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影の郵便局と秘密の手紙

第30話 第30話「新しい便箋」

第30話

第30話「新しい便箋」

# 第30話「新しい便箋」

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 秋が深まり、冬の気配が街角に忍び込む頃、影の郵便局は静かに動き始めていた。  私が局長になって三ヶ月が過ぎた。最初の一ヶ月は手が震えた。カウンターに立っても、老郵便夫のように落ち着いた顔ができなかった。手紙を受け取るとき指がもたついて、封蝋を押すとき力加減を間違えて蝋が歪んだ。配達経路を一つ覚え間違えて、手紙が半日遅れたこともあった。  二ヶ月目で手が馴染んだ。三ヶ月目の今は、紙の匂いを嗅ぐだけで封筒の古さがわかるようになった。封蝋の色で差出人の身分を推し量れるようになった。老郵便夫が何十年かけて磨いた感覚の、ほんの入り口に立ったところだ。  窓辺のタイムの鉢は、下宿から持ってきて影の郵便局の窓に置いた。花は秋に入って咲き終わり、今は葉だけが青々と茂っている。来春また咲く。タイムは多年草だ。一度植えれば、毎年花を咲かせる。  ユリアン様との手紙は続いていた。副団長に復帰した彼は忙しくなったが、水曜日の手紙は変わらず届いた。会える距離にいるのに手紙を書き続ける二人。マリーヌが「変わってるわね」と笑い、セレナが「合理的じゃないわ」と呟いた。合理的ではない。でも贅沢だ。ユリアン様はあの日、手紙にこう書いてきた。

『贅沢な言葉こそ、最も美しいのです。会えるから書かない、は道理です。でも会えるのに書く、は愛情です。道理と愛情のどちらを選ぶかは、迷いません』

 その手紙は机の引き出しの一番上に入れてある。疲れた日に読む。読むと、背中が少し温かくなる。

 セレナは叔母と距離を置き始めた。すぐに家を出たわけではない。けれど月に一度、私の下宿か影の郵便局に顔を出すようになった。いつもぶっきらぼうで、「たまたま近くに来ただけ」と言い訳するが、手に菓子の紙袋を提げていることが多かった。リゼットも一度だけ来た。「ねえねえ、ここすごい。秘密基地みたい」と目を輝かせて、封印棚の布をめくろうとしたのでセレナに叱られていた。  叔父からは手紙が一通来た。短い手紙だった。「体に気をつけなさい」。それだけだった。叔父らしかった。便箋にパイプの煙の匂いが染みついていた。

 監査院の調査は半年かけて結論が出た。王家の財務不正は事実として認定され、関与した宮廷財務官の数名が罷免された。母の名前は調査報告書の中で「情報提供者」として記録された。罪には問われなかった。監査院は、不正を告発した行為を法的に保護する判断を下した。  ユリアン様が報告書の写しを持ってきてくれた日、私は影の郵便局のカウンターでそれを読んだ。母の名前が活字で印刷されているのを見て、長い間動けなかった。「情報提供者:リーネ・リルティング」。母の名前が、公式の文書に、正しい文脈で記録されている。「悪役令嬢の母」ではなく、「不正を告発した勇気ある人間」として。  涙が出なかった。泣くのではなく、笑った。母に向かって笑った。カウンターの向こうの壁に向かって、「やったよ、お母さん」と声に出して言った。声の私が、声で言えた。  その夜、ユリアン様と影の郵便局で会った。金庫を開け、中に一輪のタイムの花を入れた。乾燥させた紫の小さな花。母の文書があった場所に、花を一輪。文書は去り、花が残った。ユリアン様が「美しいですね」と言い、私は「母もそう思うと思います」と答えた。

 ある朝。冬の始まりの水曜日。  影の郵便局の扉を開けて、いつものように掃除をし、蝋燭を灯し、インク壺の蓋を確認した。時計を見た。開局時間の五分前。窓の外は曇り空で、蔦の葉がほとんど落ちて枯れ枝になっている。春には新しい葉が出るだろう。  タイムの鉢に水をやった。葉が寒さで少し縮んでいるが、茎はしっかりしている。根が生きている証拠だ。表面が枯れても、根が生きていれば春に芽吹く。  開局時間になった。鍵を開けた。  しばらく誰も来なかった。冬の朝は客足が遅い。カウンターに肘をついて、老郵便夫から受け継いだ古い管理台帳を読んでいた。三代前の局長の字は癖が強くて読みにくい。先代の字は丸っこくて温かみがある。老郵便夫の字は角ばっていて実直だ。私はこの台帳に、自分の字で書き足していく。すみれのように小さく、まっすぐな字で。  扉が開いた。  冬の冷たい空気が店内に流れ込んだ。蝋燭の炎が大きく揺れた。扉の前に、人影が立っていた。  少女だった。  十三か十四歳くらいの、痩せた少女。外套が大きすぎて、袖が手首を覆い隠している。髪が乱れて肩にかかり、頬が赤い。寒さで赤いのか、泣いた後で赤いのか、判別がつかなかった。目が大きくて、怯えている。けれどその目の奥に、何かを求める光がある。  手に、封筒を握りしめていた。  白い封筒。差出人の名前は書かれていない。宛名だけが、震える字で書かれている。知らない名前。少女が誰かに書いた手紙。届けたいけれど、自分の名前では出せない手紙。  匿名の手紙。  少女が私を見た。カウンターの向こうに立つ私を。おそるおそる、一歩ずつ近づいてきた。靴底が石の床に当たって、小さな音を立てた。 「あの……ここは、名前を書かなくても手紙を届けてくれるところだと聞いたのですが」  声が震えていた。私に似ていた。三ヶ月前の——いや、もっと前の。最初にこの店を訪れたときの、私の声に。  少女の手の中の封筒を見た。紙が少し皺になっている。強く握りすぎたのだ。大切な手紙ほど、強く握ってしまう。私も同じだった。ユリアン様への手紙を枕の下にしまうとき、いつも強く握りすぎて皺を作った。 「届けるよ。名前は要らない。差出人不明で届ける。それがこの局の仕事だから」  少女の目が少し安堵した。けれどまだ手紙を手放せない。封筒を胸に抱いて、下を向いている。  老郵便夫の声が耳の奥に蘇った。「返事を出したら、もう後戻りはできないよ。それでも、出すかい?」。あの日、老人が私に問いかけた言葉。私は「覚悟の上です」と答えた。あの一言が、全てを始めた。  カウンターから身を乗り出した。少女の目の高さに合わせた。 「ひとつだけ教えておくね。その手紙を出したら、もう後戻りはできないよ。届いたら、読まれる。読まれたら、その人の中にあなたの言葉が残る。取り消せない。それでも——出すかい?」  少女が顔を上げた。涙の跡がある頬。唇を噛んでいる。考えている。手紙を出すか出さないか。人生が変わる瞬間。この瞬間を、私は知っている。体で覚えている。  少女が頷いた。小さく、でもはっきりと。 「出します」  封筒がカウンターの上に置かれた。少女の指が離れた。封筒が、少女のものから、影の郵便局のものになった。私のものになった。預かりもの。守るもの。届けるもの。 「わかった。届ける。必ず」  少女が初めて笑った。ぎこちない笑みだった。頬が少し上がって、目が細くなった。怯えが少しだけ和らいだ顔。  少女が帰った後、カウンターの上の封筒を見つめた。白い封筒。差出人のない手紙。誰かが誰かに宛てた、匿名の言葉。紙の上に乗った、声では出せない本当の気持ち。  この少女はこれから、私が歩いた道と似た道を歩くのだろうか。返事を待ち、差出人を知り、手紙の外で会い、引き裂かれ、それでも書き続ける。同じ道ではないかもしれない。けれど、手紙から始まる道であることは同じだ。  あの日から。最初の手紙が届いた水曜日の夕方から。全ての始まりだった。差出人のない手紙が一通届いて、私の世界が変わった。今日、同じことが始まろうとしている。別の少女の世界で。  窓辺のタイムの葉が、冬の光を受けて青く輝いていた。花はない。けれど根は生きている。春になれば、また紫の花が咲く。  封筒を配達棚に置いた。明日の朝、届ける。差出人のない手紙を、宛名の人に届ける。それが私の仕事だ。  カウンターに座り直した。管理台帳を開いた。今日の日付を書き込んだ。「匿名手紙一通受付。差出人:不明。宛先:記録済」。すみれのように小さく、まっすぐな字で。  時計の秒針が静かに時を刻んでいた。この音を、老郵便夫も毎日聞いていた。先代も。その先代も。七十年分の秒針の音が、この壁に染みこんでいる。  扉の隙間から冬の風が入り、蝋燭の炎が揺れた。炎が揺れるたびに、棚の手紙の影が壁の上で踊った。何十年分の手紙が、蝋燭の灯りの中で呼吸している。  影の郵便局は今日も開いている。明日も。明後日も。言葉の避難所は、灯を消さない。声を上げられない人がいる限り。紙の上でしか自分を出せない人がいる限り。  新しい便箋が、また一枚、ここから始まる。

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