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聖女と銀の騎士、触れぬ夜の灯

第2話 第2話

第2話

第2話

目を開けたとき、最初に視界に入ったのは、枕元の水差しだった。

銀の腹に薄い水滴が浮き、燭台の橙色を一筋だけ細く反射している。蝋は短くなり、芯が黒い焔をまとって揺れていた。窓の外は仄かに白んでいて、夜が明けかけているのが分かる。 身じろぎをすると、毛布の下で白衣の絹が肌を擦った。寝乱れた髪が頬にかかり、それを払うのも億劫なほど、手の力が抜けている。眠ったというよりは、意識が一度沈んで、浅い場所まで浮かびあがってきたという感覚だった。 寝台の縁に手をつき、ゆっくりと身を起こす。冷えた指先で水差しに触れ、そこに昨夜と同じ熱が残っていないかを、無意識に確かめていた。銀はもうすっかり冷えていて、ただ滑らかな金属の感触だけを返してくる。当然のことなのに、その当然が、胸の奥を細く擦った。 扉の向こうから、物音はしなかった。 夜のあいだ確かにそこにあった気配が、もう失われているのかもしれない。そう思うと、毛布の下で膝を抱える指に、知らぬ間に力が籠もる。あれは夢だったのではないか。聖女と呼ばれた衝撃に押し潰されかけた私が、見ていた幻だったのではないか。 それでも、水差しはここにある。 私は寝台を下りた。素足に石床の冷たさが滲み、爪先がきゅっと縮こまる。羽織を肩に纏い、息を整えてから、扉の前まで歩いた。耳をすませても、廊下からは何も聞こえない。衛兵の交代も終わったのだろう。誰もいないと思いながら、それでも指は把手にかかっていた。 扉を、ほんの少しだけ押した。

蝶番が低く軋み、廊下の冷えた空気が一気に流れ込んでくる。私は反射的に身を引きかけ、けれど扉の枠の外、回廊の石畳に揺れる影に気づいて、そのまま動けなくなった。

銀の髪。

回廊の高窓から斜めに差す朝の光が、その髪を一筋だけ撫でていた。彼は扉のすぐ脇――けれど決して扉をふさがない位置に、片膝をついていた。背筋は石塔のように真っ直ぐで、剣の柄に右の手のひらを軽く添え、もう一方の手は太腿の上で拳を握っている。鎧は夜のあいだに艶を失い、肩当てに細かな埃が乗っていた。 私が扉を引いた音に、彼の長い睫がふっと震えた。けれど、視線は上がらなかった。 「……お目覚めですか」 低い声だった。長く沈黙していた喉が、もう一度言葉を運ぶときの掠れがあった。咎める色も、慰める色も、含まれてはいなかった。ただ事実を確かめるだけの、不器用なほど短い問いだった。 「……はい」 私は囁くように答えた。声を立てれば泣いてしまいそうで、それでも返さねばと思った。 彼は頷きもせず、ただ瞼を下げたまま続けた。 「夜半は、ご無事でいらっしゃいましたか」 「ええ」 「……ようございました」 そこで言葉が途切れた。彼の喉が一度だけ動いたのを、私は扉の隙間越しに見た。何かを言おうとして、それを呑み込んだ動きだった。私の眠りが安らかであったことを確かめて、それで彼の務めの大半は果たされたらしかった。 私はしばらく、その姿から目を離せなかった。

ここまで、よく見つめてくる人は今までいなかった、というのは正確ではない。誰もが私を「見て」いたのだ。司祭は私の白衣を見、侍女たちは私の指先と髪のほつれを見、衛兵たちは私の足音の進路を見ていた。けれど誰一人として、私の顔を見ようとはしなかった。聖女という器の輪郭ばかりを丁寧になぞって、その内側に佇むものを見るのを、皆が等しく避けていた。 彼は、逆だった。 頭を下げ、視線を伏せ、私の白衣の裾より下に瞳を留めて、それでも――いや、だからこそ、私という人間の境界線を侵さぬようにしている、と分かる。見ないのではなかった。見ないことで、見守っていた。見つめれば踏みにじってしまうものがあると、彼は知っているらしかった。 「……お立ちになって、ください」 私は、ようやく言った。喉の奥がひどく渇いていた。 「お役目の途中でいらっしゃるのに、あなたにまで気を張らせては、いけません」 彼の肩が、ほんの僅か揺れた。それから、流れるような所作で立ち上がる。膝の埃を払うこともしない、徹底した気の張り方だった。 「お気遣いをいただくは、私の役には過ぎませぬ」 彼は短くそう告げ、半歩、扉の外へと身を引いた。視線は変わらず、私の白衣の裾の辺りで止まっている。 扉枠を挟んで、私たちの距離は二歩ほどだった。 たった二歩なのに、その間に張られた糸の細さが、痛いほど分かった。

「……アルセイン様」 私は、その名を呼んだ。 昨夜、水差しを差し出されたあと、もう一度確かめるように口にしたあの音が、今朝もまた舌の上で同じ落ち着きを持つかを試したかったのかもしれない。あるいは、扉一枚で隔てられていた夜の続きが、まだ私たちのあいだに残っていることを、私自身が信じたかったのかもしれない。 彼の睫が、ひと拍だけ揺れた。 それから、こちらに視線を向けないまま、低く応じた。 「はい」 ただ、それだけだった。 けれどその「はい」には、聖女様、という尊称の盾が抜かれていた。彼は私の言葉を、聖女としてではなく、ひとりの人間の呼びかけとして受け取り、それに応じることを選んだのだった。 私は、自分の指先が白衣の襞を強く握っているのに、しばらく気づかなかった。

「夜の間、ずっと、おいででしたか」 「交代のあとも、私の意でここに留まりました。差し出口にございました」 「……いいえ」 首を振った。 振りながら、私は彼の慎み深さの正体を、ようやく言葉にし始めていた。 彼が私を見ないのは、距離を置きたいからではない。逆だった。彼の視線は剣のようなものらしかった。一度抜けば、相手を貫いてしまう類の鋭さがあって、だから普段は鞘の奥に深く納めている。初めて石床に膝をついて泣いただけの女に、その鋭さを向けるわけにはいかないと、彼は心得ているのだ。 それは儀礼ではなかった。長く誰かを守ってきた人の、骨身に染みついた配慮だった。 私が聖女様と呼ばれて初めて受け取った、人としての敬意だった。 胸が、知らぬ間に騒いでいた。喜びというにはもっと静かで、戸惑いというにはもっと温かい、奇妙に名指せない感覚が、肋骨の奥で羽搏きにも似た音を立てている。 「アルセイン様は」 思わず、もう一度その名を呼んでいた。 「……私の顔を、ご覧になったことが、おありですか」 彼は答えなかった。 けれど、ほんの一瞬、彼の視線が床の端から私の白衣の裾の刺繍へと、確かに動いた。それ以上は上がらなかった。私の腰の高さで止まり、すぐに元の位置へと戻る。 それは、答えだった。 彼は私の顔を見たくないのではなかった。見ないと決めているのだった。決めることで、彼自身の何かを抑えているらしかった。 私は、それ以上問えなかった。

回廊の奥で、衛兵の歩く音が硬く響いた。朝の交代が始まる気配だった。アルセインは耳をそちらに向け、私に向かってもう半歩、退いた。 「日の出の鐘までに、侍女が参ります」 「はい」 「お支度の間、私は廊下の端におります」 「……はい」 彼は剣の柄に手をかけ、深く頭を下げた。額が下がっても、顔は私に向けられない。鎧の擦れる音が、昨夜の暗がりとは異なる、朝の硬質な響きで石畳を叩いた。 扉を閉めたあと、私は背を扉に預けて、ゆっくりと床にしゃがみ込んだ。 胸の鼓動が、まだ収まらない。

寝台の脇で、水差しの銀がいよいよ白々と冷えている。私は両手でその腹を包み、燭台の最後の橙色をぼんやりと眺めた。 聖女として、私は今日、初めて公の場に出ることになっている。司祭たちが言葉だけで告げてきた予定が、夜のあいだに侍女たちのささやきで肉付けされ、いつのまにか私の朝の輪郭になっていた。白衣を着替え、髪を結い、化粧を施され、馬車に乗せられて大聖堂へ向かう。誰の瞳にも映らない聖女の輪郭が、今日また一段、丁寧に塗り重ねられる。 それでも、と私は思う。 扉の向こうに、私を見ないことで見守る人がいる。 鎧の擦れる音が、廊下の端で、規則正しい呼吸のように刻まれ始めていた。私はその音を耳の奥に灯火のように仕舞い込み、立ち上がった。 窓の外で、最初の鐘が鳴った。

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