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断罪の日、私は領主になる

第2話 第2話

第2話

第2話

馬車の揺れに合わせて、膝の上の扇の骨先が、絹のドレスの皺をひと筋なぞった。

王都の中央通りを離れ、車輪はもう貴族街の緩い坂道に乗り入れている。先ほど指で書いた『R』の字も、ガラス窓の結露ごと、もう跡形なく乾ききっていた。御者の鞭の音と、蹄鉄が石畳を打つ二拍子だけが、暗い箱の中を規則正しく区切っていく。

蜜蝋の残り香が、まだ髪と襟元に絡んでいた。三百のざわめきも、レオンハルトの息の止まる音も、ミレイアの白百合と薄い薔薇の香水も、絹の繊維の隅にしぶとく染みついている。私はそれを払い落とすように、首筋を一度、軽く回した。鯨骨のコルセットが、まだ肋骨の下を律儀に押し上げている。

『──四万二千ガルド。』

数字が、ふと頭の中央に浮かんだ。

ローゼンタール辺境伯領、銀鉱山の前年度年間生産額。前世、攻略wiki『銀月の誓い徹底攻略』のおまけ年表で、ある熱心なファンが貼り付けていた設定資料の数字だ。深夜二時のベッドで、ノートパソコンを腹の上に乗せて何度もスクロールしながら、私は『よくここまで作り込んだな』と感心していた。あのとき呆れまじりに眺めた数字が、いま十六歳の頭蓋骨の中で、銀貨の塊そのものの重みで光っている。

『王都への上納が三割。残り、二万九千四百ガルド。鉱夫への支払いと坑道補修費を引いて……手元には、せいぜい八千ガルドほどが残る、はず。』

膝の上で、扇を布張りの面ごと、ぎゅ、と握り直した。骨の継ぎ目が指の腹を押し戻す感触は、前世のオフィスで使っていた電卓のテンキーより、ずっと頼りない。それでも、頭の中の算盤は、もう自分の意思では止まらなかった。

『八千ガルドのうち、衛兵への給金が二千。残り六千。痩せ地の麦は、ヘクタール当たり収量が王領平均の半分以下。麦と豆の三圃制を回せば、三年で一・四倍。けれど、それまでに資金が、保たない。』

唇は固く閉じたまま、頭の奥の声だけが、誰にも聞かれずに数字を弾いていく。前世で五年勤めた事務職で、月末に作っていた損益計算書と、構造はなにひとつ変わらない。売上、原価、人件費、税。費目の名前が違うだけで、引き算の手順はまったく同じだ。

『──だから、銀の販路を、組み替える。』

王都の御用商会、ライムント商会。原作の設定資料では、ローゼンタール領の銀をほぼ独占的に買い叩いていた家だ。彼らに渡す相場は、隣国アルスハイム市場の六割。差額の四割は、商会の懐にまるごと消えている。私はその割合まで、嫌になるくらい正確に覚えていた。

馬車が緩く右に曲がり、街灯の橙色がガラス窓を一瞬だけ斜めに撫でた。私の頬の上で、その光がさっと滑って、また闇に戻る。前世の終電のガラス窓を、ふと思い出した。揺れる橙色、流れる夜、似たような姿勢で膝の上に鞄を乗せて、明日の朝礼の段取りを頭の中で組み直していた、あのころの私を。

『隣領のヘルベルク商会と、競合入札を仕掛ける。』

頭の中の項目が、整列していく。ローゼンタール領の南東は、ヘルベルク伯爵領と境を接している。彼らは王都に独自の商隊を持ち、銀器工房とも取引があった。原作のヘルベルク家は脇役だったが、領主夫人が母の遠縁に当たることまで、私はおまけ年表で知っている。叔母とまでは呼べないが、一通の手紙くらいは、礼を尽くせば届く距離だ。

『手紙は明朝、自筆で。封蝋には、お母様の旧家紋を押す。』

爪の先で、絹の手袋越しに掌の真ん中を、こつ、と一度叩いた。頭の中の項目に、青いインクで一本、線が引かれていく。

『次に、間道。』

ローゼンタール領の北を抜ける、隣国アルスハイム王国へ通じる古い山越えの間道。両国の関税は『未整備区間につき暫定五分』のまま、もう十二年据え置かれていた。攻略wikiのおまけマップに、赤いしるしで『歴史的経緯から放置』と注釈が入っていた、あの一本道だ。

塩。織物。安価な麦酒。隣国の物資が、痩せた辺境を通って、王都の二級市場に流れ込む構図が、頭の中で線を引いていく。前世なら、これは『地方拠点の物流の組み替え』と呼ぶ仕事だった。資料の角に三色のしるしを引いて、月曜の会議で読み上げるような、地味で実直な、けれど確実に銅貨を増やす類いの段取り。

『──まずは、人が要る。』

数字を弾く手が、ふと止まった。

私は、人を、つい先ほどまで、すべて手放したばかりだった。

膝の上の扇を、両手で軽く包み込んだ。布の冷えが、手袋越しでも指の付け根に染みてくる。

アンナ。

四歳から私の世話をした、八つ年上の侍女。原作のクラリスが、二年前、社交界で恥をかかせたという理由で冷たく追い出した娘。涙ひとつ見せず深く礼をして、紺色の地味なお仕着せの裾を握って下がっていった、あの広い後ろ姿。彼女の故郷は、王都から東に三日ほどの、麦と林檎の村だった。

セバス。

三十年エーレンフェルト家に仕えた老執事。父が宰相補佐として家を空けがちだった頃、まだ幼かった私の手を引いて、邸の薔薇園を歩いてくれた人。原作のクラリスは、彼にも当たり散らした。皺の刻まれた頬を、一度も叩かなかったのが、せめてもの救いだ。

『──頭を、下げる。』

呟きは、声にならず、唇の内側で薄く溶けた。

舌の根に、まだ鉄の味が残っている。広間で噛んだ唇の内側の、薄い切り傷。前世なら絆創膏を貼って終わりの程度の傷だが、今夜の私は、この鉄の味のほうを、しばらく忘れずにいたかった。

『額を床につけて、私が、頭を下げる。』

──ふと、頭の隅で、別の光景が動いた。

レオンハルトは、いまごろ、まだ大広間に立ち尽くしているかもしれない。

私が膝を折り、扇の手元を返し、あの完璧な礼を最後まで崩さずに退室したあと。ミレイアの震える手を取りながら、彼はきっと、ほんの数秒のあいだ、自分の声が大広間に響いた瞬間の手応えを、頭の中で何度か巻き戻すはずだ。原作のレオンハルトは、私が泣き縋り、髪を振り乱し、ミレイアに掴みかかる姿を期待していた。それを引き出して初めて、彼の『正義』は仕上がる仕掛けになっていた。

私は、その台本に、一行も付き合わなかった。

『──あの方は、あとから、必ず人を遣される。』

私の頬の動きを、声の高さを、扇の角度を、思い返して、ひと粒ずつ違和感を集めるはずだ。藍色の正装の襟元の金糸を、長い指でなぞりながら、側近の誰かに『あれを少し、見てくるように』と、低い声で言いつける。原作にはなかった一手。けれど、彼の性質を考えれば、必ず打ってくる手筋。

私は、それも、織り込む。

『──偵察が来るころには、ローゼンタールの帳簿は、もう、私の手筋で、整っている。』

馬車の窓に、見覚えのある門柱が近づいてきた。エーレンフェルト邸。漆黒の鉄柵の向こう、夜霧の中に滲んで揺れる橙色の角灯。原作のクラリスが、馬車から転がるように降りて、化粧の崩れた頬のまま父の書斎へ駆け込んだ、あの邸。私は息を、ひとつ、整える。

『お父様には、廃嫡も、修道院も、願わない。』

膝の上で、扇の柄を、強く握り込んだ。

『──ローゼンタールの相続権を、行使する。』

馬車が、邸の正面玄関の前で、ゆっくりと止まった。

御者の足音が回り込み、扉に手がかかる気配がする。私はもう一度、両手で扇を握り直した。骨の軋みは、もう怖くない。コルセットの鯨骨が押し上げる肋骨の下で、心臓の音が、規則的に、強く打っている。

扉が開いた。

夜霧の冷えた空気が、絹のドレスの裾を一瞬だけ撫でて、すぐに引いていく。御者の差し出した手を借りずに、私は自分の意志で踏み台に足を下ろした。砂利の音が、革靴の底から、はっきりと耳に届く。

見上げれば、二階の角の窓に、灯りが点いていた。お父様の書斎だ。

『──参ります、お父様。』

私は背筋を伸ばし、扇を腰の高さに収め、玄関の石階段に足をかける。扉の内側で、たぶんもう、セバスが私の足音に気づいている。

戸を一度、強く叩く前に、私は深く、長く、息を吸った。

夜霧の中、蜜蝋とインクの匂いが、玄関の隙間から、ほんの少しだけ、漏れてきていた。

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