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予知公爵令嬢の盤上

第2話 第2話

第2話

第2話

扉の鉄環に伸ばしかけた指が、宙でひとつ拍を打った。

漆黒の外套、襟元に銀糸で縫い取られた双頭の鷹――隣国アルトリアの紋章。柱の影に半身を預けた男は、明らかに私を見ていた。視線が合っているのに、男は目を逸らさない。礼儀作法の埒外にある瞳だった。三日前、神殿の祭壇で頭蓋の奥に流れ込んだあの幻視に、この顔は、ひとりも、いなかった。

『誰なの、貴方』

胸の内で問う。返事のかわりに、男はほんのわずか、片眉を上げた。気づいたか、と試すような仕草。

私は、扇を握る指の力を一度だけ抜いた。象牙の骨が、掌の中で緩やかに息を吐く。背後の大広間から漏れてくる光は、私と男の影を、絨毯の上に長く重ねていた。聖女の喉から押し出される咳き込みのような嗚咽、王太子レオンハルト殿下が場を取り繕うために打つ甲高い笑い、貴婦人たちの扇が空気を切る音、ガラスの触れ合う鋭利な音。半年後の玉座の間で、燃え落ちる柱に背を預けながら、私はこの三つの音を再び聞くはずだった。火の粉に睫毛を焦がしながら。

それを覆すために、私は今夜の盤面を、扇の縁で破ったのだ。新しい駒が一つ、増えただけのこと。動揺してやる必要はない。

唇の端だけで、私は微かに笑った。気づきました、と相手に伝えるための、貴族のいちばん上品な合図。男の表情は動かない。動かないことで、応えていた。やはり、ただの傍観者ではない。アルトリアの紋章を堂々と襟元に掲げる者が、王城の大広間の入り口に、私が出てくる時刻を見計らったように立っている。それだけで、半分は答えだ。

『この男のことは、馬車の中で考える』

私は扉を押した。蝶番が、ひとつ低く鳴いた。

廊下に出ると、空気の温度が広間より一段下がった。背中の汗が、絹のドレスの内側で冷えていく。壁の燭台がまばらに揺れているだけで、誰一人として、私を出迎えに来てはいない。王太子妃候補から落ちた瞬間、王城の使用人たちはもう、私の名をどう呼ぶべきか分からなくなったのだろう。賢い無視だ。咎めはしない。

絹のドレスの裾が、石の継ぎ目に引っかかっては、また流れていく。私はわざと、足音を立てずに歩いた。広間からこぼれてくる音だけを、しばらく耳の奥に残していたかった。聖女の嗚咽は、もう作り物ではなく、本物のそれに変わりつつある。芝居の段取りが崩れた女の喉は、稽古通りには鳴らないものだ。

廊下の半ばで、王妃陛下お側付きのカーヴェル夫人とすれ違った。深い藍のドレスの袖口から、白絹の端がほんの少しだけ覗いている。金糸の刺繍。先ほど聖女の足元に落ちていた、あのハンカチだった。広間の中で、私の言葉を聞き、躊躇なく動いた者がいる。それも、王妃陛下に最も近い場所で。

夫人は私の前で足を止め、扇を胸に当て、ほんの一瞬、頭を傾けた。母が私に教えた、敬意の角度。

「ウェイヴァールのお嬢様」

「カーヴェル夫人」

「王妃陛下にお目通り願えるかどうか、明朝、御沙汰がございましょう。お嬢様の今宵のお話、すべて、しかと、王妃陛下の御耳にお届けする所存でございます」

夫人の声には、抑揚らしい抑揚がほとんどなかった。けれど、その平らな声色こそが、王妃陛下の側近に許された最高の感情表現だった。私は知っている。

「光栄に存じますわ、カーヴェル夫人。けれど、私は今宵のうちに領地へ下がりますの。御沙汰は、馬車の中まで届けくださいますよう」

「……承りました」

夫人の唇の端が、たしかに、一筋ほど上がった。広間の空気を読み損ねた者には、決して見せない種類の笑みだった。私と夫人の間で、言葉にならない約束がひとつ、結ばれた音がした。

私は頭を下げない。返礼に、扇を畳む指先だけを動かす。それで、この夜の挨拶は終わりだった。

夫人の藍のドレスがすれ違って遠ざかる、その代わりのように、廊下の柱の陰から、もうひとつ、扇の影が動いた。オルセン伯爵夫人――広間の第二列で、私の言葉に最初に眉を上げてくださった方だった。母の教育係を引き継いだ世代の、内のひとり。

夫人は私の腕に、ほんの一瞬だけ、自分の指先で触れた。

「九年前、貴女のお母様から頂戴した押し花のしおり、今も私の祈祷書に挟んでおりますの。――どうか、お母様の代わりに、お休みなさいませ」

それだけ言って、夫人は目を伏せ、もう一度離れていった。母は十年前に逝った。亡くなる三年前、押し花の作り方を貴族の若い令嬢たちに教えていた、その輪の中にいた一人だ。母の押し花が、九年越しに、こんな夜にもう一度、誰かを支えてくれた。

私は、唇を噛まなかった。涙腺は、九年前に使い切っている。代わりに、扇の銀糸の薔薇に、親指の腹を、一度だけ強く押し当てた。母の家紋の薔薇が、布越しに、私の指の腹を確かに刺し返してくる。

廊下の角を二つ折れ、控えの間に滑り込む。重い扉が背後で閉じる音と一緒に、私はようやく、長く吸って、長く吐いた。胸の中で凝っていた何かが、緩んだのではない。緩めたのだ。緩めなければ、これから先の二刻、頭が回らなくなる。

『……ひびは、入ったわね』

聖女の足元のハンカチ。寄進帳簿の墨の青み。東棟三階の、白い衣の裾。三つの駒は、もう私の手を離れた。これから先は、貴婦人たちの扇の影と、王妃陛下のお側付きと、神殿改革派の生き残りが、勝手に動かしてくれる。広間で勝とうとしたわけではない。聖女の物語を、聖女自身の重みで折るための、最初のひびを入れただけ。

問題は、その先だ。

幻視にいなかった、男。

鏡台に映る私の顔は、二十一の女のものなのに、目の下にだけ、十二の少女のころの影が落ちていた。婚約の儀式の朝、母に銀の鎖を首に掛けてもらった、あの娘の影だ。あれから九年、私はこの城で、誰かの脚本に従って動く悪役を演じ続けてきた。今夜、その紙を扇の縁で破った――それだけは、間違いがなかった。

それでも。

あの神殿の祭壇で、額の奥を貫いた半年後の光景――燃える書庫、王妃陛下の遺体に被せられた粗末な布、聖女の白い指が指し示す王冠の在処。あれを起こさせるわけにはいかない。それは、勝ち負けより、ずっと手前の、義務のようなものだ。

そして、その義務の地図には、たった今、新しい余白が一枚、足された。隣国アルトリアの双頭の鷹。

控えの間の窓を、一指で押し開けた。冬の終わりの、わずかに湿った夜気が、首筋に触れる。中庭の砂利の上に、ウェイヴァール家の馬車の灯が一つ、待っていた。御者台に座っているのは、執事のロデリック。私が三つの頃、馬の鼻づらに私の手を導いてくれた、その同じ皺の刻まれた手で、もう二十年近く、ウェイヴァール家の鍵を握っている男だ。

私はもう一度、長く息を吐いて、ドレスの裾を片手で持ち上げた。靴底の絹が、絨毯の毛足から石床に変わる感触を、足の裏で確かめながら、裏階段を下りる。階段の壁に、誰かが咳をするような乾いた風の音が反響して、私の足音と重なった。

中庭に出ると、ロデリックが御者台から滑り降り、いつも通りの歩幅で馬車の扉を開けた。私の表情を読もうとする視線は、ない。彼はもう読み終えている。それが、二十年分の信頼の形だった。

「ロデリック」

馬車に乗り込む前に、私は彼の名を、低く呼んだ。

「夜が明けるまでに、領地への早馬を三本。一本目は、北の鉱山番グレンへ。閉山している第七坑道、来月の朔の日に再開すると伝えて。二本目は、王都商会のエヴラール翁へ。中継貴族を通さぬ取引について、明日中にお目にかかりたいと。三本目は――」

私は、わずかに声を落とした。

「西街道の宿場町を回る吟遊詩人、トリスタン。彼に、領地の木戸を一つ、開けておくと伝えて。彼が連れてくる者は、行き場のない元侍女でも、街道の薬師でも、誰であれ、私が直接話を聞くわ」

ロデリックの白髪交じりの眉が、ほんの一筋、動いた。三本目の指示の意味を、彼は正確に理解した。

「……お嬢様。情報網を、お引きになるのですね」

「ええ。聖女のシナリオを破るには、聖女の知らない場所に目と耳が要るの。広間で誰が動かなかったか、誰の扇が震えていたか――それだけで足りる時代は、今夜で終わったのよ」

「畏まりました」

それだけ、答えた。それだけで、足りる男だった。彼の手が馬車の扉を支えるその角度に、私は子供のころと同じだけの安堵を覚えて、それを顔に出さないために、扇を一度だけ強く握り直した。

「もう一つ、ロデリック」

「はい」

「広間の入り口の柱の影に、漆黒の外套の男が立っていたの。襟元に、隣国アルトリアの双頭の鷹。――今夜から、城門と街道の関所に、その紋章の出入りを記録させて」

ロデリックは、わずかに目を細めた。皺の奥で、何かが鋭くなる。

「アルトリアが、王都に。……承りました。明朝、関所長と城門番に通達いたします」

私は、馬車に乗り込んだ。座席の絹張りが、ドレスの裾を静かに受け止める。扉が閉じる、その瞬間――

座席の隅に、白い封蝋の封筒が一通、置かれていた。

私のものではない。ロデリックのものでもない。封蝋に押されているのは、双頭の鷹。

『……ああ、なるほど』

胸の内で、私は静かに笑った。柱の影の男は、口を開かないかわりに、こうして文字で挨拶を寄越したのだ。御者台のロデリックが、いつ、どうやって、この封筒を馬車に置いた者を見落としたのかは、後で問えばいい。

封蝋を割らずに、ただ封筒の重みを掌に乗せた。普通の手紙より、少しだけ、重い。中に何か、紙ではない小さな物が、紙と一緒に入っている感触がする。指先に、わずかな金属の冷たさ。

馬車が、ゆっくりと走り出す。王城の灯が、窓越しに後ろへ流れていく。

私は、白い封筒を、扇と同じ指で、そっと拾い上げた。封蝋の鷹の双頭が、馬車の小さな灯火に照らされて、わずかに、嗤ったように見えた。

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