Novelis
← 目次

夢で見た断罪、二度目はあなたの台本通りには

第2話 第2話

第2話

第2話

扇の骨が、もう一度、私の指先で軋みかけた。けれど今度は、握り潰す前に、私はそっと息を吐く。

七つ。一つずつ、丁寧に申し上げる。

「日付の齟齬、だと?」

殿下の声に、想定外への戸惑いが半音だけ滲んだ。夢の中のレオナルド殿下は、こんなお顔をなさらなかった。あの夜の殿下は、ただ朗々と修道院送りを言い渡し、私の嗚咽の上に被せるように、ミレーヌ嬢の肩を抱き寄せたのだ。あのときの殿下のお目は、すでに何かを決定された後のお目だった。今宵のお目には、まだ、迷いの薄い膜がかかっている。

会場の空気が、変わる。ご令嬢方のざわめきが一拍止まり、扇の音が一斉に下がった。二階の回廊から身を乗り出していた若い貴族の青年たちまでが、口を閉じる。シャンデリアの揺らめきが、ほんのわずかに、人々の頬の影を長く引いた。

「申し上げてもよろしいですか」

私は、もう一度繰り返した。声は、自分でも驚くほど凪いでいた。

殿下は、しばし黙された。許可を出さなければ、卒業の佳き宴が、検死さながらの空気に呑まれる。許可を出せば、ミレーヌ嬢の涙ながらの告発が、淡々とした日付の前に晒される。──どちらに転んでも、殿下が本日この場に整えてこられた構図は、もう元には戻らない。

「……申せ」

低いお声が、降りてきた。喉の奥で、一度引き返した言葉のように、わずかに掠れていた。

ミレーヌ嬢の白い頬から、ふっと血の気が引く。先ほどまで殿下を見上げていた濡れた瞳が、初めて、私の手元の冊子に、迷い込むように落ちた。

私は、夜会服の内ポケットから、薄い冊子を取り出した。三日前の朝、目覚めてすぐ、家令ガリウスに頼んで一晩で整えてもらったものだ。「変な夢を見たから、念のため」とだけ申し上げた。ガリウスは何も問わず、ただ深く頭を下げて、家中の記録を順に揃えてくれた。蝋燭の灯りに透けて、表紙の隅に、ガリウスの几帳面な筆跡で日付が並んでいるのが見える。

「一つ。──春霜の月、九日の朝。私が階段でミレーヌ嬢を突き飛ばした、とのお話でございました」

冊子の一頁目を、開く。乾いた紙が、指の腹に微かに引っかかる。

「あの朝、私は領地ヴェルディアーヌの聖アガタ修道院で慰問にあがっておりました。院長アガサ修道女の署名と封蝋入りの記録が、こちらに」

私は冊子を、ほんの少しだけ持ち上げる。蝋の朱が、灯りを受けて鈍く光った。

「二つ。──同月、十七日の午後。中庭の茶会で、ミレーヌ嬢の御髪を引いた、と。あの午後、私は王都郊外の聖オリュンピア墓地におりました。亡き母の十六回忌の前祭、立会人は神官長セバスチャン猊下、お父様、墓守の老エルグ──三名のご署名を頂戴いたしております」

ミレーヌ嬢の指先が、殿下のお召し物の袖から、わずかに離れた。離れた指は、行き先を失ったように、宙で小さく震えていた。

「三つ。──同月、二十二日の夜。書庫の蔵書を破いた、と。その夜、私は熱に伏せっており、侍医ノエルの診療帳に『鎮静薬湯を三度、譫言あり』と記録が残されております」

私はそこで、診療帳の写しの一行に、指先をそっと添える。あの夜の高熱の苦さが、舌の奥に蘇りかけて、私はそれを呑み込んだ。

「四つ。──新月の月、五日。中央広場の路傍で、殿下の御名を貶める発言をした、と。あの日は三日続きの雨で、私は屋敷の温室から一歩も出ておりません。庭師頭ファビアン、洗濯女ローズマリー、調理場のクラウディア──使用人五名以上が、私の不在を否定する側におります」

「五つ。──同月、十四日。男爵家のご令嬢の腕に、薔薇の棘で傷をつけた、と。その日、私はお父様の領地視察に同行しており、北街道のオルテンス宿駅に三泊しておりました。宿泊台帳の写し、本日こちらに持参いたしております」

私は冊子の頁を、もう一枚めくった。紙が触れ合う乾いた音が、静まり返った大広間に、思いのほか大きく響く。誰かが、息を呑んだ。誰かの扇が、膝の上にすべり落ちた。それすら、咎める声は上がらなかった。

「六つ。──刈穂の月、二日。修道院の聖具を盗ませた、と。その日、私は王立図書館におりました。司書長ティモールの貸出記録には、私の入退室の刻限と、『古典法令集第七巻』を借覧した時刻まで、分単位で記載されております」

「七つ目」

私は、ここで一拍、息を置いた。広間の天井まで吸い上げられていくような、長い、長い一拍だった。

「──同月、十一日。ミレーヌ嬢の愛犬を毒殺した、と。その日、私は朝から夜まで、王城の貴婦人方の慈善刺繍会に出席しておりました。主催は、王太后陛下にあらせられます」

殿下のお喉が、上下に動いた。 ミレーヌ嬢の頬から、すべての血の気が抜けた。耳朶までが、蝋細工のように白く凍っていた。

「以上、七つ」

扇を、ぱちり、と閉じる。象牙が掌に触れる感触が、先ほどよりも、ほんの少し温かい。指先に残っていた震えは、もう、どこにもなかった。

「ミレーヌ嬢の御証言には、私の不在が公式に記録されている日付と場所が、ことごとく選ばれております。まるで──私の予定表をご存じの方が、私の不在の日を慎重に避けて、罪状を書き並べてくださったかのようで」

ご令嬢方の扇が、ばたばたと音を立てて閉じられていく。「日付が」「アガサ修道女様の慰問って」「あの日、確か王太后陛下のお側で」──囁きは、もう扇の陰には収まりきらなかった。二階の回廊で、青年がもう一人の青年の袖を引き、何かを小声で問いかけている。誰かの靴底が、磨かれた床を、半歩、後ろへ滑らせた。

「いい加減なことを!」

ようやく、セドリック様の声が降ってきた。剣の柄から手を離し、こちらへ一歩踏み出される。けれど、その一歩は、最初に踏み出されたときよりも、わずかに浅い。

「ミレーヌ嬢のお涙を、貴様、嘘とでも申すか!」

「いえ」

私は、わずかに首を傾げた。

「ミレーヌ嬢は、嘘をついておられないのかもしれません。──ただ、どなたかがお書きになった紙を、その通り読み上げられただけ、ということもございましょう?」

ひっ、とミレーヌ嬢が息を呑む音が、聞こえた。短い、子兎のような音だった。

殿下のお目が、初めてミレーヌ嬢を見下ろした。先ほどまで愛しげに肩を抱いていたお手が、ふっと、ほんの一寸だけ離れる。たった一寸。けれど、その一寸は、シャンデリアの七十二本の蝋燭よりも、はっきりと広間の隅々を照らしてしまった。ミレーヌ嬢は慌てて殿下の袖を握り直そうとして、白い指が、何もない空を撫でた。空を撫でた指が、行き場を失って、自分の胸の前で固く握り合わされる。

『──早い』

胸の奥で、私は呟く。夢の中の私は、ここで床に膝をついていた。額を磨かれた石に擦りつけ、お赦しをとお縋りした。冷たい床の感触と、自分の涙の塩辛さを、私は今も覚えている。今夜の私は、まだ立っている。立っているだけで、台本の継ぎ目が、これほどあっさりと透けて見える。誰がこの紙を書き、誰がこの娘に手渡したのか。その答えは、まだ口にしない。今夜は、ここまで。

「殿下」

私は、静かに頭を下げた。

「夜が更けてまいりましたわ。本日は卒業の佳き宴。御検証はどうか日を改めて、王宮の正式な場で、改めてお願い申し上げてもよろしゅうございますか」

殿下は、お答えにならなかった。 お答えになれなかったのだ、と思う。

ここで「修道院送り」と言い切れば、王宮で日付の証拠が突き合わされた瞬間に、殿下ご自身の御判断力が問われる。けれど、今この場で告発を取り下げれば、ミレーヌ嬢の御涙が嘘であったことを、殿下のお口で認めることになる。どちらの言葉も、殿下の喉で、ぴたりと止まっていた。

ミレーヌ嬢が、私を見上げた。先ほどまで青く濡れていた瞳に、もう涙はなかった。怯えだけが、はっきりとあった。私を見ているようで、その視線は、私の肩越しの、誰もいない空間を彷徨っているようでもあった。──台本を渡した、その誰かを、探すように。

私は、扇の陰で、唇の端をほんの少しだけ上げる。

そしてゆっくりと、深く、礼をした。

夜会服の裾が、大理石の床を滑っていく。踵を返す。コツン、コツン、と踵の音が、静まり返った大広間に、夢では聞こえなかった音で響いた。誰も、私を呼び止めなかった。殿下も、ミレーヌ嬢も、セドリック様も。扉までの数十歩が、生まれてから今までで一番長く、そして一番、私の足で歩いた数十歩だった。

扉の前まで来たところで、私は一度だけ振り返った。

シャンデリアの七十二本の蝋燭の下、殿下とミレーヌ嬢は、互いを見ようとして、見られずにいる。誰かが書いた台本が、二人の間に、最初の亀裂を入れていた。その亀裂は、今夜のうちは、まだ細い。けれど、細い亀裂ほど、後から覗き込む者の目を引く。

『──父様』

胸の奥で、もう一度、呼びかける。

屋敷の門で私を待つのは、どちら様でしょう。 継母様の、あの柔らかな微笑みでしょうか。 それとも、夢では決して馬車を走らせなかった、お父様の、震える手のひらでしょうか。

私は扉を押し開けた。冷たい春の夜気が、火照った頬を撫で上げる。夜風には、まだ溶けきらない雪の匂いと、馬車寄せの松明の脂の匂いが、薄く混じっていた。馬車寄せの石畳の上に、ヴェルディアーヌ家の紋章を刻んだ馬車が、一台、静かに待っていた。

御者台から降りた家令ガリウスが、深く頭を下げる。

「お嬢様。──お屋敷へ、お送りいたします」

その低い声が、夢の中では一度も聞こえなかった声だ、と私は今、気づいた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ