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影の郵便局と秘密の手紙

第1話 差出人のない手紙

第1話

差出人のない手紙

 手紙というものは、不思議な生き物だ。  書き手の指の熱を羊皮紙に写し取り、蝋印で封じられ、他人の手を転々としながら、それでも体温を失わずに受け取り手の胸に届く。紙の端には、書いた人の迷いや、溜息の湿り気さえ、かすかに残っている気がする。  ──そんなことを考えるようになったのは、三ヶ月前の雨の朝、差出人のない一通目を受け取ってからだ。  それまで、私は手紙を書いたことも受け取ったこともなかった。エメラ・リルティング、十八歳。両親が二年前の流行病で相次いで亡くなり、叔父の家に引き取られてからは、誰かに便りを送る相手も、送ってくる相手も、一人もいない日々を過ごしていた。

 最初の一通は、王立郵便ではなく、勝手口の石段に、雨に濡れないように古い籠を伏せた下に置かれていた。  上質な羊皮紙の封筒。差出人の欄は空白。私の名前「エメラ・リルティング様」だけが、美しい男性的な筆跡で書かれていた。蝋印は無地の銀色で、どこの家の紋も刻まれていない。使用人が怪訝そうに差し出してきたのを、私は洗濯籠の陰で受け取った。  薄汚れた使用人用階段の踊り場で、私はその封を切った。中にはたった一枚の紙。 『拝啓、エメラ様。あなたの笑い方が、好きです。もし雨の多い朝のご機嫌が悪くないようでしたら、返事をいただけるでしょうか。──名乗らぬ差出人より』  私は、その三行を、ゆっくり三度読み返した。  リルティング子爵家の長女、などという肩書きは、この家に来てからは何の意味も持たなかった。叔父の娘二人は華やかな社交令嬢で、私は名目上は従姉妹、実態は台所の雑役女。舞踏会にも茶会にも呼ばれず、お下がりのドレスを繕って過ごす日々。社交界では「貧乏子爵家の末裔の悪役令嬢」と、姿も見ずに陰口を叩かれているらしい。  私の笑い方が好き、と言ってくれる人など、この世に一人もいないはずだった。そもそも私は、この家に来てから、ちゃんと笑ったことがなかった。  けれど、不思議と、この手紙を嘘だとは思えなかった。筆跡の静けさが、嘘をつく人のものではなかったからかもしれない。  その夜、私は蝋燭の灯の下で、震える手で返事を書いた。 『差出人のない方へ。私は、自分が笑っているのを、もう随分見たことがありません。あなたが私の笑い方を知っているとは、少し不思議に思います。もしかしたら、あなたは幽霊か、夢の中の人かもしれません。それでも、お返事を書いてみます。最近の私の小さな喜びは、厨房の窓辺で育てている香草が、三枚だけ新しい葉を出してくれたことです。雨の日に、雨滴がその葉を震わせるのを見ると、心の中の重たい空気が、少しだけ軽くなります。──名乗らぬ受取人より』  翌朝、私はこっそり王都の『影の郵便局』に出かけた。身元不明の手紙を匿名で受け付ける、古くから続く奇妙な郵便局だ。差出人も受取人も秘密のまま届けてくれる。  投函口に封筒を滑り込ませた瞬間、薄暗い店内の奥から、老いた郵便夫の声がした。 「娘さん。影の郵便は、返事を出したらもう後戻りはできんよ。言葉が言葉を呼んで、いつか、顔の知らない誰かがあんたの前に現れる。それを覚悟の上で、出すかい」  私は、少しだけ迷って、それから頷いた。 「ええ。覚悟の上で」  老人は、何も言わずに、封筒を棚の奥へ運んでいった。

 それから、毎週水曜日の朝に、差出人のない手紙が届くようになった。  筆跡は同じ。内容は他愛もない。昨日の風向きの感想、夢に出てきた葦毛の馬の話、古い詩集から引いた一節、書物のある一行についての、やけに細やかな感想。私と、その人の間には、一度も名前も身分も交わされなかった。代わりに、言葉と感情だけが、毎週少しずつ積み上がっていった。  不思議だった。手紙の中でだけ、私は饒舌になれた。  叔父の家では、一日にほとんど口をきかない。食事の席では従姉妹たちの華やかな会話の端で、うなずくことしかしない。声の出し方を忘れそうになる日さえあった。けれど、紙の上では別人だった。言葉遊びを仕掛け、詩を引用し、皮肉を飛ばし、冗談を言い、時には自分の寂しさを、輪郭をなぞるように書いた。  差出人のない方は、それに全部、静かに応えてくれた。 『エメラ様の皮肉は、薔薇の棘のようです。刺さるけれど、匂いが残ります』  ある手紙の一文を読んで、私はこの家に来て初めて、声を出して笑った。  廊下の向こうで叔母が「何を笑っているの、気味が悪い」と言ったが、私は止められなかった。笑いは、肋骨の奥の錆びついた扉をこじ開けて出てきたのだ。  その夜、私は鏡の前に立って、自分の顔を見た。痩せた頬、乾いた唇、疲れた目。それでも、口の端に、まだ笑いの余韻が残っていた。この顔を、誰かが好きだと言ってくれる。信じられなかった。けれど、信じたかった。  私は鏡に向かって、声に出さずに呟いた。  ──あなたに、早く会いたい。

 けれど、同時に、会いたくないとも思った。  手紙の中の私は、現実の私よりずっと聡明で、ずっと饒舌で、ずっと綺麗だった。紙の上の私に恋をしているだけなのだとしたら、実物を見た瞬間、全部が崩れるのではないか。その恐怖が、胸の底にずっと沈んでいた。  だから私は、老郵便夫の言葉を、毎晩枕の上で反芻した。  ──いつか、顔の知らない誰かが、あんたの前に現れる。

 やり取りが始まって三ヶ月。  その週の水曜日、手紙は届かなかった。  私は動揺した。何かあったのではないか。差出人の方が病気に、事故に、それとも飽きたのではないか。一日中、心がざわついて、厨房の仕事も手につかなかった。  その日の夕方、勝手口の扉が叩かれた。  私は、配達の商人か何かだろうと思って、何気なく扉を開けた。  ──そこに立っていたのは、見知らぬ青年だった。  二十三、四歳くらい。黒い制服。胸元に、王立第一騎士団の徽章。銀髪を後ろに撫でつけ、灰青色の瞳は、少し疲れたような、けれど真っ直ぐな光を帯びていた。背は高く、肩幅は広い。騎士の身体だった。  私は息を呑んだ。こんな立派な騎士が、なぜ使用人用の勝手口に。 「……どちら様ですか」 「失礼します。王立第一騎士団副団長、ユリアン・フェルネと申します」  王立第一騎士団の副団長。王国の軍事を担う、若き貴公子として知られている人物。文学好きで、宮廷の詩会にも時折顔を出すと噂される。名前だけは、叔父の家の新聞で何度も目にしていた。  そんな方が、なぜ私に──と考えた瞬間、彼の手元を見て、私は言葉を失った。  ユリアン様の手には、いつもと同じ、上質な羊皮紙の封筒が握られていた。蝋印は銀色。私の名前、見慣れた男性的な筆跡。 「今週は、郵便局に預けるのが間に合いませんでした。それに──」  彼は、少し困ったように微笑んだ。 「それに、今週だけは、直接お届けしたかったのです」  老郵便夫の声が、耳の奥で蘇った。いつか、顔の知らない誰かが、あんたの前に現れる。私は勝手口の薄暗さの中で、呆然と彼を見上げていた。 「あ、あなたが、今までの」 「はい。差出人を名乗らずにいたのは、私の都合です。騎士団副団長という立場で、身寄りの少ない令嬢にいきなり手紙を出すのは、どんなに言葉を選んでも、あなたの立場を悪くしかねない行為でしたから」 「でも、なぜ、私に」 「半年前、王都の広場で、ある少女が香草の鉢を抱えて歩いていました。鉢の香草が雨に濡れていて、少女はそれを両手で覆って、必死に守っていた。通りすがりに、その少女の顔が、ほんの一瞬だけ、香草の葉を見て柔らかく微笑んだのです。私はその微笑みを、ずっと忘れられませんでした」  思い出した。半年前の雨の日、私は確かに厨房のための香草の鉢を市場で買い、それを抱えて叔父の家まで歩いた。雨が降り出して、私は香草が潰れないように両手で覆って、濡れた葉の匂いが嬉しくて、誰にも見られていないと思って、頬を緩めた。 「その後、調べました。あなたがリルティング子爵家の長女で、今はどこの家で、どんな暮らしをしているのか。そして、手紙を書くことを決めました。顔を出さず、名乗らずに。少なくとも、あなたの生活の中に、週に一度くらい、声を出して笑える瞬間を差し入れたかったのです」  私は、廊下の柱に手をついて、体を支えた。涙が、勝手に溢れていた。  叔父の家で一滴も涙を流さないと決めていた。弱さを見せたら、ますます軽んじられると知っていたから。けれど今、この勝手口の前では、そんな決意はもう、何の意味も持たなかった。 「……今週の返事は、まだ書いていません」 「構いません。口で、直接、いただけますか」 「はい」  私は、涙を拭わずに、顔を上げた。 「ユリアン様。紙の上の私のほうが、本当の私より聡明で、綺麗に見えたかもしれません。実物は、こんな顔です。がっかりされる覚悟はしています」  ユリアン様は、少し首を傾げ、それから静かに微笑んだ。 「エメラ嬢。紙の上の言葉を書くのも、あなたです。雨の日に香草を庇って微笑むのも、あなたです。私は、どちらのあなたにも、同じように会いたかったのです」  そして、静かに片膝を落とした。騎士の、最上級の敬礼の形だった。 「今日からは、どうか、直接お会いできる日を少しずつ増やしてください。手紙も続けます。けれど、あなたの笑い方を、紙の上ではなく、この目で見られる日を、一日でも多く、いただきたい」  勝手口の外で、遅い春の雨が、また降り始めていた。窓辺の香草が、その音に、静かに葉を揺らしていた。差出人のない手紙の物語は、今日、差出人の名前を持った新しい物語に、静かに書き換えられ始めていた。

「ユリアン様、一つだけお願いがあります」 「何なりと」 「……手紙は、どうか、これからも続けてください。顔を合わせてお話するのも嬉しいのですけれど、私は、紙の上の言葉を読むときだけ、本当の自分でいられるような気がしているのです」 「もちろんです。週に一通では足りないかもしれません。必要なら、二通でも三通でも」  私たちは、少しだけ笑い合った。勝手口の石段の冷たさも、従姉妹たちの笑い声も、もうしばらく気にならなかった。  ユリアン様は去り際に、胸のポケットから小さな包みを取り出した。 「これを。先週の市場で見つけた、新しい香草の種です。あなたの窓辺の鉢が、もう一種類、家族を増やしてくれると、私も嬉しい」  私は震える手でその包みを受け取った。黒い小さな粒が、紙の中で静かに眠っていた。  その夜、私は机に向かい、久しぶりに声を出して「お返事を書きます」と呟いた。声を出すだけで、世界の重さが、わずかに軽くなった気がした。  手紙というものは、不思議な生き物だ。書き手の指の熱を、受け取り手の胸にまで運んでくる。そして時に、書き手自身の体温まで、目の前に連れてくる。  厄介者扱いされてきたこの家の片隅に、今夜、初めて、私だけの小さな王国ができた。差出人と、受取人と、鉢植えの香草と、そして、誰にも奪われない手紙の束。それだけで、私はもう十分だった。

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