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断罪の日、私は領主になる

第1話 第1話

第1話

第1話

扇の骨が、私の指の中で軋んだ。

クラリス・フォン・エーレンフェルト――その名を、第二王子レオンハルト・ルクシオン・ヴァレンティウスの低い声が大広間に投げ捨てた瞬間、コルセットの鯨骨が肋骨を一段締め上げる。シャンデリアの蜜蝋の匂いが、やけに濃く鼻の奥に絡みついた。

「お前のような傲慢な女は、もはや我が婚約者として不要だ」

天井のシャンデリアから注ぐ光が、私の純白のドレスの裾を蜜色に染めている。三百を超える貴族たちのざわめきが、波が引くようにすっと退いて、誰もが息を潜めて私とレオンハルトを見比べていた。殿下の後ろには、男爵令嬢ミレイア・フィンク。亜麻色の髪の隙間から、震える琥珀の瞳がこちらを盗み見ている。

『──ああ。』

爪が、絹の手袋越しに掌に食い込む。

『ああ、そうか。』

熱を持った頬の裏側で、何かが、ぱきりと音を立てて剥がれた。蜜蝋の匂いも、ミレイアの白百合と薔薇の香水も、レオンハルトの眉間の浅い皺も、私はもう一度、知っていた。

『──私は今、断罪されているんだ。』

頭の奥で、別の光景が音もなく立ち上がる。

深夜二時のデスクライト。マグカップに浮かぶインスタントコーヒーの油膜。パソコンの画面に映る、ロード中の歯車アイコン。乙女ゲーム『銀月の誓い』、第二王子レオンハルト・ルート、エンディング分岐第七番、ゲーム内通称『悪役令嬢処刑END』。深夜の自室の畳の冷たさ、首を回したときに鳴った軋み、ノートパソコンの排熱が膝に伝う重さ――前世の身体の輪郭が、シャンデリアの下の十六歳の肌の上に、薄い膜のように重なって滲んでくる。

ノートの隅に書き殴ったフラグ管理メモも、攻略wikiのコメント欄に三度書き込んだ考察も、深夜のスマホで撮ったCGのスクリーンショットも、全部覚えている。攻略ノート三冊目の八十二ページ、赤いボールペンで二重線を引きながら書いた一文――『クラリス、レオンハルト・ルートでは三日後に処刑確定。回避ルートなし』。

──三日後、王城北塔の処刑台で首を撥ねられる悪役令嬢の名前は、クラリス・フォン・エーレンフェルト。

『私だ。』

笑いそうになって、私は唇の内側を強く噛んだ。鉄の味が、舌の根に広がる。十六歳のはずの身体には新しい感覚のはずなのに、馴染みすぎていた。前世、終電を逃して齧った冷えた菓子パンと同じ、あの頼りない鉄の味。

「クラリス。聞こえぬのか」

レオンハルトの声が、わずかに苛立ちを帯びる。藍色の正装の襟元で、金糸の刺繍が冷えた光を弾いた。私は伏せかけた顔をゆっくりと上げた。広間のざわめきが、また一段、重くなる。

ミレイアが、蜜色のドレスの肩口を小さく竦めた。香水の残り香――白百合に、薄く薔薇。原作スチル第二十三番、ヒロイン覚醒イベント直前の差分CG。スマホ画面で何度もスワイプした、あの設定通りの香り。

『──ゲーム通り。』

頭の中で、私は項目をひとつずつ照合していく。婚約破棄イベントの発生条件。ヒロインの好感度判定値。断罪を見届ける貴族たちの座席表。第三公爵夫人の薄紫の扇、宰相補佐の左胸で揺れる勲章、二列目でわずかに身を引いた伯爵令息の靴の角度――どれも、攻略本のスチル画像で何度も眺めた配置そのままだ。何もかもが、原作の文章のままだ。

ならば、この後の流れも、私は知っている。

ここで悲鳴を上げれば、罵声を吐けば、ミレイアの髪を掴めば、私は『醜い悪役令嬢』として確定する。家を巻き込んで失墜し、三日後の朝、処刑台で首を晒す。最悪、エーレンフェルト家ごと取り潰される。前世の私は、あのバッドエンドのCGを眺めながら、ぬるくなったコーヒーを啜って『ざまあ』と打ち込んだ。

──冗談じゃない。

処刑台の冷えた木目、首にかかる縄の重さ、背を押す衛兵の手のひら――原作スチルでは描かれなかった『その先』までも、息ひとつで私は想像できてしまった。やられっぱなしで終われるほど、三十二年ぶんの生活に未練がない人生でもなかった。

『私は、その役を、もう降りる。』

爪を掌に立てたまま、私はゆっくりと膝を折った。絹のドレスが、磨き上げられた大理石の床に音もなく広がっていく。広間中の視線が、私を貫く。

「──承知いたしました、殿下」

声は、自分でも驚くほど澄んでいた。

「殿下のご意志、確かに賜りました。レオンハルト様とミレイア様、お二人のご多幸を、心より」

扇の手元を返し、令嬢の礼の手順通りに、視線を伏せ、踵を引き、裾をそっと持ち上げる。八歳から叩き込まれた所作が、震えのない指で完璧に再現されていく。背筋から首筋へ、首筋から指先へ、流れるべき角度が一つも狂わない自分に、私は内心で呆れるほど驚いていた。

レオンハルトの息が、止まった。

ミレイアが、目を見開いてこちらを見ている。

シャンデリアの光が、私のドレスの絹を白く弾いた。

『──盤面は、もう動き始めている。』

退室する廊下の足音は、私一人分だけが大理石を叩いていた。誰も追ってこない。原作でも、断罪後のクラリスを庇う者など、ひとりとしていない。

歩きながら、私は頭の中で算盤を弾く。前世なら電卓のキーを叩く速度で、項目が頭の隅に整列していく。

エーレンフェルト家の領地、王都のタウンハウス、年明けに支払う予定だった社交費。それらはもう、私のものではない。代わりに私の手元には、原作の誰も思い出さなかった切り札が、一枚だけ残っている。

──母の遺産。

母の生家、ローゼンタール辺境伯家。八年前に病で逝った母から、その代襲相続権の一部が、嫡子のいない伯爵家規約に基づいて私に遺されている。痩せた土地、銀鉱山ひとつ、隣国アルスハイムと国境を接する古い間道。原作のクラリスは、それを思い出す前に処刑された。だから、王都の誰も今、その権利の存在を覚えていない。

『使う。』

足が、ひとりでに速まる。

攻略wikiのおまけマップを、私は深夜に何度も眺めた。ローゼンタール領の鉱山の年間出力、間道の幅、隣領との関税率。三十二年生きた事務職の私には、その数字の意味が読める。痩せた土地でも、回せる手はある。原価と販路、人件費と税率――前世のオフィスで毎月眺めた損益計算書と、構造はなにひとつ変わらない。

廊下の窓から差し込む月の光が、私の影を細長く伸ばした。胸の奥で、十六年間ずっとつかえていた『この方に愛されなければ私は無価値だ』という重しが、ぱきり、と音を立てて剥がれていく。──だって、もう、レオンハルトに愛される必要が、ない。

馬車止めまで来たところで、私は足を止めた。

エーレンフェルト家の紋章が刻まれた漆黒の馬車。御者は私の顔を見た瞬間、ぎょっと目を見張った。たぶん、泣き腫らしていない私の顔が、予想外だったのだろう。

「邸へ」

短く告げて、私は座席に身を沈める。

膝の上で揃えた手袋越しに、自分の指が冷えていないことに気づく。あれほど震えていたはずなのに、もう、どこにも残っていない。

『脚本は、破る。』

ガラス窓の外を、夜の王都が流れていく。街灯の橙色が、白壁や石畳の凹凸を撫でながら、矢のように後ろへ後ろへと滑っていく。原作のクラリスは、この馬車の中で泣き崩れて化粧を崩し、邸に着くなり父に縋りつき、修道院送りを哀願したはずだった。

私はやらない。

帰ったら父に直談判する。廃嫡も修道院も願わない。私の名で、ローゼンタール辺境領の相続権を行使する。冷たく追い出した侍女のアンナを呼び戻す。老執事のセバスにも、額を床につけて頭を下げる。

胸の中で、項目が一つずつ、収まるべき場所に収まっていく。

馬車が王都の坂道を下る。窓ガラスに、薄い夜霧が結露した。

指先で、私はそっと、そこに一文字だけ書く。

『R』。

ローゼンタール。母の生家の頭文字。書いた途端、夜霧の文字は、流れていく涙のように、すぐに掠れて消えていく。

『──お母様。』

唇は動かさず、私は心の中だけで呼ぶ。

『私、悪役令嬢を辞めます。』

馬車の車輪が、王都の中央通りの石畳に乗り上げ、軽く跳ねた。揺れに合わせて、座席横に置いていた扇が、こと、と床に落ちる。

私は屈んで拾い上げ、骨の軋みを指先で確かめてから、しっかりと膝の上に置き直した。

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