第3話
第3話
長靴の縁から流れ込む雪が、すねの内側で溶けて靴下に染みていく。冷たさは指先よりも先に、ふくらはぎの裏側を駆け上がってきて、歩幅を狂わせた。私は息を吐くたびに、薬指の指輪が肺の冷気に呼応して脈を打つのを感じた。村への下り道、雪の表面は陽が落ちきってから硬く締まり、踏むたびに乾いた音が立つ。樹氷の梢から細い氷柱が落ち、雪に刺さって、また澄んだ音を一つだけ残す。先導するヨーナスの背中の、革前掛けの裾だけが暮夜の残光に黒く揺れていた。
「西の谷から来る」
ヨーナスは振り向かずに言った。声は厚い襟巻きにくぐもり、白い息と一緒にちぎれて雪に落ちた。
「井戸はもう塞いだ。家畜も穴に追い込んだ。だが──子が一人、足りねぇ」
「名は」
「リナ。鍛冶場の隣の、靴職人の娘だ。地下蔵へ運ぶ間、手を離した」
私は唇を噛んだ。割れた皮膚の下から、塩気のある血の味がじわりと舌に滲んだ。ヨーナスの声は怒りより、自分への嫌悪で曇っていた。村の中央を抉ると予測された氷竜の通り道、その線上に靴職人の家がある。
「家の中ではないのか」
「家にも蔵にもおらん。──あの子は、塚に行った」
塚。先月、氷竜にやられた子の墓だ。リナはその子の姉だったのか、それとも同じ年頃の友だったのか。問う暇はなかった。山稜の輪郭の上で、白い霧の塊が、昼に見たときの倍の速度で這い始めていた。鱗が夕陽の最後の赤を弾き、長い首が雪雲を割って降りてくる。
腹の底に響く咆哮が、地表の雪を細かく震わせた。粉雪が一斉に空へ舞い戻り、私の睫毛にも止まって、一瞬だけ視界を白く濁らせる。
「ヨーナス、村に戻れ」
「あんたを置いては──」
「私は塚に行く。リナを連れ戻したら、地下蔵で会う」
ヨーナスは何か言いかけて、私の顔を一瞥し、雪に長靴を突き立てて駆け戻っていった。私は塚の方角へ踏み出した。風が鼻腔を凍らせる。吸った空気が肺の奥で針のように刺さり、咳の発作を堪えるたびに肋骨が軋んだ。母の指輪を握り込んだ拳の内側で、銀の縁が指の関節を切り、薄く血の温度が滲み出した。
塚の前に、小さな人影がうずくまっていた。膝を抱えて、欠けた木の杖の根元に頬を寄せている。木の杖は、墓を立てるために削り出されたまま、根元の半ばを新雪に呑まれ、表面には先月の霜の痕が筋となって残っていた。私が名を呼ぶと、子は顔を上げた。睫毛に氷の粒が並び、それが涙の跡だと気づくのに一拍かかった。頬は薄く青みを帯び、唇の端には砂糖を振ったような霜が貼りついている。
「お、お嬢さま、ティルが、ティルが寒いって」
「ティルは、お前の弟」
「うん。雪のしたで、ずっとさむい」
その声は、震えていなかった。震えるには、もう体温が足りていなかったのだ。私は子の肩を抱き寄せ、外套の内側に押し込んだ。痩せた肩甲骨が、私の脇腹の上で小鳥の骨のように頼りなく動いた。背筋に氷竜の咆哮がもう一度走る。先ほどよりずっと近い。風の方向が変わり、雪の表面に長く冷たい影が伸びてきた。
見上げた空に、青白い鱗の腹があった。
腹側の鱗は背の鱗より薄く、内側の青光りが透けて、まるで凍った湖を裏返したようだった。氷竜は塚の真上で旋回し、鼻先から白い吐息を一筋、私たちの足元へ垂らした。雪が一瞬で硬玉になり、足を取られた。リナが悲鳴を上げて私の腰にしがみつく。指の力が、子供のものとは思えないほど強かった。
「立つな、伏せろ」
子の頭を雪に押しつけ、自分の身体を覆い被せた。次の吐息が来る。咽喉の奥で氷竜が空気を吸い込む高い音が、私の鎖骨の真上で聞こえた。私は薬指を反対の掌で握りしめた。母の指輪を、私の指輪の上に重ねるように。指先はもう感覚がなかったが、指輪同士が触れ合った瞬間だけ、痺れの底に小さな熱が走った。
──父よ、お許しを。
許しを乞う相手が父であることに、自分でも遅れて気づいた。封じることを選んだのは父であり、その封印を私は今、自分の意思で破ろうとしている。銀の枷の内側で、二つの古い文字が初めて噛み合う音がした。乾いた木の枝が折れる音に似て、けれどもっと深い。指の関節から肘、肩、鎖骨、心臓へと、長年眠っていた何かが、堰を切って駆け上がった。その流れは血よりも濃く、けれど血より冷たく、私の身体を一本の鋳型として通り抜けていった。
薬指の指輪が、内側から砕けた。
音は、冬の朝に厚氷を叩いたときに似ていた。乾いていて、けれど芯にひとつだけ重みのある音。銀の細片が指の腹をかすめて雪に散る。母の指輪も、掌の中で同じ瞬間にひびを走らせ、二つの欠片が私の掌を切って血を呼んだ。封印の血が、雪の上に、初めて自由な形で点を打つ。
その点から、冷気の柱が立ち昇った。
私の身体ではない。私の肉ではない。──私の血が、地脈と呼応している。塚の下で生きていた古い力が、血の一滴を呼び水にして、私の指先を通り道として吹き上がってきていた。指先が燃えるように熱く、同時に骨の芯まで凍えていく、矛盾した感覚が肘から肩へ駆け抜ける。私は氷竜の腹に向けて、空いた掌を翳した。
掌の中で、世界の温度が反転した。
凍てつく息を放とうとした氷竜の咽喉が、外側からではなく内側から白く凍った。咽喉の内壁を伝って霜が走り、放たれかけていた吐息が、口腔の天井で華のような結晶に変わっていく。鱗の継ぎ目に霜の華が走り、翼の薄膜が硝子のように透き通って、青白い光を孕んだまま固まる。風切羽の一枚一枚が音もなく硬化し、腹のうろこは内側からの青光をさらに濃くして、深い湖の底のような色に沈んだ。長い首がゆっくりと持ち上がりかけ、そのままの角度で止まった。瞳の奥の縦長の瞳孔が、最後にひとつ私を見つめた。その縦長の瞳の奥で、私自身の小さな影が、確かに揺れていた。──怯えていた。氷竜が、私を、怯えていた。古い王朝の絵巻に描かれた、人を寄せ付けぬはずの獣が、今この瞬間、人の娘ひとりを前にして、はっきりと怯えていた。
落下の音は、思っていたより静かだった。雪原に巨大な氷の彫像が、片翼を広げたまま倒れ込み、衝撃で散った氷の破片が、月の光を孕んで宙に舞う。降り注ぐ氷の粉は星屑のようで、私の頬にも一片、二片と止まって、すぐに溶けて流れた。
リナは私の腰の下で、息も立てずに固まっていた。
「もう大丈夫」
子の背を撫でた。声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。村の方角から、雪を踏む足音が近づいてくる。ヨーナスの斧、マーサの鍵束、グレイの磨き上げた靴。半円を描いて私を取り囲んだ村人たちの顔は、夜会で私を笑った貴族たちの顔とまったく違っていた。怒りも嘲りもない、ただ畏怖と困惑があった。
私は震える指先を、もう片方の掌で握り込んだ。砕けた指輪の銀片が、まだ皮膚の下に刺さっている。痛みは遅れてやってきて、骨の芯まで脈を打った。雪の上に膝をつき、氷の彫像になった氷竜を見上げる。
「お嬢様、これは──」
マーサの声が震えていた。鍵束が手から滑って雪に落ち、しゃりんと細い音を立てた。
「これが、ヴァレンティアの血、ということなのね」
私は誰にともなくそう言って、それから初めて声に出した。自分の喉が、その名を口にするとき、わずかに震えたことに気づく。
「この土地で、私は私の魔法と生きる」
リナが外套の中で、こくりと頷いた。ヨーナスは斧を雪に突き立て、深く息を吐いた。グレイだけが、帳面と羽根ペンを取り出すのも忘れて、青ざめた顔で氷竜の彫像を見上げていた。──いや、見上げていたのではない。彼の視線は、彫像ではなく、砕けた指輪の銀片が散らばる、私の足元の雪に向けられていた。その目の奥には、畏怖でも忠誠でもなく、計算するもの特有の冷たい光が走っていた。
夜半、領主館の書斎に戻った私は、切れた指の傷を麻布で巻きながら、机上に並べた銀の欠片を眺めていた。私の指輪と、母の指輪。二つで合わせて九つの破片。内側に刻まれていた古い文字の続きが、欠片を並べ替えると、初めて一文の形を取り始めていた。
階下の廊下を、磨き上げた靴が早足で通り過ぎる音がする。グレイだ。書斎へは入らず、玄関へ抜けていく。今夜中に王都へ早馬を出すつもりなのだ。──氷竜を一撃で凍て返した「出来損ない」のことを。
私は欠片の一つを灯火にかざした。刻まれた文字の最初の一語は、確かに「氷」と読めた。
そして二語目は──まだ、読めない。
外の風が窓を叩き、塚の方角から、子供のものではない細い泣き声が、ほんの一筋、夜の底に届いた気がした。