月が終わった。老郵便夫から全てを教わった。秘密の通路の仕掛け。壁の煉瓦のどこを押せば扉が開くか。暗号の読み方。配達経路の地図。封印棚の管理台帳。一人で運営するための全ての知識を、老人は惜しみなく私に渡した。  毎朝、下宿から影の郵便局に通った。夏の間、日差しが蔦の壁を焼き、路地に陽炎が立つ日もあった。暗号の読み方を覚えるのに二週間かかった。秘密の通路の仕掛けは力加減が難しく、煉瓦を強く押しすぎて指先を擦りむいた日もあった。封印棚の管理台帳は三代分の記録が蓄積されていて、古い字体を読み解くだけで何日もかかった。  秋になって空気が澄んできた。蔦の葉が赤みを帯び始めている。季節が変わる。郵便局も変わる。  老郵便夫は最後の一週間、カウンターの向こうに座ったまま、ほとんど仕事をしなかった。私が配達の準備をし、手紙の仕分けをし、封印棚の点検をしている間、老人は椅子に座って窓の外を見ていた。蔦の隙間から漏れる光が老人の横顔を照らし、皺の一本一本が影絵のように浮かんでいた。  最終営業日の朝。老郵便夫は早くから店に来ていた。いつもより身なりを整えている。シャツの襟がきちんと折られ、袖口のボタンが留められていた。普段は毛布に包まっているだけの人が、今日は正装に近い格好をしていた。最後の日を、正しい姿で迎えようとしている。 「おじいさん。おはようございます」 「早いな、嬢ちゃん」 「今日は早く来たかったんです」  カウンターの前に立った。老郵便夫が見上げる。私が見下ろす。三ヶ月前と逆の配置だ。三ヶ月前は私がカウンターの手前で座り、老郵便夫がカウンターの向こうに立っていた。今は私がカウンターの内側にいる。引き継ぎが済んだことの証。  最後の営業日だからといって、特別なことはしなかった。通常の業務を、一つずつ片づけた。配達予定の手紙を確認した。三通。一通は商人から恋人への匿名の恋文。一通は亡命した学者から家族への便り。一通は、差出人不明の手紙——私の手紙。  私はこの最終営業日に、一通だけ匿名の手紙を投函することにしていた。  宛先はユリアン様。内容は決めてあった。ずっと前から決めていた。    午後になって、最後の配達を終えた。三通のうち二通を所定の経路に送り出し、残りの一通——私の手紙を手元に置いた。これは影の郵便局経由で、今日の最後の仕事として届ける。  老郵便夫が立ち上がった。杖をついて、封印棚の前に歩いていった。布を捲り、古い棚を見つめた。何十年分の手紙が、整然と並んでいる。老人の手がそっと棚の縁に触れた。木の表面を撫でるように。 「この棚の手紙は、燃やさなくていいんだな」 「はい。私が守ります」 「そうか」  老郵便夫の背中が小さく揺れた。泣いているのかもしれない。振り返らなかった。私も声をかけなかった。この人には、一人で泣く時間が必要だった。  封印棚の前から離れ、老郵便夫はカウンターに戻った。目元を拭った形跡はなかったが、皺の奥の目が赤かった。 「嬢ちゃん」 「はい」 「最後に一つだけ」  老郵便夫が内ポケットから封筒を取り出した。古い封筒だ。紙が黄ばみ、角が丸くなっている。封蝋は残っていない。長い年月で剥がれ落ちたのだろう。 「これは——先代の局長がわしに渡した手紙だ。引き継ぎの日に。先代も、その先代から同じように手紙をもらったらしい。代々、局長が次の局長に渡す手紙だ」  封筒を受け取った。軽い。紙一枚分の重さ。 「開けていいですか」 「今はやめとけ。一人のときに読め。そのほうがいい」  封筒を胸ポケットにしまった。先代から先代へ。四代分の言葉が、この薄い封筒の中に入っている。 「おじいさん。ありがとうございました」  老郵便夫が私を見た。長い、静かな視線。三ヶ月間の引き継ぎの全てが、その視線に詰まっていた。 「あんたなら大丈夫だ。リーネの娘だからじゃない。あんた自身の言葉を持っているからだ。この局は言葉を守る場所だ。自分の言葉を持っている人間にしか、他人の言葉は守れん」  老郵便夫が杖をつき、扉に向かった。最後に店内を見回した。カウンター。封印棚。時計。窓の蔦。全部を、目に焼きつけるように見た。 「じゃあな、嬢ちゃん。局をよろしく頼むぞ」 「はい。おじいさんも、体を大切に」 「ああ。手紙を書くよ。あんたにな。初めて、この局から手紙を出す側に回る。六十八年間で初めてだ」  そう言って、老郵便夫はかすかに笑った。皺の奥に温かい光が灯った。  老郵便夫が扉を開けた。秋の光が路地から差し込んで、老人の影が床に長く伸びた。杖が石畳を叩く音が規則正しく響いた。一歩、二歩、三歩。路地に出て、角を曲がった。杖の音が遠ざかった。消えた。  扉が閉まった。風が蔦の葉を鳴らした。老郵便夫の匂い——古い毛布と紙とインクの混ざった、この店の匂いそのものだった老人の気配が、少しずつ薄れていった。  一人になった。  影の郵便局に、私一人。時計の秒針が静かに時を刻んでいる。紙とインクの匂い。蔦の葉を透かした光。何十年も変わらなかったこの空間が、今日から私のものになる。カウンターの木の表面が、何千回も腕を置かれて滑らかに磨かれている。老郵便夫の腕の跡だ。これからここに私の腕が置かれ、私の跡が重なっていく。    カウンターに座り、最後の手紙を準備した。ユリアン様宛ての匿名の手紙。封筒に宛名を書いた。差出人は書かない。影の郵便局の匿名サービス。最初にユリアン様が私に手紙を送ったときと同じ方法。

 便箋を広げた。短い文章を書いた。

『差出人のない方より。  あなたの笑い方が、好きです。』

 これだけ。一行だけ。  ユリアン様が最初に私に送った手紙の言葉を、そっくりそのまま返す。あの日、差出人不明の手紙で「あなたの笑い方が好きです」と書いてくれた言葉を。同じ言葉で、同じ匿名の形式で、今度は私からユリアン様に送る。  封筒に入れ、蝋で封をした。影の郵便局の蝋印。無地の銀。匿名の印。ユリアン様がかつて使っていた蝋印と同じもの。  この手紙が届いたとき、ユリアン様はわかるだろう。差出人が誰か。「差出人のない方より」の正体を。最初の手紙と最後の匿名の手紙が、円を描いて閉じる。あの日、ユリアン様が匿名で書いた一行を、今度は私が匿名で返す。笑い方が好きだと書いた人に、笑い方が好きだと返す。言葉が往復して、元の場所に戻る。手紙とはそういうものだ。誰かが投げた言葉を受け取って、自分の言葉にして、投げ返す。  配達経路に手紙を送り出した。カウンターの引き出しにしまい、明朝の配達に回す。影の郵便局の最後の匿名の手紙。そして明日から、この局は新しい局長の下で、また匿名の手紙を届け始める。  ユリアン様が手紙を受け取る瞬間を想像した。無地の銀の蝋印。かつて自分が使っていたものと同じ封蝋。封を開ける。一行だけの手紙。自分が書いた言葉が、そっくりそのまま返ってきている。あの人は笑うだろうか。泣くだろうか。たぶん両方だ。笑いながら泣く。あの人はそういう人だ。  胸ポケットの封筒を取り出した。先代から先代へ渡されてきた手紙。一人になった今なら読める。  封筒を開けた。中には黄ばんだ便箋が一枚。古い字体で、短い言葉が書かれていた。

『言葉を預かる者へ。  この局は、声を上げられなくなった人間のために作られた。あなたの仕事は、言葉を届けることではない。言葉が存在することを守ることだ。届かなくても、読まれなくても、言葉は書かれた瞬間に意味を持つ。その意味を消さないこと。それがあなたの仕事だ。  ——初代局長より』

 便箋を胸に当てた。七十年前の言葉が、今の私に届いた。初代の印刷工が、投獄された人々の手紙を届けた日から、この言葉は代々受け継がれてきた。そして今、私の手の中にある。  便箋を胸ポケットに戻した。この手紙は、影の郵便局の金庫に入れる。先代から先代へ渡されてきた言葉を、私もいつか、次の局長に渡す。それがいつになるかわからない。十年後か。三十年後か。でもいつか必ず、次の人が来る。  窓の蔦が秋の風に揺れた。赤みを帯びた葉の間から、夕日が差し込んだ。カウンターの上のインク壺が、夕日を受けて黒く光った。明日からここで仕事をする。手紙を受け取り、仕分け、届ける。声を上げられない人の言葉を守る。  影の郵便局の灯は、消えなかった。

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