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断罪の日、私は領主になる

第3話 第3話

第3話

第3話

書斎の扉を、私は二度、間隔を置いて叩いた。

「クラリスにございます、お父様」

返事は、すぐには来なかった。扉の向こうで、紙束が机の上を滑る乾いた音と、椅子の脚が絨毯を擦る短い軋みだけが返ってくる。私はそのあいだに、扇の柄を腰のうしろにそっと収め、絹の手袋の指先を、もう一度膝の高さで揃え直した。蜜蝋とインクと、薄く煙草の匂い。漏れ出てくる空気の組成は、八歳のころから変わらない。

「……入りなさい」

低く、節を使い慣れた声。父、ハインリヒ・フォン・エーレンフェルト宰相補佐の声だった。

私は把手を引いた。

書斎の扉は、原作の挿絵で何度も見た位置のまま、内側へ静かに開く。机の角灯の光が、絨毯のえんじ色に長い影を落としていた。父は、机の向こうで立ち上がりかけた姿勢のまま、私を見て、そして、その動作のなかばで止まった。

「……クラリス」

呼ばれた自分の名前を、私はゆっくりと受け取った。父の机の上には、開きかけの王領台帳と、細身の羽根ペン、王宮から届いたばかりらしい封蝋付きの書状が一通。封蝋の色は、王太子家の紋を示す深い青。──広間の知らせは、もう、ここまで届いている。

「夜分に、申し訳ございません」

私は扉を、自分の手で静かに閉めた。扉の重みが、ぱたん、という音にならない、革と布が触れ合うだけの、ほとんど吐息のような音で、後ろ手にきっちりと閉じる。八歳のころ、父にこの閉め方を教わった。「貴族の娘は、扉に音を立てさせぬものだ」と。私はその教えを、十年越しに、今夜のために使うことになる。

絨毯の上を、革靴の底が音を吸われていく。机の手前まで進み、令嬢の礼の手順通りに、裾をそっと持ち上げて軽く膝を折る。広間で殿下に返したあの礼と、角度を一分も変えなかった。

父の眉が、ほんのわずかに、寄る。

「──泣かぬのか」

小さく、ほとんど独り言のような声だった。

私は顔を上げた。机を挟んで、父の灰色の瞳と、まっすぐに視線が合う。

「お父様。今宵、王太子殿下より婚約破棄の宣告を賜りました。理由は、ミレイア・フィンク男爵令嬢への侮辱、ならびに、私の傲慢の咎、と承っております」

声は、自分でも意外なほど落ち着いていた。喉の奥にはまだ、広間で噛み締めた鉄の味が、ごくかすかに残っている。けれど、その鉄錆の感触ごと、私は、これから並べる数字の踏み台にするつもりでいた。

「ですが私は、修道院送りも、廃嫡も、願いに参ったのではございません」

父の指が、机の上の羽根ペンの軸の上で、こつ、と一度だけ止まる。

「──何を、言っている」

『お父様には、廃嫡も、修道院も、願わない。』

馬車の中で何度も繰り返した一文を、私は唇の内側で、もう一度なぞった。鉄の味は、もうほとんど消えていた。代わりに、舌の上には、これから自分が並べる数字の輪郭だけが、はっきりと残っている。

「お母様の生家、ローゼンタール辺境伯家。──そちらの代襲相続権の行使を、お許しいただきとう存じます」

父が、息を吸う、その音だけが、書斎に小さく響いた。羽根ペンを握ろうとして、握らずに止めた指の関節が、机の縁で、白く浮き上がる。父の灰色の瞳の中で、瞳孔が、ほんの一段、絞られたのが見えた。──こちらの口から、母の生家の名が出ることを、想定していなかった顔。

「お母様亡き後、嫡子のいないローゼンタール本家の規約により、私には、辺境領のうち東の銀鉱山一山と、それに付随する痩せ地、隣国アルスハイムへ通じる古い間道の一区間について、権利が残されていると伺っております」

私は、息を継いだ。コルセットの骨が、肋の下を一度だけ、軽く押し返してくる。

「年間生産額、銀でおよそ四万二千ガルド。王都への上納が三割、坑道補修と鉱夫への支払いを差し引いて、領主の手元に残るのは、平年でせいぜい八千ガルド前後。痩せ地の麦は、王領平均の半分の収量しか上がらず、隣領との交易路は、関税五分のまま十二年放置されております」

数字を口にするあいだ、私は、父の瞳のどこにも視線を逃さなかった。眉の動き、唇の端、机の上で止まった指。──そのすべてが、私の差し出した数字を、ひとつずつ秤に乗せていくのが分かる。

父の口の端が、ほんのかすかに、開く。

「──どこで、その数字を」

「お母様の遺された手帳に、ございました」

私は、迷いなく嘘をついた。

母の刺繍の手帳の存在自体は、本当だった。私はそれが屋根裏の長持の底にしまわれていることまで、原作のおまけ年表で知っている。中身を開けて確認したことはない。けれど、父の世代が信じやすい筋書きとしては、これがいちばん通りがよかった。

「お父様」

私は、両手をドレスの脇に揃えた。

「私を、修道院へやれば、エーレンフェルト家の名誉は最低限保たれましょう。ですが、母方の領地は、王家へ召し上げか、ローゼンタール分家の手に渡り、そのまま、我が家とは無縁になります。──廃嫡なされば、なおのこと」

「クラリス」

「対して、私が辺境へ下り、領主代行として赴任いたしますれば。エーレンフェルトの娘は『破談を恥じ、領地で母君を弔う』と、外向きには整います。家には傷がつかず、ローゼンタールの権利は当家の影響下に残り、王家の心証も、いまの段階であれば、悪くはなりますまい」

父の灰色の瞳が、私の顔の上を、上から下へ、ゆっくりと一度なぞった。広間の知らせを耳にしたときから、たぶんずっと、頭の中で組み立てていた『泣き崩れる娘への対処』の段取りが、今、彼の中で、音もなく崩れていくのが見えるようだった。組み立て直した別の段取りが、その奥で、新しい木組みのように、ゆっくりと立ち上がっていく気配も。

「──お前は」

父は、椅子の背に、深く身を沈めた。革張りの椅子の背が、ぎし、と低く鳴った。その音は、私が幼いころ、書斎の前で叱られるのを待っていた夜に、何度も聞いた音と、同じ音色をしていた。

「先ほどまで、何と思って馬車に揺られていた、クラリス」

「お父様の娘として、家を傷つけぬための算段を、いくつか」

私は、唇の端だけを、わずかに動かした。

「広間で泣くことも、殿下にお縋りすることも、頭の中で考えはいたしました。ですがそれでは、お父様が、明朝、宮中で立つ瀬を失われると気づきましたゆえに」

書斎の角灯の芯が、じ、と一度、油の音を立てた。光の揺らぎが、机の上の青い封蝋を、ほんの一瞬だけ、濃い藍に沈めた。

父の指が、机の上で、深い青の封蝋を、つ、と一度なぞる。広間からの早馬の書状だ。差出人は、宰相そのひとであろう。私は、その封の表書きを直視せずにいた。視界の端で、その封蝋の輪郭だけを捉えながら、自分の呼吸を、四つ数えるあいだ吸い、四つ数えるあいだ吐く。父が口を開くまでの時間が、ふだんの三倍に引き延ばされたように感じられた。

長い、長い沈黙のあと、父は、ようやく口を開いた。

「──ローゼンタールへの赴任は、許す」

声は、低かった。

「ただし、家令も護衛も、わしの手の者は、つけぬ。お前が母上の名を持ち出した以上、これは、お前自身の手で行うべき仕事だ。──行けるか」

「行けます」

私は、即答した。

父の瞳の奥で、ごくかすかに、光が揺れたのを、私は見逃さなかった。それは怒りでも憐れみでもなく、たぶん、初めて見る娘の輪郭を、もう一度測り直そうとする目の色だった。

「下がってよい。明朝、宰相閣下のお返事を持って、書斎へ参れ」

「かしこまりました、お父様」

私は、もう一度、令嬢の礼を返した。先ほどよりも、ほんの少しだけ、深く。

書斎の扉を閉めたあと、廊下の角を曲がるまで、私は決して背筋を弛めなかった。歩幅も、足音の間隔も、扇の握りの角度も、すべて、父の書斎へ来るときと同じに保つ。角を曲がりきって、はじめて、肺の底に溜め込んでいた息を、絹の手袋の内側へ、そっと逃がした。

階下の使用人控えの方角から、低い囁きの欠片が、夜気に乗って、私の耳の端を撫でてくる。『破談』『領地下り』『母君の』──その単語のつなぎ目を、私は、コルセットの内側で、ひと粒ずつ拾い上げていく。

社交界が、もう、私の物語を勝手に書き始めている。

『──結構です。』

階段の手すりに、絹の手袋越しに指を添える。木の冷えが、ほんの少しだけ、肘の内側まで遡った。

『書きたいように、書いてくださいませ。』

明朝、私は、紺色のお仕着せの裾を握って下がっていったあの娘の名前を、自分の口で、もう一度呼ばねばならない。

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