第3話
第3話
最初の鐘が鳴り終わるより早く、侍女たちは扉の外に整列していたらしかった。
軽い叩きの音と、控えめな名乗り。私が応える前に扉は開かれ、四人の影が音もなく室内に滑り込んできた。深い藍の襟、白い前掛け、結い上げた髪。誰の顔も見覚えがないのに、皆が同じ表情をしていた。微笑みの輪郭だけが整えられていて、瞳の奥には何も住んでいない。
「お支度を、お進めいたします」
先頭の侍女が、私の足元に膝を折って告げた。視線は床の絨毯の縁から動かない。私が頷くより早く、別の二人が衣装櫃の前に進み、上等な絹のざわめきが部屋を満たしていく。
私は寝台の縁に腰を下ろしたまま、彼女たちの手の運びを眺めていた。指先は速く、無駄がない。けれどその無駄のなさは、料理を切り分ける刃の動きにも似て、私の体ではなく、布の方を慈しんでいる手つきだった。襟を整える指が肌をかすめるたびに、彼女たちは小さく息を呑み、すぐに位置を直す。触れたこと自体を、過ちと感じているらしかった。
髪を梳く櫛が、首筋を細く撫でた。
「……お痛うございましたら、お申しつけください」
声音はあくまで丁寧だった。けれどその丁寧さは、壊れ物を扱う指の慎重さとは違っていた。割れたら自分が罰されるものを、息を詰めて運ぶ手つきだった。鏡の中の私の顔を、誰も覗き込まない。私の髪に触れる女たちの瞳は、髪先の毛流れだけを追っていて、その奥にいる人間を見ようとはしなかった。
扉の向こうから、鎧の擦れる音はしなかった。
侍女が来たから退いたのだろうか、それとも、まだ廊下の端に立っているのだろうか。耳をすましても、絹の擦れる音と侍女たちの呼吸が、それ以外の物音を細く塗り潰していた。
食堂に通されたのは、朝の光がまだ柱の片側にしか届かない刻限だった。
長い卓だった。両端に椅子が一脚ずつ。私が座るのは上座のひとつだけで、もう一方は誰のためでもなく、銀の食器だけが律儀に整えられている。湯気の立つ皿、磨かれたパン、果実の盛られた籠。匂いは確かに豊かだった。けれど私の前に並ぶ皿は、どれも私の手が届くまでに、ほんの僅か遠ざけられていた。
侍女が三人、卓の脇に控えていた。背筋を伸ばし、手を前で重ね、私の動作のひとつひとつに合わせて器を運ぶ準備をしている。私が匙を取ると、彼女たちの呼吸が一斉に止まる。匙の腹が皿の縁に触れる音さえ、この広間では大きすぎる気がした。
果実を一口含んでみる。甘いのだろう。冷たく、瑞々しいのだろう。けれど舌の上で味は一向に解けず、ただ喉の奥へと滑り落ちていく。
「……お口に、合いませんでしたか」
控えていた侍女のひとりが、声を細めて尋ねた。私は首を振り、もう一口含もうとして、匙の柄を握る指がひどく重いことに気づいた。
聖女様、と呼ぶ声に、ためらいはない。けれどその尊称が向けられている先は、私の顔ではなく、白衣の襟元の刺繍の辺りだった。彼女たちの瞳は、私の輪郭の少し外側を撫でて、決して内側に踏み込まない。腫れ物に触れぬ手つきとは、こういうことを言うのかもしれなかった。
聖女に触れて、もし傷つけてしまったら。 聖女が何かを口にして、もし不興を表したら。
その怯えが、彼女たちの慎みの全てだった。慎みの形は昨夜のアルセインのそれと、表からは見分けがつかぬほどよく似ていて、けれどその根を辿れば、まったく別の場所から伸びていた。
私はパンをひと欠片だけ千切り、口に運んだ。咀嚼の音が、誰の耳にも届かぬよう、自分の頬の内側で殺された。
卓の向こうの椅子は、誰のためでもなかった。 聖女に対の席はない、と司祭は昨夜そう告げたらしかった。神に妻はないのと同じことだ、と。
匙を置いた音が、思いのほか高く鳴った。
侍女のひとりが、すぐさま卓に身を寄せ、私の前から皿を引いた。お代わりを問う言葉も、もう召し上がらないのですかという確認すらなかった。聖女がひとさじだけ口にして匙を置いた、その所作の意味は、誰にも問い返してはならないらしかった。
広間の扉は、二枚とも閉ざされていた。 扉一枚を隔てた向こうにあったはずの呼吸は、ここまで届かない。何の物音もしないことが、こんなにも肺を冷やすものだとは知らなかった。
私は両手を膝の上に重ね、卓の木目をぼんやりと辿った。木の節がひとつ、年輪を歪ませて深く沈み、そこに古い染みが残っていた。誰かがかつて、この卓に肘をついて笑った跡かもしれなかった。聖女のための食堂になる前、ここでは別の人々が、湯気の立つ皿を囲んで、もっと近い距離で呼吸をしていたのだろう。
ふいに、目の奥が熱くなった。 泣くような場面ではない、と思った。誰も私を打擲したわけでもなく、誰も私を罵ったわけでもない。ただ、誰の手も、私の手のひらほど近くには寄ってこないというだけのことだった。
侍女が卓の端で、湯気の立つ茶を新しく注いだ。湯の音は控えめで、けれどそれは、湯の音以外に縋るもののないこの広間の沈黙を、束の間だけ救うものだった。
食堂を出ると、回廊の冷気がいきなり頬を打った。
長い廊下の天井は遠く、高窓から斜めに差す光が、石の床に格子の影を落としている。侍女たちは三歩後ろに付き従い、私の歩幅に合わせて静かに進んでいた。私が立ち止まれば、彼女たちも止まる。私が振り返れば、揃って視線を伏せる。背に張りついた気配が、心地良いとは決して言えなかった。
回廊の角、燭台の下に、銀の影が立っていた。
朝の最初の見送りから、どれほどの刻が経っていただろう。彼の鎧は変わらず夜のままの艶を失った色で、肩当てに小さな傷が一筋だけ加わっているのに、私はすぐ気づいてしまった。気づくほど、私はその姿の輪郭を、もう覚えてしまっていた。
「……アルセイン様」
呼ぶと、彼は剣の柄から手を下ろし、深く頭を垂れた。視線はやはり、私の白衣の裾の高さで止まる。
「お食事は、滞りなく」
それは問いかけのようでいて、答えを求めているのかどうか分からない、独り言にも近い声音だった。私は頷きかけて、けれど頷くだけでは足りない気がして、唇を一度噛んだ。
侍女たちは私の三歩後ろで、また音もなく止まっている。回廊の少し奥で、別の衛兵が無表情に通り過ぎていく。誰もが静かだった。誰もが、私との間に、決められた歩数を保っていた。
「……お尋ねしても、構いませんか」
声は、思ったより平らだった。
「はい」
「あなたを、何と、お呼びすれば」
彼の睫が、はっきりと一度、揺れた。 答えを探すための間ではなかった。問われること自体への、ささやかな動揺に見えた。
「……アルセインと」
短い答えだった。
ドラクス、という家名はそこに添えられなかった。騎士団長、という肩書も、剣の任、警護の役、そういった彼を覆っていたいくつもの輪郭が、そのひとつの名の中に小さく畳まれて、私の前に差し出されていた。
家名を抜くということは、彼の中で何かを脇に置くことだったらしい。彼が背負っている家のことを、剣の家系のことを、私はまだ何も知らない。それでも、その名のひと音だけを差し出されたとき、私は彼が今、どれほど無防備な場所に立っているかを、理屈ではなく分かってしまった。
「……アルセイン」
口にしてみた。 様、を抜いた音は、舌の上であまりに頼りなく、けれど不思議と冷たくはなかった。
彼の喉が、ひと拍だけ動いた。何かを言うつもりはなかったらしく、彼はすぐに視線を伏せ、剣の柄を握り直した。鎧の擦れる音が、回廊の石にこつん、と短く落ちた。
「お聖堂までの道筋を、確かめて参ります」
彼はそう告げ、半歩、私の前から退いた。 退き方は流れるようで、けれど、退きながら彼が一度だけ、私の白衣の裾の刺繍の銀糸へと視線を寄越したのを、私は見た。それは咎める視線でも、問う視線でもなかった。私の名を呼ばずにそのまま立ち去ることへの、声にならない詫びのようだった。
足音は、来たときと同じ歩幅で遠ざかっていった。
侍女のひとりが、背後で小さく息を呑む音がした。 聖女様が騎士のひとりに、家名なき名で呼びかけた。それが彼女たちの目にどう映ったのか、私は振り返らなかった。
私は、立ち止まったまま、回廊の床に落ちた格子の影をしばらく見つめていた。
聖堂への馬車に乗せられたのは、それから半刻ほどあとだった。
車輪の軋む音が、石畳の上を細く響いた。窓の外を流れる王宮の屋根は鈍い灰色の鉛で葺かれていて、朝の光をどこにも返さない。供回りの騎馬の影が、車窓に絶え間なく映る。その中に、一度だけ、銀の髪が遠く見えた気がした。視線を戻したときには、もう別の鎧の背に紛れていた。
明日には、初の祈祷が控えている。 司祭たちが用意した手順、順序、唱えるべき祝詞。聖女としての私の役割は、すでに細かく刻まれて、私の呼吸の隙間に差し込まれていた。
それでも、と私は窓硝子に額を寄せた。
回廊の角で名を呼んだ瞬間の、彼の睫の揺れだけが、私の指先にまだ残っていた。 その揺れの細さに比べれば、今日これから私を待ち受けるどんな儀式も、ひどく遠い気がした。
馬車の前方で、号令の声が短く上がった。