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氷華の令嬢、辺境にて目覚める

第2話 第2話

第2話

第2話

馬車の窓に張りついた霜を爪で削ぎ落としながら、私は北の地平を見据えていた。指の腹が薄氷の縁を引っかいて、ぴりりと痛みが走る。爪の付け根の皮が裂けたらしい。手袋を外して指を舐めると、鉄錆と土の混ざった味が舌に残った。三日三晩の道中で、私の身体はすっかりこの土地の冷たさに馴染み始めていた。

御者が手綱を絞り、馬車が緩やかに止まる。

「お嬢様、ルイン領主館にございます」

声は震えていた。同情ではなく、ここから先の責任を負わずに済むことへの安堵の震えだ。私は革袋の口に指を入れ、母の遺品の指輪の冷たい縁を確かめてから、自分の足で地面に降り立った。

正面に立ちはだかる館は、館と呼ぶのが躊躇われる代物だった。三層の石造り、中央の塔は屋根を半ば失い、剥き出しの梁が空に向かって肋骨のように突き出している。東翼は崩落し、瓦礫の山に細い氷柱が無数に下がっていた。玄関の樫扉は片側だけ蝶番から外れて斜めに傾ぎ、隙間から白い吐息のような風が漏れている。

「鍵は」

「あるはずもございますまい。前領主様は、玄関を閉める間もなくお発ちになったと聞き及んでおります」

御者は早口で言うと、荷を石段の脇にまとめて投げ下ろし始めた。彼を責める気にはなれない。馬を休ませる暇も惜しんで王都へ駆け戻るつもりなのだろう。私が薬指の指輪に触れると、銀の枷は出立の朝と同じ脈を一度だけ打って、すぐに静まった。

館の扉を肩で押すと、蝶番が悲鳴を上げ、敷石の上を弧を描いて滑った。中の空気は外より一段深く冷たく、肺の奥に針を立てるようだ。床には霜の薄膜が張り、私の長靴の裏が砂を踏むようなきゅっとした音を立てる。広間中央の暖炉は煤と凍った水で塞がれ、頭上のシャンデリアは半ば落ちて、欠けた水晶が床に散らばっていた。

私が立ち尽くしていると、奥の階段を降りてくる靴音がふたつ聞こえた。革張りの底が石を叩く硬い音と、それより半拍遅れる、ためらいがちな足音。

「ようこそ、ルイン領主代理エルシア・ヴァレンティア嬢」

声の主は背の高い男だった。年は三十路の半ば、染みのない王宮文官の外套を肩にかけ、片手に羽根ペン、もう片手に革綴じの帳面を持っている。雪国の館にいるはずもない、磨き上げた靴の先が霜の床にぬらりと光っていた。

「監視官のグレイと申します。陛下の名のもとに、貴殿の魔法使用、財政、書簡の往来を漏れなく記録するよう命じられております」

帳面を開いて見せられたが、最初の頁にはすでに私の到着時刻と、扉を肩で押した動作が几帳面な小字で書き込まれていた。書き始めの墨が滲んでいない。私が馬車を降りる前から、この男は窓辺で羽根ペンを構えていたらしい。

「ご丁寧なこと。──靴音にお気に召す高さがございましたら、合わせて参りますが」

「皮肉が達者な方は、長持ちなさいません。前任の領主様は四十三日。前々任は二十九日。私の見立てでは、お嬢様は三月もたぬと存じます」

グレイは目を細めて笑った。喉の奥でだけ笑う、湿り気のない笑い方だった。私はその笑みを記憶の底に沈めた。──この男の出自を、いつか必ず洗わねばならない。

階段の半ばで止まっていた、もう一人の足音が降りてきた。年嵩の女だった。腰には鍵束、頭には黒の頭巾、頬に古い火傷の痕が走っている。

「家政婦のマーサにございます。生きている使用人は私とあと二人だけ。他は皆、前領主様に従うか、村へ戻りました」

「村は、どの方角」

「西の谷沿いに。ですがお嬢様、村へはお出でにならぬほうが」

マーサは言葉を切って、視線を扉の外へ流した。その目に浮かんでいたのは怯えではなく、私への不信だった。「また王都から、領民の食い扶持を奪いに来た女が来た」という顔だ。

「案内せよ。荷を解くのは後でいい。今日のうちに、領民の顔を一人でも多く覚えたい」

マーサは唇を結んだまま頷き、グレイは帳面に新しい行を書きつけながら肩をすくめた。

雪を踏みしめて村へ降りる道は半里もないのに息が切れた。空気が薄く、肺の中で凍る。途中、マーサが石塚の前で一度足を止めた。塚の上には欠けた木の杖と、子供の靴が片方だけ供えられている。

「先月、氷竜にやられた子です」

私は手袋を脱いで塚の頂きに掌を当てた。指の下で霜の結晶が私の体温に屈し、ほのかに溶ける。塚の石はその下で、奇妙にあたたかかった。──地脈が、生きている。封印の指輪の内側で、呼応するように血の温度がゆらいだ。

村の入口に着くと、煙の上がる粗末な家屋が二十戸ほど。大人たちが鍬や薪割り斧を手に、半円を描いて私の行く手を塞いでいた。先頭に立つのは白髪混じりの逞しい男。鍛冶屋らしく、革の前掛けが煤で黒い。

「帰れ。王都の女に、もう何も渡すものはない」

「税は要らぬ。今日は名乗りに来た」

「名など要らぬ。次の冬まで生きておれば、聞いてやる」

唾が飛んできた。私の頬の高さで凍りかけ、ぱきりと小さな音を立てて足元の雪に落ちた。背後でグレイが帳面に「領民、領主に唾を吐く」と書きつけている。私はその音を背中で聞きながら、口元を拭わずに鍛冶屋の目を見返した。

その時、地の底から低い震えが伝わってきた。

雪の表面が一瞬ざわつき、犬のような鳴き声がいくつか上がる。鍛冶屋の顔から血の気が引いた。半円を作っていた領民たちが、申し合わせたように西の山稜を振り仰ぐ。山の輪郭の上を、白い霧の塊がゆっくりと這っていた。──霧ではない。氷の鱗が陽を弾いて、霧のように見えているだけだ。

「氷竜だ」

誰かが呻いた。

「今夜来る。前は三月かかった頂越えを、二月で、それも──」

老女が唇を震わせた。鍛冶屋は斧を握り直し、私を一瞥した。睨みではなかった。「お前にできることは何もない」という諦めに近い目だった。

「井戸を埋めろ。家畜は穴に追い込め」

私は鍛冶屋の声を遮って言った。声を張ったつもりはないのに、村の半円に落ちた言葉は、私自身の耳にも思いがけぬほど鋭く響いた。

「子供と老人は、館の地下蔵に入れる。石造りで一番厚い壁がある。馬車を二台、館から回す。それから──氷竜の進路上の家屋は、屋根の雪を全部落とせ。重みで潰されるよりは、逃げる時に脚が取られぬほうがいい」

鍛冶屋が口を開きかけた。マーサが先に頷いた。

「お嬢様、地下蔵の鍵は私が」

グレイが慌てて帳面を取り落としそうになった。

「お、お待ちください、領主代理が独断で領民を館に入れる前例は──」

「監視官殿、書式は私が後で整える。氷竜は書式を待ちません」

私はグレイの視線を捨て、鍛冶屋に向き直った。

「お前の名は」

「……ヨーナス」

「ヨーナス、村の地理に明るい者を二人寄越せ。氷竜の通り道を、私の目で確かめる」

ヨーナスは斧を下ろし、私の靴の先に視線を落とした。それから雪の上に唾を吐いて、ようやく顔を上げた。

「あんたの靴では、谷は下りられぬ。長靴を貸す」

それがこの村で初めて私が得た「貸す」という言葉だった。私は会釈の代わりに、頬に凍りついた唾の名残を、初めて袖で拭った。冷たさは、もう感じなかった。

館に戻る道々、マーサが鍵束を鳴らしながら呟いた。

「お嬢様、地下蔵をお開けになるなら、申し上げておきます。あの蔵の奥には、前領主様が見て見ぬふりをなさった、古い扉がございます」

「古い扉」

「ええ。──開けるな、と代々言い伝えられた扉にございます」

私は薬指の指輪にそっと手を添えた。銀の枷の内側で、母の指輪と私の指輪の文字が、おそらく今夜、初めて呼応しようとしている。村を救う手立ては、私が生まれてから一度も解いたことのない、私自身の魔力以外には残されていない。──父よ、お許しください。隠せと命じられた血を、私は今夜、ほんの一筋だけ、引き出します。

日が傾き、館の窓から差す光が血の色に変わった頃、私は領主の書斎に立っていた。机上にはヨーナスから借り受けた長靴と、村の地図が広げられている。氷竜の進路は、谷の北側を半周し、ちょうど村の中央を抉って通る線で予測された。

地下蔵から子供の泣き声と、それをあやす老女の歌声が、石床を伝って響いてくる。グレイは隣室で、私の今日の言動を一字も漏らさず帳面に書き取っているはずだった。

私は袖をまくり、薬指の指輪を灯火に透かした。母の指輪を反対の手に握り込むと、銀同士が触れ合った場所から、肌の下を細い糸のような冷気が走った。胸の奥、心臓のすぐ脇に、長年眠っていた何かが、目を覚まそうと寝返りを打つ気配がある。

外の風に、初めて、咆哮らしきものが混じった。遠い、けれど確かに、骨を震わせる低音だった。

私は灯火を吹き消し、長靴に足を入れた。

──今夜、私は、出来損ないの仮面を、ほんの一夜だけ外す。

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