第1話
第1話
象牙の扇の骨が、掌の中で軋んだ。
「アデライン・ウェイヴァール公爵令嬢――貴様の悪行、もはや看過できぬ」
王太子レオンハルト殿下の指が、まっすぐに私を指し示している。声は震えていた。けれどそれは怒りではなく、たぶん、本人も気づいていない種類の高揚だ。背後に庇うようにして立つ聖女エルフィーナの白い指先が、殿下の上着の裾をそっと握っているのを、私は見ている。
シャンデリアの蝋が、頭上で一滴、落ちた。
王城の大広間に集った百を超える瞳が、一斉にこちらへ向く。耳元で硝子の触れ合う音、誰かの息を呑む音、絹擦れの衣ずれ。香水の匂いに混じって、ほんのわずか、汗の匂い。私を断罪する側の、緊張の汗だ。
『……ああ、なるほど。これが、その夜なのね』
胸の内で、ひとりごちる。三日前――神殿の祭壇に額を伏せていた瞬間、頭の芯を貫いた鋭い痛みと共に流れ込んできた幻視。半年後、この王国アデュリオンが、聖女と呼ばれる娘の手で、内側から喰い破られていく光景。崩れる王城、燃える書庫、王妃陛下の遺体に被せられた粗末な布。そのすべての始まりが、今夜の、この、断罪の夜会だった。
膝が震える――などということは、なかった。
私は十二の歳から、王太子の婚約者として九年を費やしてきた女だ。涙の場所は、すでに使い果たしている。
「殿下」
声を張らず、ただ場の空気の真ん中に置くように、私は呼んだ。広間の喧騒が、一瞬で凪ぐ。
「お言葉ですが、私の悪行とは、いかなるものを指しますの。具体的にお示しいただかねば、お答えのしようもございませんわ」
レオンハルト殿下の眉が苛立たしげに跳ねた。背後の聖女が、慌てたように小声で何事かを耳打ちする。殿下は深く息を吸って、芝居がかった声で続けた。
「貴様はこの慈愛深きエルフィーナを階段から突き落とし、薬を盛り、神殿の祭具まで毀損した。聖女の証言と、複数の侍女の供述がある」
聖女がうつむき、長い睫毛の影を落とす。涙ぐむ仕草の角度まで、稽古の跡がある。よく出来ている、と私は他人事のように評した。九年前、王妃教育の初日に私が習ったあの『慈悲の角度』、そのものだから。
『教えたのは、王妃陛下のお側付きの教育係。聖女の神殿に、なぜそれが伝わっているのかしらね』
貴婦人たちの扇の動きが、ぴたりと止まる。賢い者から順に、何かに気づき始めている。私は急がない。広間の中ほど、第二列に並ぶオルセン伯爵夫人の眉がわずかに上がった。あの方も、王妃様の教育係から礼儀作法を授かった世代だ。気づいた者の名前を、私は心の帳面に、一人ずつ静かに書きつけていく。味方ではない。けれど、敵ではない者の輪郭を、今のうちに測っておく。
爪を、掌に食い込ませる。痛み一つ分の覚悟を確かめてから、一歩、前に出た。絨毯の毛足を踏みしめる音が、自分の耳にだけ、やけに大きく響く。
聖女エルフィーナの足元に、金糸の刺繍が施された白絹のハンカチが、不自然に落ちている。私はそれを扇の先で示した。
「では、私もひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
殿下が、警戒の色を浮かべる。
「そちらの聖女様の足元に落ちておりますハンカチ――その金糸の刺繍は、王妃陛下の私室の調度に用いられている、王家専用の意匠ですわね。先月、王妃陛下の宝飾箱から消えた紅玉の指輪を包んでいたとされる、まさにあの布」
広間の貴婦人たちの間に、波紋のような囁きが広がった。指輪、と誰かが呟いた。王妃陛下の紅玉、と別の声が継いだ。私はその波紋が広がりきるのを待ってから、扇の先を、ほんの少しだけ持ち上げる。
「あの指輪は、王太子殿下の御生誕の折、北方の鉱山主より献上されたもの。王妃陛下が、ご自身の手のぬくもりごと、宝飾箱の最奥にお収めなさっていた品でしたわ。失われた朝、王妃陛下のお声がどれほど震えていらしたか――お側の女官たちは皆、覚えております」
殿下の喉仏が、ひとつ動いたのが見えた。母君の宝物。その重みは、誰よりも殿下ご自身が知っているはずだった。聖女が、ハンカチの存在に今になって気づいたかのように、白い靴の爪先で布の端を踏み隠そうとする。私はその仕草を、見逃さなかった。
「お足元、踏まれていらっしゃいますわよ、聖女様。証拠を、隠されては困りますの」
聖女の頬から、すっと色が引いた。
「神殿への寄進帳簿の、八ページ目と十二ページ目――数字の筆跡が、ほかのページと違うことを、私は存じ上げております。書き換えの跡。日付は、聖女様が王都へお参りになられた次の月から」
「私が三日前、神殿に参拝いたしました折――祭壇の脇の帳簿が、たまたま、ほんとうにたまたまですが、私の目に触れましたの。墨の色も、筆の太さも、ほかのページとはまるで違っておりましたわ。新しい墨は、古い墨よりほんの少し青味が強うございます。神官長様にお尋ねくだされば、修繕の届出が出ているかどうか、すぐにお分かりになりますでしょう」
私は、その夜の幻視のことは、口にしなかった。祭壇に額を伏せたあの瞬間、頭蓋にばらばらと流れ込んできた半年先の光景――燃える神殿、奪われた寄進金、王都を蝕む偽りの聖女の名。あれを動機にしたのだとは、誰にも告げる気はない。ただ、見るべきものを見た者は、見るべき場所に目を向ける。それだけのことだ。
寄進帳簿、と誰かが呆然と繰り返した。神殿の財務に手をつけたのなら、それはもはや王家だけの問題ではない。神を欺いた罪だ。貴婦人たちの息が、また一段と浅くなる。
『一手目。それから二手目』
私は静かに扇を開いた。象牙の骨に、銀糸で刺された我が家紋の薔薇。母の形見だ。母は、誇りという言葉を口で説かず、姿勢ひとつで娘に教えた人だった。
「そして、昨夜のこと。東棟三階、宰相令息ガレッド様の私室。深更二刻、廊下の灯が消えてのちに、白い衣の裾が滑り込みましたこと――私の侍女が、たまたま寝ずの番にあたっておりました」
「ガレッド様は、神殿改革派の急先鋒。聖女様の認可状に、最後まで反対なさっていたお方ですわね。その方の私室に、白い衣の方が深更にお運びになる――何かよほど、急ぎのご相談がございましたのでしょう。翌朝、ガレッド様が改革案の取り下げを宣言なさったことと、何の関わりもございませんようにと、私は願っておりますわ」
貴婦人たちの扇の影で、誰かが小さく笑い殺した。男たちの何人かが、明らかに視線を逸らした。広間の空気が、確実に、聖女から私の側へと、流れを変えつつある。シャンデリアの蝋が、もう一滴落ちた。今度はそれが、聖女のドレスの肩口に、白い染みを残す。誰も、それを拭ってやろうとはしなかった。
「だ、黙れ……っ」
殿下ではなく、聖女の方が先に声を上げた。慌てて口を押さえた指が、震えている。先ほどまで殿下の上着の裾を握っていた指は、もうそこにはなかった。離れた、というより、離されたのだ。殿下の顔から、最前までの高揚が引き、代わりに別種の青ざめが上ってきている。
私は微笑まなかった。勝った、とも思わなかった。ただ、あの祭壇の幻視で見た、燃え落ちる書庫の柱の感触が、まだ指の腹に残っている。あれを実現させるわけにはいかない。それは、勝ち負けより、ずっと手前の話だ。
『私はもう、誰かの脚本の悪役を、演じる気はないの』
胸の中で、自分自身に向けて、はっきりと宣言する。涙ながらに無実を訴え、断罪を受けて領地を追われ、半年後に祖国もろとも滅びる――そんな筋書きを書いたのが誰であれ、私はその紙を、今夜、扇の縁で破る。
「殿下」
私は再び、静かに呼んだ。声に、もう怒りはない。
「先ほどの婚約破棄の宣言、ありがたく頂戴いたします。私は今宵をもって、王太子妃候補の地位を返上し、ウェイヴァール公爵領へ下がります」
「な――」
「ただし、お願いがひとつ。その金糸のハンカチと、神殿の寄進帳簿、そして昨夜の東棟の見取り図――この三つを、王妃陛下の御前にお届けくださいますよう」
膝を、折らない。
代わりに、扇を畳んで、胸に当てる。それは王家への辞去の礼ではなく、亡き母への、敬意の角度だった。
回れ右をして、私は歩き出した。
絨毯を踏む音、ドレスの裾が床を撫でる音、誰も追いかけてこない静寂。背中越しに、聖女の小さく漏らす嗚咽と、王太子の取り繕う咳払いが届く。
『さて。馬車の中で、執事に伝えなくてはね』
公爵領の鉱山再開のこと。王都商会との直取引のこと。そして、半年後の幻視を覆すための、私だけの情報網のこと。
大広間の扉に手をかけた、その瞬間。
視界の隅に、見知らぬ男の姿が一瞬掠めた。柱の影、漆黒の外套、襟元に縫い取られた隣国アルトリアの銀の紋章――
私の足が、止まる。
幻視には、いなかった人物だった。