第3話
第3話
馬車の灯が、座席の隅の白い封筒を、一拍ごとに照らしては陰らせていた。
私は封蝋の双頭の鷹に、指の腹をひとつ、軽く押し当てた。蝋は、まだ冷えきっていない。割られてから二刻と経たぬ温度を、指紋越しに伝えてくる。封筒を寄越した男は、私が広間の扉に手をかける時刻に合わせて、この蝋を、自分の体温で温めていたのだ。それくらいのことは、もう、想像がつく。
『……開けるか、開けないか』
考える時間は、馬車が王城の正門を抜けるまでの、二十数えるほど。私はためらわなかった。封を割らずに引き出しに眠らせておくのは、この種の手紙にもっとも不適切な扱い方だ。送り主は、私が割って読むことを前提に、文面を組んでいる。割らない選択は、相手の盤面を、こちらの都合で勝手に止めることに等しい。盤を止める権利は、まだ私にはない。
象牙の扇の縁を、薄刃のかわりにした。封蝋の鷹は、嘴の継ぎ目から、ぱきりと、二つに折れた。
中身は、思いのほか簡潔だった。羊皮紙が一枚。そして、紙の折り目の奥に、銀貨ほどの小さな円盤が一枚。指で摘み出すと、片面に双頭の鷹、もう片面に、見覚えのない紋様――三本の縦線と、それを横切る一本の弦。竪琴の意匠だろうか。冬の夜気より、なお一段冷たい銀の感触が、指の腹に貼りついた。銀盤の縁は、わずかに摩耗していた。何度も誰かの指のあいだを通った輪郭の、丸みの度合い。新しく鋳造された取り引き札ではない、と私は見た。先代から受け継がれた合言葉の品なのか、それとも、すでに何枚も同じものが、別の貴婦人の胸元に落とされたあとの、何枚目かなのか。
羊皮紙の文面は、わずか三行だった。
『今宵の夜会、貴殿の手筋を拝見した。 聖女の出自について、こちらは三年分の記録を持つ。 お申し越しあらば、この銀盤を、西街道スオン宿の竪琴亭に』
署名は、頭文字ひとつだけ。「W」。
王城の灯が、馬車の窓越しに後ろへ流れて、やがて見えなくなった。代わりに、街道の両脇に植え込まれた糸杉の影が、馬車の灯火を割っては合わせ、割っては合わせを繰り返す。私は銀盤を掌のなかで一度、二度、転がしてから、ドレスの胸元――母の銀の鎖の隣に、すっと落とした。鎖の冷たさと、銀盤の冷たさが、肌の上で釣り合うのを、私は確かめる。
『三年分の記録、と書いたわね』
聖女エルフィーナが王都の神殿に現れたのは、一年と三月前のこと。三年分という数字は、彼女が「聖女」を名乗る前の、空白の二年弱を含んでいる。あの娘の出自について、王国の神官たちは口を揃えて「西の片田舎の孤児院出身」と説明してきた。私はその説明を、九年前から、半分も信じていない。慈悲の角度を稽古で覚えた孤児が、王妃陛下の教育係の手筋を、神殿の祭壇でなぞれるはずがない。
『でも、今夜ではない』
銀盤の冷たさを、肋骨の上で一度だけ意識し直して、私はその思考を畳んだ。アルトリアの差し伸べた手は、握れば確実に何かを引き寄せる。引き寄せる先が、私の領地の鉱山なのか、王都の神殿なのか、それとも私自身の喉首なのかは、まだ分からない。分からないものを、夜明け前の判断で握る愚を、私は犯さない。母も、犯さなかった人だ。
馬車が、街道の最初の継ぎ場で、一度、止まった。御者台のロデリックが、待たせていた早馬の使い三人と、低声で言葉を交わす音が、馬車の床越しに伝わってくる。北の鉱山番グレンへ。王都商会のエヴラール翁へ。西街道の吟遊詩人トリスタンへ。三本の早馬が、三方向に散る蹄の音が、立て続けに闇に吸い込まれた。
代わりに、王都から追ってきた一騎が、馬車の脇で止まる。
ロデリックが、馬車の小窓を、ひとつ、軽く叩いた。私は窓を開ける。冷えた夜気と一緒に、王城の蝋の匂いを、まだ服の襟に残した使いの男が、息を整えながら羊皮紙を差し出してきた。
「カーヴェル夫人より、口頭にて。――王妃陛下、聖女様を本日中に陛下の御寝所へお召し。寄進帳簿は、神官長御立会いのもと、本日明け方に封印。宰相令息ガレッド様は、本日深更より、ご自邸にて、近衛の見張りつき」
三件、と私は心の帳面に書きつけた。広間で扇の縁を当てた三つのひびに、それぞれ別の手が、確かに鏨を入れたのだ。私の名は、どの手にも乗っていない。それでいい。乗っていないからこそ、ひびは、ひびを呼ぶ。
「ありがとう。カーヴェル夫人に、御礼の代わりにこう伝えてくださいまし。――『母の押し花は、しおりとして、まだ働きますわ』、と」
使いの男は、その伝言の意味を考えない。考えないことが、彼の仕事だ。馬の腹を蹴って、闇へ戻っていった。
馬車が、再び走り出す。
私は座席の背もたれに、ようやく深く身体を預けた。広間を出てから、初めて、肩の力を抜いた瞬間だった。
『あのとき、聖女の頬が引きつったのは、宝飾でも、帳簿でもなかったわ』
東棟三階、深更二刻、白い衣の裾。その三つを並べた瞬間――聖女の白い頬の右側、目尻の下の、ほんの細い筋が、ぴくり、と一度だけ跳ねた。広間の誰も、たぶん気づかなかった。私は九年間、王太子の傍で、稽古された微笑みばかりを見せられてきた女だ。本物の動揺と、芝居の動揺の境目を、皮膚の薄さで判別できる。あのとき、彼女の左手は、祝福の手印を結んだまま、ほんの一拍、止まっていた。指先は、自分の意思から離れて、空をひとつ掴むかのように、わずかに開いた。稽古で身についた所作は、本物の驚きの前では、必ず半呼吸だけ遅れる。あの半呼吸を、私は確かに目で拾った。
聖女は、宝飾の指輪を持ち出したことを、知られたとは思っていなかった。寄進帳簿の改竄を、見破られたとも思っていなかった。それらは、いずれ露見し得る、覚悟の上の綻びだ。彼女が震えたのは、宰相令息の私室の時刻と、階数と、衣の色までを、私が言い当てた、その精度に対してだった。
『あの娘は気づいたのよ。――誰かに、見られていた、と』
見ていたのは、私自身ではない。神殿の祭壇で頭蓋に流れ込んだ幻視は、誰にも証明できない代物だ。だから聖女は、当然、別の人間を疑う。誰かが、私のために、東棟三階を見張っていたのだ、と。
その「誰か」は、存在しない。けれど、聖女の派閥は、これから必死で、いない誰かを探しに行くだろう。神殿の見習いを締め上げ、東棟の侍女頭を買収し、夜警の名簿を調べ上げる。動けば動くほど、彼女らの裾は、別のひびを露出させていく。
『泳がせる』
私は、口の中だけで呟いた。馬車の天井に、銀貨ほどの淡い染みのような光が、揺れている。糸杉の影越しに射し込む、月の欠片だった。
ロデリックを、もう一度呼ぶために、私は天井の鈴の紐を、一度だけ引いた。
「西街道のトリスタンへの早馬に、追いの伝言を頼めて? ――『今宵、ウェイヴァール家の馬車を見た者の話を、宿場ごとに、ひとつずつ、商人の耳に置いて回って欲しい。ただし、見たのが領兵か、巡礼か、外套の外つ国人か――三通りに、宿場ごとに違えること』」
御者台の上で、ロデリックが、ほんの一拍、間を取った。それから、低く、確かに、答える。
「……お嬢様。三通りの『見た者』を、聖女派に向けて、わざと泳がせるのですね」
「ええ。見られていたと思った者は、見ていた者を探すわ。三通りに散らせば、三通りに人を割く。割いてくれれば、こちらの本物の情報網が動く時間が、稼げますの」
「畏まりました」
馬車が、少しだけ速度を上げた。蹄の音が、一定のリズムを取り戻す。私は座席に身体を預けたまま、目を閉じた。閉じた瞼の裏に、聖女の引きつった頬の、あの細い筋の跳ねが、もう一度、再生される。あれが、私の手元に残った、いちばん確かな戦利品だった。
夜が、白み始めていた。
馬車の窓に額を寄せると、街道の遠く、丘の稜線の上に、朝靄が、薄い乳色の帯を引いている。領地までは、まだ三日の道のりがある。
ふと、後方の街道に、視線が引かれた。
馬車の轍の、ずっと後ろ。距離にして、半里か、それ以上。一騎の影が、こちらの速度に合わせるようにして、付かず離れず、進んでいる。漆黒の外套。襟元の銀の双頭の鷹までは、この距離では見えない。けれど、見えなくても、私には分かった。
胸元の銀盤が、肌の上で、ほんのわずか、温んだ気がした。
『……お早いお出ましね、W殿』
私は、扇を、もう一度、握り直した。