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扇を畳む音だけが響いた夜

第3話 第3話

第3話

第3話

油の燃える匂いが、廊下の壁に薄く溜まっていた。

 夜更けの屋敷は静かで、私のドレスの裾が石の床を擦る、その布ずれの音だけが、廊下の奥のほうへ吸い込まれていく。両側の壁にかけられた油灯は、ひとつおきに点され、光と闇が交互に床を斑に染めていた。光と影の境目を、私の靴の先が、一足ごとに踏み越える。──境目を渡るたび、踏みしめる足の角度を、私は内側から確かめなおした。

 書斎の扉の手前で、私は立ち止まった。

 扉の隙間から、暖色の灯火が一筋、廊下の石の床に伸びている。指で触れたら温もりがありそうな色だった。──だが、これから扉の向こうに踏み込もうとしている私の指先は、爪のあいだに、微かに冷たいものが食い込んでいた。象牙の扇の留め具が、夜更けまで掌の中で握られていた、その固さの名残だった。

 ノックをしようと持ち上げた手が、空を切った。

 扉は、内側から、音もなく開いた。

 立っていたのは父ではなく、執事のヴェルナーだった。彼は無言で半歩下がり、私のために通り道を空ける。眼の奥に、いつもの忠義めいた光ではない、もっと底の深い色が、ひと筋、揺れていた。──ああ、ヴェルナーまで、知っているのか。私の足元から、見えない床板が、また一枚、剥がれていく感触があった。

 書斎の中は、思っていたより、暖かかった。

 暖炉に薪が三本、深い橙色の炎を上げて、ぱちり、と一度、爆ぜた。父はその暖炉のほうではなく、窓辺に立っていた。窓の外には、霜の薄く張った中庭が、月明かりを返して、白く沈んでいる。父の背中は、私が知っているどの夜会の背中よりも、まっすぐで、けれど、いつもより、ひとまわり、薄く見えた。

 机の上には、革表紙の分厚い帳簿が、三冊、積み重ねられていた。

 いちばん上の一冊の背表紙に、私の眼は、吸い寄せられた。──〝グリュンヴァルト関所通過記録〟と、金箔の文字が、ささくれ立つように剥げかけて、刻まれていた。

***

「掛けなさい」

 父の声は、低く、平らだった。

 私は革張りの椅子に腰を下ろした。革の表面が、ローブを通して、まだ夜の冷えを残していた。膝の上で、両手を、ゆっくりと、重ねる。

 父は、しばらく、口を開かなかった。

 窓を背にしたまま、私が机の上の帳簿に視線を落とすか、落とさないか、それを、ただ、観察している。

 『──お父様、お試しになるのなら、お試しください』

 胸の内で、私はそっと一礼した。

 私は、机の上の三冊のうち、いちばん上の一冊に、手を伸ばした。革表紙が、指の腹に、冷たい。

「読んでも、よろしゅうございますか」

 父は、答えなかった。

 答えないことが、答えだった。

 私は革表紙を、開いた。

 古いインクの匂いが、紙束のあいだから立ちのぼった。鉄分の混じった、かすかに胃の腑に重い匂い。父が日々筆を走らせている、宮廷の薄香入りの上等なインクとは、まったく別の匂いだった。

 日付、品目、輸送元、輸送先、額。

 北方領地の関所を通過した商隊の、ありふれた記録。鉄、麦、毛皮、塩、織物、木材。一頁ごとに、何の変哲もない通商の流れが、几帳面な筆跡で並んでいる。

 しかし、ある頁から、私の指が、止まった。

 品目の欄に、〝贈与品・封印〟という、見慣れぬ一行が、月に一度、必ず、現れ始めていた。

 頁の上隅に書かれた年号を、私は、口の中で、繰り返した。

「七年前」

 ようやく父が、振り返った。

「気づいたか」

「七年前と申せば──私が、王太子殿下の婚約者に、立てられた年でございます」

「そうだ」

 父は窓辺から離れ、机の向こうの椅子に腰を下ろした。革張りの椅子が、低く軋む。

「〝贈与品・封印〟として通過したものは、王家会計の特別経費から出ている。送り先は、北方の山中、ラ・サンクト村」

 私の喉の奥で、何かが、つかえた。

「ラ・サンクト……」

「そう。──聖女ミレーユ・ラ・サンクトの、生家とされる村だ」

 胸の奥で、前世の記憶の薄い扉が、ひとつ、開いた。

 深夜、安いノートパソコンの画面の前で、私が読み流していた、いくつかの考察掲示板。〝聖女ミレーユには、本編で語られない不可解な送金記録が存在する〟──そんな見出しを、私は確かに、覚えていた。当時は、考察好きの妄想として、半分笑い飛ばしていた一節だった。

 その一節が、今、革表紙の上に、墨の跡として、あった。

「神託で聖女ミレーユが見出されたのは、三年前。──だが、送金は、七年前から始まっている」

 父の指が、机の上の帳簿の角を、こつ、と一度、叩いた。

「『見出される』前から、王家の金が、その村へ流れていた」

 私の指が、頁を、ゆっくりと、めくった。紙の繊維が、ざらりと、指の腹に擦れる。

 頁の隙間から、押し花が一片、はらりと、落ちた。

 ごく小さな、青い、四枚の花弁。

 父の眉が、僅かに、寄った。

「それは──」

 父は一拍、間を置いた。

「お前の母が、最後に押した、押し花だ」

***

 私の手の中で、青い花弁が、行灯の灯を受けて、ほんのりと、藤色に滲んだ。

 お母様。

 私が四つの年に身罷った、母の筆跡を、私はもう、ほとんど、覚えていない。覚えているのは、最後に頬を撫でてくれた指先の、乾いた、冷たい温度だけ。

「ヴェロニカ・グランディス、と申す」

 父の声が、低く、降りてきた。

「ラ・サンクト村の、山中にしか、咲かぬ」

 私は、押し花の小さな青色を、行灯にかざした。透けた花弁の脈が、細く、青黒く、走っている。

「乾燥させ、煎じれば、人の魔力を、塞ぐ」

 父の声が、一段、低くなった。

「長く服ませれば、命を、蝕む」

 私の心臓が、一拍、置いてけぼりになった。

 学院で倒れた令嬢たち。原因不明の不調。聖女ミレーユが祈れば、原因不明のまま、緩やかに、容態が回復していく一連の演出。教師たちは「聖女様の浄化のおかげで」と何度も口にした。誰も、毒については、ひとことも、言わなかった。

 言われなければ、毒は、ない。

 言わない者が宮廷の中央に座っていれば、毒は、最初から、なかったことになる。

 『──分からないのではない。分かりたくない人たちが、分からないことにしていただけだ』

 胸の内で、私の前世の声が、低く、輪郭を持った。

 私は、頁を、もう一枚、めくった。

 そこに、贈与品の内訳が、別の筆跡で、細々と、書き加えられていた。

 父の筆跡ではない。執事ヴェルナーの筆跡でもない。

 もっと細い、女の手だった。

 〝乾燥根茎、二リーブル〟〝青花、四リーブル〟〝粉末、半リーブル〟──それぞれの隣に、小さな丸が、ひとつずつ、添えられていた。

「お母様の、お筆跡ですわ」

 父は、頷いた。

「妻が、お前を産んでから身罷るまでの七年、ひとり、調べていた」

「お父様は、いつ、これを?」

「妻の没後、寝室の床下から見つけた。──それから十二年、私は、何ひとつ、動かさなかった」

 父の声に、初めて、重さの偏りが現れた。

「私の妻は、北方魔導師の家系に、誇りを持っていた。それを、誰よりも、忌み嫌った一派が、王家の中に、ある」

「……一派」

「神官派、と呼ばれている」

 父は、ひとつ、息を吐いた。窓の外の中庭に、薄い氷の光が、白く、滲む。

「神託は、神が下す。──だが、神が下す『相手』を、人が選ぶ仕組みを、神官派は、長く、握ってきた」

 私の指の下で、押し花の青が、行灯の熱で、ごくわずかに、湿った。

 『──聖女は、選ばれているのではない』

 『立てられているのだ』

 胸の奥で、ぱちん、と、扇の骨を畳む音が、もう一度、鳴った。

「お父様」

「ああ」

「私は、修道院には、参りませぬ」

 父は、机の上で、両手を組んだ。骨ばった指先が、革の帳簿の縁に、軽く触れる。

「修道院送りは、表向きだ」

「……」

「お前を、北の祖母のもとへ送る。グリュンヴァルトの、さらに先。エルフリーデ・フォン・エーレンフェルトの、隠居領まで」

 私は、息を、ゆっくりと、吐いた。書斎の灯火に、白い息が、ひとすじ、ほどけて消えていく。

「お祖母様は、ご健在でしたか」

「気難しく、健在だ」

 父の口角が、ごくわずかに、上向いた。それを「笑み」と呼んでよいのか、私には判じかねる動きだったが、十九年生きてきて、初めて見る種類の動きだった。

「クラリス」

「はい」

「昨夜、お前が大広間で扇を畳んだ、その音が」

 父は、机の上の帳簿を、ゆっくりと、閉じた。革表紙が、ぱたん、と、低い音を立てた。

「この書斎まで、届いた」

***

 書斎を辞すると、廊下の油灯は、もう、ひとつ、落ちていた。

 夜が、ひと段、深くなっている。

 私は、押し花の青い花弁を、指のあいだに、そっと挟んだまま、自室まで、歩いた。ヴェロニカ・グランディス。前世の私が眺めた幾冊もの植物図鑑の頁を、必死に、めくり直す。──ない。あの考察掲示板の見出しの下にも、押し花も、毒草の名前も、母の筆跡の細目も、ひとつも、書かれてはいなかった。

 『──そうか、お父様』

 『この盤面は、もう、本編に書かれた台本の、外側にある』

 自室の机に戻り、私は、行灯の傍らに、押し花を、そっと置いた。

 明朝、修道院送りの護送馬車が、屋敷の馬車寄せに、来る。

 その馬車の荷台の隅に、革表紙の帳簿のうちの一冊と、青い花弁ひとひらが、私の手で、滑り込まされる手筈になっている。──父は、止めないだろう。

 扉の外、廊下の奥から、馬蹄の音が、まだ届かぬ朝の方角に、ひそやかに、近づいてくる気配がした。

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