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扇を畳む音だけが響いた夜

第1話 第1話

第1話

第1話

扇の骨が、軋んだ。

 象牙細工の留め具が、私の指先で小さな悲鳴を上げる。手汗ではない。爪先が、無意識に骨を握りしめていたのだ。

「アンナリーゼ……ではなく、クラリス・フォン・エーレンフェルト。我が婚約を破棄する」

 王立魔導学院の大広間に、第二王子レオンハルト・グラン・ファーレンハイトの声が響いた。シャンデリアの光が床の大理石に砕けて、私のドレスの裾を白く照らしていた。蜜蝋と香水と、夜会終盤に立ち上る人いきれの匂いが、鼻の奥で重く混ざっている。

 その瞬間。

 頭蓋の内側に、見たこともないはずの記憶が、雪崩のように落ちてきた。

 満員電車の吊革の感触。残業帰りに齧ったコンビニのおにぎりの塩味。安いノートパソコンの発熱した熱が太腿に当たる感触。土曜の昼、シーツに包まったまま起動したゲーム機の、起動音。

 『聖夜の白百合』。

 そういう、乙女ゲームがあった、と前世の私は思った。卒業パーティーの大広間で悪役令嬢が断罪され、最終的には処刑される。その悪役令嬢の名前を、私は──いや、〝かつての私〟は、何度も画面の中で読んだ。

 クラリス・フォン・エーレンフェルト。

 『──ああ、なるほど。今この瞬間が、それなのね』

 頭の中で、ゲーム画面の選択肢が幾つも瞬いては消えていった。「謝罪する」「言い逃れる」「泣き崩れる」──どれを選んでも、最後にはこの体が処刑台に運ばれていく結末だった。それを知っていながら、しかし不思議と、絶望の冷たさは胸に届かない。むしろ、長く謎だった答えがようやく開示された、あの問題集の解答欄をめくった瞬間の静けさに、似ていた。

 膝の力は、不思議と抜けなかった。涙腺も動かなかった。代わりに、ずっと胸の奥につかえていた重い何かが、ゆっくりと所在を変えるのを感じた。十九年分の躾と、七年分の王太子妃教育と、十二歳のあの日に銀の鎖を首にかけられた感触までが、ひとつの帯になって、ゆるりと、私の足元を離れていく。

 私は扇を、ゆっくりと閉じた。

 象牙の骨と骨が触れ合って、ぱちん、と短い音を立てる。

 その音だけが、不自然なほど大広間に通った。

 王太子の隣で、桃色の髪を波打たせた少女が、僅かに肩を強張らせる。聖女、ミレーユ・ラ・サンクト。神託で見出されたという、平民出身の浄化の使い手。

 私を見上げる青い瞳の奥に、勝利の表情ではない、別の色が一瞬よぎった気がした。睫毛の先が、一拍だけ細かく震える。胸元の聖印が、彼女の呼吸に合わせて、息継ぎの遅い小鳥のように上下していた。

 『──怯えた?』

 胸の内で、私の声ではない私の声が呟く。

***

「クラリス! 何故跪かぬ!」

 王太子の声が、苛立ちで僅かに割れた。

 彼の隣で、聖女の細い指が王太子の腕に絡みつき、桃色の唇が震える。

「殿下、いいのです、クラリス様もきっと驚いていらっしゃるのです、私……私、本当はクラリス様にずっと、仲良くしていただきたかっただけで……」

 潤んだ青い瞳が、こちらを見上げてくる。すかさず王太子の表情が緩み、保護者めいた手が彼女の背を包み込んだ。

 『──ほら、即落ち』

 私は内心で、ひとつ嗤った。

 それは前世の私が、ゲーム画面の前で何度も繰り返し感じていた違和感と、ぴたりと重なる動きだった。攻略対象はミレーユに触れられた瞬間から、判断力を一段階落とす。

 ゲームでは、それは「聖女の慈悲深さ」として演出されていた。

 けれど、こうして血の通った人間の目で見ると──まるで毒だ。

 私は扇の先で、ドレスの裾を一度だけ整えた。胸を張る必要はない。私はもう七年、この体で胸を張ることだけを習ってきたのだから。──だから今宵は、その重みを、いったん肩から下ろさせていただこう。誰の役にも立たぬ作法は、ひと晩だけお休みということで。

「殿下」

「……なんだ」

「お話は確かに承りました。本日この場での御断罪、慎んで御受けいたします。──ですが、ひとつだけお伺いしてもよろしゅうございますか」

 大広間の空気が、いっせいに濁った。

 近くに立っていた令嬢たちの扇が、いっせいに口許を覆う。先ほどまで「悪役令嬢が泣き崩れる滑稽な見世物」を期待していた目が、今は別のものを見ようとしている。楽団の弦の音は、いつの間にか途切れていた。給仕の少年が銀盆を取り落としかけて慌てて押さえる、その小さな金属音だけが、奇妙なほど鮮やかに、高い天井へと昇っていく。

「私が、いつ、どの茶会で、ミレーユ様を虐げたとされていますの? 私の記憶が確かなら、私はミレーユ様と私的に御茶を共にしましたのは二度。一度目は学院長立会いのもと、二度目は数名の御令嬢同席のもとで」

「貴様、いまさら言い逃れを──」

「逃れるつもりはございません」

 私は静かに遮った。これまでなら、王太子の言葉を遮るなど考えられぬ無作法だった。それを、私は今、初めてやった。

「私の至らぬ振舞いがミレーユ様を傷つけてしまったのであれば、それは私の不徳でございます。ですが、王太子殿下がエーレンフェルト家との婚約を破棄なさるほどの『虐げ』を、私は具体的に存じ上げません。どの場面の、どの言葉を、どなたの御証言として把握なさっていらっしゃいますか」

 しん、と、大広間が鎮まった。

***

 王太子は、答えなかった。

 代わりに、聖女が王太子の腕の中で、薔薇色の唇を震わせた。

「あの、クラリス様……そんなふうに問い詰められると、私……」

 涙の粒が、頬を伝い落ちる。

 即座に王太子は私を睨みつけ、低く吼えた。

「ミレーユを泣かすな、クラリス! ──貴様の罪は、貴様自身が一番よく知っているはずだ!」

 大広間の貴族令息たちのうち何人かが、王太子に同調するように扇の柄や腰の剣に手を伸ばす。私は、その動きを、ぼんやりと眺めた。

 ぼんやりと眺めながら、頭の片隅では、もう別のことを考えていた。シャンデリアの蝋が、ぽたり、と一滴、私から数歩離れた床に音もなく落ちる。その透きとおった一粒に、私の白いドレスの裾が、ぼんやりと逆さに映り込んでいた。

 『──ああ、そうか』

 私は、自分が何に呆れていたのかを、初めて自分で言葉にできた。

 誰の言葉も、私を見ていない。

 王太子の声も、聖女の涙も、令息たちの剣呑な所作も、すべてが「悪役令嬢クラリス・フォン・エーレンフェルト」という記号に対して向けられていた。十二歳のあの日、銀の鎖と共に渡された王太子妃という肩書きと、そこに付随する妬みや恐れや嘲りが、人の形を取って大広間に立っているだけ。

 そして私自身は、長いあいだ、その記号で居ることに「どこにも違和感を覚えない」よう躾けられてきた。

 惜しい、と感じるよう躾けられてきただけで、本当に欲しかったものなど、ひとつもなかった。誰かに似合うと褒められた淡青のドレスも、王宮図書館の使用許可の鍵も、初代王妃から伝わるという銀の婚約指輪の冷たい重みも、ひとつ残らず、私ではない誰かのために用意された装飾品だった。

 『私、これから、自分の頭でものを考えていいのね』

 胸の内側で、誰の許可でもない許可が、静かに下りた。

 心臓が、生まれて初めて私自身のために脈を打った気がした。長く水底に押さえつけられていた肺が、ようやく一息分の空気を吸い上げた、あの最初の感触に、よく似ていた。

 シャンデリアの光が、じんわりと滲んだ。涙ではない。私の中で、十九年分の何かが、ようやく重力を持ったのだ。

 私は扇を畳んだ手を、そっと胸の前に置いた。

「殿下」

「……なんだ」

「本日の御断罪、確かに承りました。御沙汰につきましては、明朝、登城の上で正式に賜りたく存じます。本日この場では、これ以上、御列席の皆様の宴を汚すこと、私が許せません」

 ドレスの裾を持ち上げ、私は深々と礼をした。十二歳のあの日、母から教わった完璧な角度の、王太子妃にだけ許される形だった。

 それを最後に。

 顔を上げると、王太子の灰色の瞳が、わずかに揺れていた。

***

「では、御前を失礼いたします」

 私はくるりと身を翻した。ヒールの音が大理石に響く。背後で王太子が何かを叫んだ気がしたが、もう、振り返らなかった。

 廊下に出ると、夜気が頬を撫でた。秋の終わりの、湿った石畳の匂い。馬車寄せまでの長い回廊を、私は一歩、また一歩と歩いた。

 『屋敷に帰ったら、まず父の書斎に入らせてもらおう』

 なぜそう思ったのかは、まだ自分でも分からない。ただ、前世の記憶の隅で、ひとつだけ引っかかる設定があった。──「神託の孤児」と呼ばれた聖女ミレーユの生家へは、本編では決して語られなかった、不可解な額の送金記録が存在するのだ、という、誰かの考察記事の一節が。

 馬車寄せの灯火が、夜風に小さく揺れていた。御者は黙ったまま私のために扉を支え、私の靴の先が踏み板に乗るのを待っている。──いつもなら掛けられる「お嬢様、本日もお美しゅう」の声が、今夜だけはなかった。彼もまた、今夜の私が一段違う何かになったことを、どこかで察していたのかもしれない。

 馬車の扉に手をかける。冷えた金具の感触が、指先からまっすぐ背骨を伝った。

 扇を、もう一度、ぱちん、と畳む。

 『──さて、何が出てくるかしらね』

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