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影の郵便局と秘密の手紙

第14話 第14話「窓辺の香草」

第14話

第14話「窓辺の香草」

# 第14話「窓辺の香草」

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 手紙のない日々が始まった。  最初の一日は、まだよかった。昨日までの余韻が体に残っていて、ユリアン様の筆跡を思い出すだけで、胸の中が温かくなった。告白の手紙を枕の下から取り出して読み返した。「全部のあなたを」の一行を、指でそっとなぞった。インクの微かな凹凸が指先に触れる。これはユリアン様のペンが紙に押しつけた跡だ。この手紙がある限り、繋がりは消えない。  二日目も耐えられた。台所仕事に没頭すれば時間は流れる。竈の火を熾し、パンを焼き、皿を洗い、床を拭く。体を動かしている間は、頭の中の沈黙を忘れられた。叔母の小言も、リゼットの無邪気な問いかけも、日常の騒音として頭上を通過した。竈の火が爆ぜる音に紛れて、自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。手を止めると、沈黙が背後から忍び寄ってくる。だから手を止めなかった。  三日目から、辛くなった。  朝、窓を開けると初夏の風が屋根裏に入り込んだ。湿った土と、遠い花壇の甘い匂いが混ざった風。季節は確実に動いている。けれど私の時間だけが、水曜日で止まったまま凍りついているような気がした。  夕方になると、無意識に枕元を探っていた。水曜日の配達日ではないと知りながら、手紙が届いているのではないかと。もちろん何もない。上質な羊皮紙の封筒も、銀の蝋印も、見慣れた筆跡の「エメラ・リルティング様」も。枕の上には何もなく、冷たい布だけが指先に触れた。  四日目の朝、雨が降った。窓の外を灰色の水滴が筋になって流れ落ちていく。あの嵐の夜を思い出して、首に下げた鍵を握りしめた。雨の匂いが屋根瓦から立ち上り、蒸した石と濡れた木の匂いが混ざっている。  一日に声を出す回数を数えてみた。叔母に「はい」。リゼットに「おはようございます」。使用人のアンナに「お湯をお願いします」。八語。一日八語。手紙を書いていた頃は、紙の上で何百語も紡いでいた。言葉遊びを仕掛け、詩を引用し、皮肉を飛ばし、時には寂しさを正直に綴った。その全てが今は封じられている。手紙を書くことで声の不足が補われていたのだと、失って初めて知った。声と文字は別物ではなかった。二つで一つの「私」だった。片方を失うと、もう片方も弱る。  五日目の朝。窓辺の鉢植えを見て、少し救われた。  ユリアン様からもらったタイムの芽が、ずいぶん育っていた。双葉の上に本葉が六枚。茎がしっかりと伸びて、鉢の縁から十センチほど頭を出している。葉を指で軽く触ると、清涼な香りが立ち上った。爽やかで、少し苦くて、緑の匂い。この匂いだけが、ユリアン様との繋がりの証だった。勇気の象徴。騎士に贈る香草。  香草に水をやりながら、ふと思った。この子は声を持たない。手紙も書けない。けれど毎日少しずつ伸びて、葉を広げて、光に向かって成長している。言葉を持たなくても、存在そのものが語っている。  私も、そうなれるだろうか。言葉がなくても、存在で語れるだろうか。

 五日目の朝が来るまでの間、枕の下にしまった送れない手紙を何度も取り出しては読み返した。自分で書いた言葉を自分で読む。奇妙な行為だった。けれどユリアン様に宛てた言葉を声に出して読むと、ほんの一瞬だけ、紙の上の自分が戻ってくるような気がした。  その日の午後、叔母が外出した隙に、屋根裏の物置にもう一度入った。母の遺品箱は前回戻した場所にそのまま置いてあった。古いカーテンをどけ、箱を開く。すみれの残り香がまた立ち上った。前回より薄くなっている。匂いは少しずつ消えていく。記憶も。だから手紙は大切なのだ。文字は残る。匂いが消えても。  母の手帳を取り出して、自室に戻った。今度は最初から、一頁ずつ丁寧に読んだ。蝋燭の灯りの下で、母の文字を一行ずつ辿っていく。  最初の数頁は、母が宮廷侍女として働いていた頃の日記だった。王宮の日常。同僚の侍女たちとの他愛ない会話。仕立て直した制服の裾のこと。王妃殿下の好きな花の名前。穏やかな記述が続いていた。  手帳を読むたびに、母の筆跡が少しずつ変わっていくのがわかった。最初は丸みのある穏やかな字だったのが、頁が進むにつれて角ばっていく。文字が小さくなり、行間が詰まる。何かに追い立てられるような筆致。  途中から、記述の性質が変わった。筆跡に力が入り、行間がさらに詰まっていく。

 『三月十日。財務記録室の帳簿を整理していたとき、数字の食い違いを見つけた。支出の記録と、実際の納品書の金額が合わない。差額は一件あたり小さい。でも同じパターンが何十件も、何年分も続いている。これは誤記ではない。意図的に操作されている。誰が、何の目的で』

 『四月三日。上司に報告した。だが相手にされなかった。「帳簿は正しい。お前の計算が間違っている」と冷たく言われた。私の計算は間違っていない。三度確かめた。けれど、これ以上押しても危険だと感じた。上司の目が変わった。私を排除しようとする目だった。あの目を見たことがある。宮廷で、都合の悪い人間を消すときの目だ』

 『五月二十日。帳簿の写しを取ることにした。夜間、記録室に忍び込んで、必要な頁だけを書き写した。手が震えた。インク壺を倒しそうになった。見つかれば、侍女の職を失うだけでは済まない。王家の機密文書の窃取は重罪だ。でも、この不正を見て見ぬふりはできない。誰かが記録を残さなければ、なかったことにされる。なかったことにさせてはいけない』

 母が見つけた不正。王家の財務記録の組織的な操作。そしてその証拠を写し取った。一人で、夜の記録室で、震える手で。  蝋燭の芯が爆ぜた。火が一瞬大きく揺れて、手帳の頁に母の影が走った。まるで母がまだこの部屋にいて、隣で手帳を覗いているような錯覚。目を閉じると、すみれの残り香の奥に、インクと蝋の混ざった匂いが浮かんだ。母の書斎の匂い。幼い頃、母の膝の上で文字を教わった記憶と同じ匂い。  手帳を読み進めるたびに、母の姿が変わっていった。おとなしくてすみれの香水が好きだった優しい母が、蝋燭一つの暗がりで帳簿を書き写している。誰にも相談できない孤独の中で、一人で正義を貫こうとしている。その筆跡は、怖くて震えながらも、一文字一文字が正確だった。この人は、震えながらも正しい字を書ける人だったのだ。

 『六月十五日。写しは完成した。全部で二十三頁。王家の財務不正の記録。数年分の操作の証拠。これを安全な場所に隠さなければならない。夫には言えない。あの人は正直すぎる。知ったら公にしようとするだろう。でもそうすれば家族に危険が及ぶ。  影の郵便局の老人に相談した。あの方は長い間、こういう秘密を守ってきた人だ。「封印棚の奥に、誰にも開けられない場所がある。鍵さえあれば」と言ってくれた。  鍵を作った。小さな銀の鍵。葉の模様を入れてもらった。すみれの葉。私のすみれ。この鍵が、二十三頁を守る盾になる』

 銀の鍵。すみれの葉の模様。首に下げているこの鍵を、ドレスの上から握った。冷たい金属が手のひらに収まる。母がすみれの葉をモチーフに作らせた鍵。封印棚の奥の金庫を開ける鍵。  全てが繋がった。  母は宮廷侍女として王家の財務不正を発見した。証拠の写し——二十三頁の帳簿の複写——を作り、影の郵便局の封印棚の奥に隠した。鍵を遺品箱に入れて、いつか私に託すつもりだった。  けれど母は死んだ。父も死んだ。鍵と手帳は叔父の家の物置に打ち捨てられ、二年間、埃の中で眠っていた。そして今、その文書を探す者たちが動き出している。嵐の夜の男。宮廷の調査。全てが、母が命を懸けて隠した二十三頁に向かっている。  手帳を閉じた。手が震えていた。恐怖と、母への畏敬と、怒りが入り混じった震え。  母さん。あなたは、こんなに重いものを一人で抱えていたのね。声に出せない秘密を、紙の上で守り続けていたのね。  窓辺のタイムを見つめた。すみれの香りはもう消えかけている。でもタイムの香りは日に日に強くなっている。母の匂いが薄れていく代わりに、ユリアン様がくれた命が育っていく。過去が遠ざかる代わりに、未来が近づいている。  便箋を広げた。送れない手紙を、また書いた。 『ユリアン様。母のことがわかりました。母が何を守っていたのか。なぜ影の郵便局に通っていたのか。銀の鍵が何を開けるのか。全部。  でもこの手紙は送れません。水曜日に、声で伝えます。声の私は三分の一しか言葉が出ないけれど、十分の一でも、百分の一でも、あなたに伝えます。母が震える手で正しい字を書き続けたように、私は震える声で正しいことを言います。  ——送れない手紙を書く人より』  枕の下の手紙が、一通増えた。送れない手紙の束が、日に日に厚くなっていく。もし影の郵便局に「送らなかった手紙」を預ける棚があるなら、私の手紙もそこに並ぶだろう。届けたかったのに届けられなかった言葉。宛先はあるのに送り出せなかった想い。封印棚の手紙たちと、私の枕の下の手紙たちは、同じ種類の孤独を持っている。  水曜日まであと二日。その二日が、途方もなく長く感じられた。でも、必ず来る。水曜日は必ず来る。そのとき、声で伝えよう。母のこと。鍵のこと。文書のこと。声が震えても、言葉が足りなくても、ユリアン様は聴いてくれる。紙の言葉も声の言葉も、同じ重さで受け止めてくれる人が、あの路地の角で待っている。

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