第1話
第1話
膝についた石床は、骨の芯まで凍るほど冷たかった。 掌に伝わる凹凸が、見たこともない文様を描いている。淡い青の光がそれをなぞり、私の白衣の裾を、足の指を、震える肩までも照らし出した。 「聖女様」 誰かがそう呼んだ。私のことらしかった。 頭を上げると、長い柱の連なる広間に、何十人もの人影が膝をついていた。揃いの法衣、鎧の擦れる金属音、薫香の甘ったるい煙。誰もが頭を垂れて、私を見ない。私の顔を、ではなく、私という人間そのものを見ようとしていなかった。 「異界よりお戻しいただいた、慈愛の御方」 司祭らしき老人が、抑揚なくそう告げた。元の世界へは戻れないこと、私はこれよりこの国の祈りの依代となること、それだけを淡々と並べて、彼は再び額を石に押しつけた。 体の内側で何かが落ちる音がした。涙腺ではなかった。胃の底が、ひどく重く沈んだ。けれどそれを告げる相手はいない。声を上げれば、彼らは「聖女様の御心」と返して、また頭を下げるだけだろう。 立ち上がると、白衣の裾が石の上を滑った。布の裏に縫いつけられた銀糸が、皮膚に細く食い込む。重い、と思った。この絹は、私のために誂えられたものではなく、聖女と呼ばれる役割のために用意された衣装だった。 案内された大聖堂の私室は、天井が遠く、燭台がいくつも灯っていた。寝台の天蓋には金の刺繍。窓の外では夜風が梢を揺らしている。私は窓辺に膝を抱えて座り、額を冷たい硝子に押し当てた。 泣くまい、と決めたはずなのに、息を吸うたびに喉の奥が痺れた。声を立てない泣き方は、案外簡単に身についてしまう。母の病室で、看護師に気づかれぬよう布団に顔を押しつけて泣いた、あの夏のように。 ふいに、扉の向こうで、鎧の擦れる音がした。
最初は、風が回廊を吹き抜けたのだろうかと思った。 けれどそれは確かに金属の音で、それも、息を整えるような、控えめな間合いを置いた音だった。誰かがそこに立っている。私の泣く声を、咎めるためでも、慰めるためでもなく、ただ立っている。 私は息を呑んで、窓辺から扉を見つめた。重い樫の扉は閉じたまま、隙間から廊下の灯が細く差している。その光の縁に、誰かの靴先らしき影が見えた。動かない。 「……どなた、ですか」 震える声で問うと、しばらくの沈黙のあと、低く静かな返答があった。 「夜分に失礼を。第一騎士団、アルセインと申します」 名前だけだった。役職だけ、と言ってもいい。彼は扉を開けようとしなかったし、私の名を呼ぶことも、聖女という尊称で呼ぶことすら避けたように聞こえた。 「警護の任を仰せつかっております。お休みのところを驚かせましたなら、お詫び申し上げます」 言葉の選び方が、奇妙にぎこちなかった。形は完璧な敬語なのに、どこかが微かにずれている。長く戦場にあった人が、急に貴婦人の応対を命じられたときの、あの不器用さに似ていた。 「ずっと、立っていらしたのですか」 「気配を絶ち損ねまして。お耳を煩わせました」 気配を絶てなかったわけではないだろう、と私は思った。むしろ、わざと小さく音を立てたのではないか。私が一人ではないと、暗に伝えるために。 誰も入ってこないこの部屋で、声を殺して泣いていた私が、せめて独りではないと知れるように。それは儀礼の所作ではなく、長く誰かを守ってきた者の、骨身に染みついた配慮のように思えた。鎧の冷たさを背負いながら、彼はそこで、私の沈黙ごと見守ってくれている。咎めるでも踏み込むでもなく、ただ、足音という名の灯火を細く差し入れて。 扉を開けてみたい衝動が、不意に湧いた。けれど指先は、寒さのせいか、別の理由のせいか、固まったまま動かなかった。 「ありがとうございます」 代わりに、私はそう告げた。聖女としてではなく、ただの私として。 扉の向こうから、息を呑む気配があった。それから、ほとんど囁くような声で、彼は応えた。 「お役目に添うのが、私の務めにございます」 言葉そのものは儀礼の鋳型だった。けれどその声に乗っていたのは、別の何かだった。あるいは私が、別の何かを聞き取りたかっただけかもしれない。 私は窓硝子から額を離した。冷たかった額が、燭台の暖かさに少しずつ溶かされていく。誰もこの部屋には入ってこない。誰も私の顔を覗き込まない。それでも扉一枚を隔てて、誰かが立っている。 それだけのことが、ひどく不思議だった。 私はそっと立ち上がり、寝台の縁に座り直した。鎧の音は、それから数刻のあいだ、扉の外で動かなかった。時折、靴先がほんの少しだけ位置を変える音がする。長く立つことに慣れた人の、無言の所作だった。
どれほどそうしていただろう。 燭台の蝋が一寸ほど短くなった頃、外で衛兵の交代らしき声がした。短いやり取りののち、扉の向こうの気配がわずかに動いた。 「失礼ながら、扉を開けていただけますか」 彼の声は、先ほどよりほんの僅か、音域を落としていた。 「水を、お持ちいたしました」 迷ったのは一拍だった。私は素足のまま、冷えた床を踏んで扉まで歩いた。鍵を回す指が、思いのほか強張っている。 扉を引くと、廊下の光の中に銀の髪が浮かび上がった。月が高窓から差していたのか、それとも回廊の燭台のせいか、彼の髪は淡く濡れたように光って見えた。年の頃は分からない。瞼の下に深い影があって、それが今夜の疲労ではなく、もっと長い歳月の堆積に見えた。 彼は私の顔を一瞥もしなかった。両手で水差しを差し出し、視線は床から二尺ほどの高さを動かない。 「冷えておられるかと存じます」 「……ありがとうございます」 水差しに触れると、手の甲に彼の指が掠った。布の手袋越しの、ほんの一瞬の感触だった。硬い革の奥に、確かに人の体温が伝わった。その温度に触れた瞬間、私は自分がどれほど凍えていたのかを、ようやく知った。彼は弾かれたように手を引き、片膝を石に落とした。 「無礼を働きました。お赦しを」 跪く動作は流れるようで、しかし全く儀礼的ではなかった。許しを乞うふりではなく、本当に、自分の指が私の手に触れたことを罪と思っているように見えた。 「……いいえ」と私は言った。「むしろ、ようやく、人に触れていただいた気がします」 言葉は勝手に零れた。聖女らしくない、ただの女の言葉だった。 彼の肩が、ほんの僅か震えた。下げたままの額の向こうから、低い、しかし芯のある声が返ってきた。 「私は剣を執る者にございます。聖女様のお肌に触れる手では、ございませぬ」 顔を上げぬまま彼は告げた。傲慢な辞退ではなかった。むしろその声には、自分の手が誰かの肌を傷つけてきた歳月への、痛みに似た慎みがあった。 私は水差しを胸に抱えた。冷たい銀の表面が、白衣の薄布越しに胸の鼓動を冷やしていく。 「お名前を、もう一度、伺ってもよろしいですか」 「アルセイン・ドラクスにございます」 「アルセイン様」 口にすると、その音は私の舌の上で、不思議な落ち着きを持った。彼はゆっくりと立ち上がり、なお視線を伏せたまま、半歩後ろへ下がった。 「お休みなさいませ、聖女様」 扉が静かに閉まる前、私は彼の睫が一度だけ揺れたのを見た。視線が私のいる方へ向き、けれど決して触れず、また元の高さへ戻っていく。その距離こそが、彼の慎みなのだと、私は何故か知ってしまった。 扉が閉じる。私は水差しを抱えたまま、しばらくその場から動けなかった。 水差しの銀は彼の手のぬくもりをまだ僅かに残していて、その熱が掌から胸へ、胸から喉へと、ゆっくりと染みていく。聖女ではない私を、ただの一人の人として扱おうと躊躇したその指の、惑いごとのぬくもりだった。誰も入ってこない部屋で、誰にも触れられぬ役割の衣装を着せられた私の手に、それでも一瞬、人の温度が触れたのだ。
寝台に戻り、毛布を肩までかけても、震えは止まらなかった。 寒いからではなかった。 窓硝子の向こうで雲が薄く流れ、月が一瞬だけ顔を覗かせる。扉の向こうの呼吸は、まだそこにあった。気配を絶てる人が、わざとそうしないことの意味を、私はどう受け取ればいいのだろう。 明日には祈祷の場に立つことが決まっている。司祭たちが用意した役割を、私は完璧に演じてみせなければならない。役割。聖女。煌びやかな白衣。誰の瞳にも映らない、空っぽの器。 それでも、と私は思った。それでも、扉一枚を挟んで、私を「人」として扱おうと躊躇する誰かが、確かにいる。 水差しを枕元に置き、私はようやく目を閉じた。 鎧の擦れる音は、夜が更けるまで、私の眠りの縁に静かに添い続けていた。