第3話
第3話
馬車の扉が、コトリと閉じられた。
夜気を遮る音が、思いのほか、耳の奥に深く沈んだ。革張りの座面に身を沈めた瞬間、卒業の宴のために結い上げた髪の重みが、不意に首筋へずしりと落ちる。私は背筋を伸ばす力を、ようやく半分だけ抜いた。指先の震えが、いまになって思い出したように甦り、扇の象牙を撫でる。骨の一本に、爪先ほどの裂け目が走っているのに、私は今気がついた。
「お嬢様」
向かい側の小窓を引き上げながら、家令ガリウスの低い声が降ってくる。馬車寄せの松明の灯りが、彼の白い髭をひと筋、橙色に染めた。
「御者には、回り道を命じておりますゆえ、屋敷までは半刻ほど」
「ありがとう、ガリウス」
声が、わずかに掠れた。喉の奥に、卒業の宴で吸い込んだ蝋の匂いが、まだ薄く残っていた。
馬車が、ゆっくりと動き出す。蹄の音が、王宮の石畳を踏みしめる音から、王都の街路の磨り減った石の音へ、四度ほど変わった。揺れに合わせて、内ポケットの冊子が、胸骨のすぐ下を、こつん、こつん、と叩く。ガリウスが一晩で揃えてくれた、私の不在を証す七つの記録。──ここから先、これは盾ではなく、剣だ。
私は、手袋を脱がなかった。
脱げば、掌に四つ並んだ爪痕が、自分の目に晒される。あの大広間で、扇の柄を握りしめた指が刻んだ、半月形の赤い痕。今夜、私を支えていたものの実体だ。見れば、その痕に縋りたくなる気がした。
ガラス越しの王都が、藍に沈んでいく。
噴水のある広場を過ぎる。聖オリュンピアの鐘楼の影が、馬車の天井を一度かすめる。──そして、私はようやく、許される場所で、息を吐いた。
息と一緒に、ある一点が、静かに浮かび上がる。
──台本を、書いた者。
夢の中の私は、火に焼かれる朝まで、その正体を考えなかった。ただ「殿下が私を捨てた」「ミレーヌ嬢が私を陥れた」とだけ恨み、独房の藁の棘を膝裏に感じながら、毒杯を呷った。けれど今宵、扇を閉じる前の数歩のあいだに、私は一つだけ、はっきりと見た。──ミレーヌ嬢の青い瞳が、私の肩越しの、誰もいない空間を彷徨ったこと。
あれは、お赦しを乞う目ではなかった。指示を仰ごうとして、指示の主が、その場にいないことに、初めて気がついた目だ。
つまり、台本を書いた者は、今夜、大広間にはいなかった。
私は、革手袋に包まれた指で、膝に置かれた冊子の角をなぞる。そして、ひとつずつ、目の前の卓に並べていくように、声に出さず、心の中で数えはじめた。
殿下では、ない。
ミレーヌ嬢の証言の、七つの日付。あの日付の選び方は、私の予定表だけで足りる仕事ではない。聖アガタ修道院への慰問、聖オリュンピアの十六回忌前祭、王太后陛下の慈善刺繍会──これらは、王太子付の文官の手元にも届く日程だ。けれど、私の高熱の夜、温室から一歩も出なかった三日続きの雨。あれは、ヴェルディアーヌ家の侍医ノエルの診療帳と、洗濯女ローズマリーの所感に頼らなければ、外からは見えない。
殿下の御身辺の者では、足りない。
ミレーヌ嬢でも、ない。
男爵家のご令嬢が、ヴェルディアーヌ公爵家の屋敷の使用人の動線を、これほど精緻に把握できるはずがない。私の不在を「公的に証明できる場所」と「家の中でだけ確認できる場所」を半々ずつ織り交ぜた手つきは──この家の内側を歩き慣れた者の手だ。
セドリック様は、論外。あの方は、剣の柄を握る角度ひとつで人柄が知れる。台本を書く手ではない。
『──父様の、お名で』
胸の奥で呟いた瞬間、馬車の揺れが、ひと際大きく腰を突き上げた。
夢の中で、父様は来なかった。
来られなかった、のだ。
馬車を走らせなかった、のではなく、走らせられなかった。誰かが、父様の足を屋敷に縛り付けた。父様の名で書状を書き、父様の名で人を動かし、父様には何も知らせず、父様を「動かなかった父」に仕立てあげた、誰かが、いる。
胸の中で、何かが冷えていく音がした。氷柱の根が、肋の裏側を、ひと筋、ふた筋と這い上がってくる。十八年、私が「お父様の沈黙」だと信じていたものの底に、別の手の影が浮かび上がる。父様の沈黙は、父様のものではなかったのかもしれない──そう思った瞬間、革手袋の中の指先が、扇の柄を、自分の意思とは関わりなく、もう一度きつく握り直していた。
その誰かは、王宮ではなく、屋敷にいる。
私は、扇の陰で唇の端を、わずかに歪めた。微笑みではなかった。鏡があれば、自分でも誰かわからない顔をしているはずだ、と思った。
「ガリウス」
向かいの席のガリウスが、深く頭を垂れる。蝋燭ほどの灯りに照らされた老いた頬には、いつもの落ち着いた皺が刻まれていたが、その目の奥にだけ、わずかに警戒の色が滲んでいるのを、私は見逃さなかった。
「今宵、お屋敷では、どなたが私を待っておいでですか」
ガリウスの白い眉が、ほんの一瞬だけ、寄った。それは、彼が答えを「選ぶ」ときの癖だ。十八年、この屋敷で私の側にいた者の、私だけが知る癖。
「──奥方様が、玄関広間にて」
「お父様は」
「執務室で、書面の精査をされておいでです。お嬢様の御帰宅は、奥方様より『卒業の宴の余韻ゆえ、自分が出迎える』と、お父様にお伝えがあったと、先ほど別の使いから」
馬車の車輪が、轍を一つ、深く踏んだ。
私の背骨の真ん中を、冷たい指で、誰かが上から下へなぞったような心地がした。指は、首筋の産毛を逆立て、肩甲骨の間に薄い汗を残し、腰の窪みで、ようやく力を失った。
『──書面の精査』
父様は、お忙しい振りをさせられている。卒業の宴という、娘の人生の節目の夜に、わざわざ、書斎で。
母様が亡くなって六年、父様の書斎で重ねられた書面の量を、私は、誰よりも知っている。父様は、いつも私のために、書面を後回しにしてくださった方だ。誕生日の朝、領地視察の前の晩、母様の命日。──そういう日に、父様の机の上に書面が積まれていることは、一度も、なかった。
それを今宵に限って、書面を選ばせた者が、いる。
私は、内ポケットの冊子の上に、静かに掌を重ねた。冊子の角が、革手袋越しに、肋骨の間にすっと食い込む。その痛みが、いまの私には、不思議と心地よかった。痛みだけが、私を「夢の中の私」から引き離してくれる、確かな鎖のような気がした。
「──ガリウス」
声を、もう一段、低くした。
「明日の朝、お父様の御書斎の机の上を、一番早く整える侍従を、私の部屋へ寄越してくださいまし。何も問わず、ただ、机の上の書状の差出人だけ、覚えてきてくれる者を」
「かしこまりました」
ガリウスは、何も問い返さなかった。 ただ、そのお答えの間が、いつもより半呼吸、長かった。その半呼吸の中に、彼が今宵抱えていたかもしれない長年の沈黙の重さが、ふと、垣間見えた気がした。──この老いた家令もまた、何かを「気づきながら、口にできずにいた」のではないか、と。
馬車が、緩やかに減速する。窓の外、闇の向こうに、ヴェルディアーヌ公爵家の鉄門の二本の柱が、ゆっくりと迫り上がってきた。柱の上に据えられた家紋の鷲が、馬車の灯りを受けて、片翼だけ橙に光る。もう片翼は、夜の側に沈んだまま、暗く閉じている。──まるで、この家そのものを、形にしたかのように。
私は、ガラスにそっと額を寄せた。冷えたガラスが、宴で火照った額の熱を、じわりと吸い取っていく。
馬車寄せの石畳に、灯りが灯っている。
その灯りの中央に、淡い藤色のドレスを纏ったお方が、両手を体の前に重ね、こちらをじっと見つめて立っておられた。継母──エヴァンジェリーヌ・ヴェルディアーヌ公爵夫人。お父様が、母様を亡くされた三年後に迎え入れた、二人目の奥様。
馬車の灯りが、お顔を斜めに照らした。
継母様は、微笑んでおられた。
それは、私が八つの頃から、屋敷でいくたびも見てきた微笑みだった。藤色のドレスの胸元で、白い手が一度だけ、軽く揺らされる。「お帰りなさい、クラリス」──唇が、そう動くのが、ガラスの向こうに見えた気がした。
頬の内側に、覚えのない冷気が、すうっと走った。冷気はそのまま舌の付け根まで降りて、唾を飲むことさえ、ためらわせた。
『──ああ』
私は、ようやく、思い当たった。
夢の中で、独房の格子の向こうに、藁の毛布の上に、火刑台の煙の向こうに、ずっと、ずっと、私が探していたのは、父様だけではなかったのだ。私は、この方の微笑みの裏側を、ずっと、見たかったのだ。──十八年、見ようとして、見られなかったものを。
馬車が、止まる。
御者が扉に手をかける、その音が、夜の中に、やけに明るく響いた。
私は、扇を、もう一度、ぴたりと閉じた。