Novelis
← 目次

扇を畳む音だけが響いた夜

第2話 第2話

第2話

第2話

鎖骨の上に、銀の留め具が、冷たく載った。

 侍女が選んだ濃灰のローブは、本来なら王太子妃の婚約者にだけ許された刺繍を、いっさい取り去った仕様だった。胸元の銀糸も、襟元の白百合も、袖口の家紋も、すべて夜のうちに侍女頭が抜糸し落としていた。私が命じたわけではない。彼女たちが、昨夜の出来事を一夜のうちに屋敷中へ伝え、私が目覚めるまでに装束の意味を整えてくれていたのだ。

 『──手早いこと』

 鏡の中の私は、まだ昨夜と同じ顔をしている。睫毛の影は青褪めていない。頬には熱もない。むしろ、十九年生きてきて初めて、この顔の輪郭が、私自身の輪郭と重なって見えていた。指先で頬骨の縁をなぞると、皮膚の下に、固く小さな骨が、こつ、と当たった。──ああ、私はこういう骨組みでできていたのか。前世の記憶が戻った今になって、私は初めて、自分の体の寸法を、外側からではなく内側から知った気がした。

 馬車に揺られる時間は、短かった。屋敷から王宮までは石畳で四半刻もない。窓の外には、秋の終わりの薄い朝霧が、街路樹のあいだを這っていた。御者は終始口を噤み、護衛騎士の馬蹄の音だけが、規則正しく霧を割って進んでいく。蹄鉄が石畳を打つたび、座面の下から、かたん、かたん、と細かな振動が膝裏に伝わってきて、それが妙に、自分の脈拍と二重写しになって聞こえた。

 父は一足先に登城していた。エーレンフェルト侯爵家当主として、王の御前に呼ばれたのは、私本人より家のほうが先だった。──そういう順序になる事案であることを、私はもう、肩書を抜きに理解できる頭を持っている。

 王宮の馬車寄せに降り立ったとき、私の靴の先で、薄氷のような薄霜が一片、ぱきり、と音を立てて砕けた。その小さな破裂音だけを、私は妙に鮮やかに、耳の奥に留めた。

 胸のうちで、扇の骨を畳むときの、ぱちん、という短い音を、もう一度だけ、思い起こす。

***

 謁見の間は、思いのほか、静かだった。

 陛下の玉座は遥か高みにあり、その左に王妃陛下、玉座の右斜め前に、第二王子レオンハルト殿下と聖女ミレーユ様。床に近い側に、父エーレンフェルト侯と、宰相の老ガルディア侯。私が示された位置は、玉座から見て中央、深紅の絨毯のちょうど真ん中の十字模様の上だった。

 ──罪人の立ち位置である。

 私はその十字に踵を揃えて、深々と礼をした。床の絨毯から、黴と、乾いた薔薇の匂いが立ちのぼった。長く敷き替えられていない絨毯の、深い襞のなかに溜まった年月の匂いだった。頭を下げた角度のまま、視界の端に、玉座の脇に立つ衛兵の槍の穂先が、天窓の光を受けて、銀色に細く光っているのが映った。あの穂先の鋭さで、私の運命は、これから、ひと刺しに決められる。──そう思っても、不思議と、膝は震えなかった。

「──クラリス・フォン・エーレンフェルト」

 陛下の声は、思いのほか、疲れていた。

「昨夜、王立魔導学院にて、我が次子レオンハルトより婚約破棄の沙汰を申し渡されたとのこと、こちらにも届いておる」

「拝聴いたしました」

「申し開きの儀があれば、許す」

 謁見の間の空気が、僅かに張り詰めるのを感じた。父の背中が、玉座のすぐ手前で、ほんの一寸、揺れた気がした。

 私は、深く、息を吸った。胸の奥に、冷たい秋の朝の匂いが、ゆっくりと満ちていく。──この一息で、私は私の前半生を畳む。

「──申し開きは、ございません」

 陛下の眉が、初めて動いた。

 王太子の隣で、聖女ミレーユ様の睫毛が、ぱちりと跳ねた。彼女の桃色の唇が、何か言いかけて、止まる。胸元の聖印が、ことり、と小さく、彼女の鎖骨の上で揺れた。

「殿下のお見立てに、口幅ったく異論を唱える資格は、私にはございません。また、ミレーユ様のお心を傷つけたとされる振舞いの細目について、私の記憶と御証言とが食い違うとしても、それを王宮の御前で並べ立てることは、王家の御沙汰の格を損なう所業でございましょう」

 ここまで一息で言って、私は一拍、間を置いた。喉の奥で、唾を、ひとつだけ、飲み下す。

「──ですので、ひとつ、お願いがございます」

「申せ」

 陛下の声に、僅かに興味の色が混じった。

「私を、修道院へ、お送りいただきたく」

 謁見の間が、しん、と凍った。

 王太子の口が、ぽかんと、開いた。聖女ミレーユ様の青い瞳が、めいっぱい見開かれて、小さく揺れた。──怯えだろうか。それとも、戸惑いだろうか。彼女の頬から、薔薇色の血の気が、ほんの僅かに、引いていく。私はそれを、扇の縁越しに、観察するともなく観察していた。瞳の奥で、彼女の思考が、慣れない方向へ、つまずきながら走り出す気配が、はっきりと、見えた。

「クラリス、貴様……」

 王太子の声が、掠れた。

 『──ええ、殿下。あなたが言うつもりだった台詞を、私のほうから先に申し上げました』

 胸の内で、私はそっと一礼する。本来であれば、彼が大広間で高らかに告げるはずだったのだ。「悔い改めの意を示すため、エーレンフェルト侯爵令嬢を修道院へ送るものとする」と。私はその台詞を、彼の口から、取り上げた。それだけのことだ。

「ミレーユ様の御心の安らぎのため、しばらく王都を離れますことを、お許しくださいませ」

 私はもう一度、絨毯の十字の上で、深々と、頭を下げた。

***

 応えたのは、王太子のほうが先だった。

「待て、クラリス! 修道院などと、軽々しく口にするでない! ……っ、貴様、自ら罪を認めるのか? 認めれば、それは──」

 殿下の声が、後半、急に細くなった。彼の中で、何かの計算が音を立てて狂っていく気配を、私は背中越しに感じ取った。──台本を取り上げられた役者の、呼吸の乱れだった。次の台詞を探して、彼の喉が、空気を二度、三度と、無駄に飲み込む音まで、聞こえた気がした。

 ──そう。彼は、私が言い逃れをし、無様に泣き縋り、それを御前で退ける構図を、用意していた。聖女様の慈悲深さが、悪役令嬢の浅ましさを引き立てる。そういう、絵だ。

 私が自ら頭を垂れて修道院送りを申し出れば、その絵は崩れる。罪状の具体は、誰の口からも語られない。語られないまま、私は静かに王都を去り、聖女様の御名は、それ以上、人の口に上らない。

 聖女ミレーユ様の長い睫毛が、もう一度、震えた。彼女の細い指先が、無意識のように、王太子のローブの裾を、きゅう、と握った。袖口の金糸の刺繍が、その指の力で、わずかに歪む。──彼女は、自分が今、何にすがりついたかさえ、まだ気づいていない。

 『──怯えたわね、また』

 胸の内側だけで、私は静かに微笑む。

「……陛下」

 低く声をかけたのは、父だった。

 エーレンフェルト侯爵オットマール・フォン・エーレンフェルト。私の父は、玉座のすぐ手前で、深く一礼した。その背中の、肩甲骨と肩甲骨のあいだの、いつもなら緩む布の襞が、今朝はぴたりと、張ったままだった。

「娘の願い、まことに身勝手なるものとは存じますが、王家の御沙汰の品位を慮るならば、ひとつの落とし所として、考えるに値する選択肢かと存じます」

「……侯」

「我がエーレンフェルト家、王太子妃を輩出し損ねた責は、重々、承知しております。北の修道院であれば、領地への影響も最小限に抑えられましょう。──娘には、数年、神に仕えさせます」

 父の声に、感情の起伏は、ひとつも、ない。

 私は顔を、上げた。

 父の横顔は、玉座のほうを向いていて、私の側からは見えない。──が、私が頭を下げたままの位置から、父の靴の踵を見上げる角度で、ふと、視線が、交わったのだ。一瞬。父はちらりとだけ、私のほうに、眼を向けた。

 その眼の冷たさを、私は、うまく、言葉にできない。

 落胆では、なかった。失望でも、なかった。怒りでも、嘆きでもない。ただ、──私が今、自分の意思で「修道院送り」という札を場に置いたという事実を、父は、知っていた。私がそう言うであろうと、最初から、知っていた。いや、もっと正確に言えば──父は、私に、そう言わせるために、何かを、すでに手配していたのではないか。背筋の後ろを、ひやりと、絹のような冷気が一筋、撫でていった。

 『──お父様』

 胸の中で、私の前世の声が、低く、呟いた。

 『お父様は、何をご存じなのですか』

 陛下が、ゆっくりと、頷かれた。

「侯の進言、そして当人の願い、両方を踏まえ、追って、沙汰を出す。クラリス・フォン・エーレンフェルト、本日のところは、下がりおれ」

「御意」

 私は、深く、礼をした。絨毯に額がつくほどの礼ではない、あくまで令嬢としての作法に則った、寸分の狂いもない角度の礼だった。──罪人の礼ではなく、これは。

***

 謁見の間を退出すると、長い廊下の高い窓から、薄い朝陽が、斜めに差し込んでいた。光の中を、塵が、ゆっくりと、上下に揺れている。

 廊下の途中で、父はいったん、私の前で歩を止めた。

「クラリス」

「はい、お父様」

「──昨夜、何を、思い出した?」

 私は、息を、呑んだ。

 父は、私のほうを見ていない。視線は、廊下のいちばん奥、まだ届かない陽の差さぬ闇のほうへと、向けられている。けれど、その問いは、確かに私に向けて、抜き身のまま差し出されていた。問いの刃の冷たさが、ローブ越しに、鎖骨の銀の留め具と、共鳴するように、かすかに震えた。

 私は、ゆっくりと、扇を握り直した。今朝はまだ、これを使う場面は、訪れていない。

「……まだ、申し上げる段では、ございません」

 父は、それ以上、訊かなかった。

 ただ、低く、ひとつだけ、囁いた。

「今夜、書斎に、来なさい」

 その声に、私は無言で、頭を、垂れた。

 廊下の窓の外、王宮の中庭で、霜の解けた薔薇が一輪、震えるように、落ちる。──私はその音を、たぶん、生涯、忘れないだろうと、なぜか、分かった。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ