第1話
第1話
扇の骨が、軋んだ。
握りしめた指先の力が、強すぎたのだ。象牙の繊細な細工が、ささやかな悲鳴のような小さな音を立てる。けれど、その微かな音は、大広間の高い天井まで突き上げるその声に、いとも容易く呑み込まれていった。
「クラリス・ヴェルディアーヌ! 公爵家のご令嬢ともあろう者が、なんたる卑劣!」
王太子レオナルド・ソルディアーノ・ヴァルセイユ殿下の声だ。冷たい蝋の匂い、ご令嬢方の香水、磨き上げられた大理石の床。卒業の佳き宴のために整えられた大広間の空気が、ぴたりと止まる。
「皆の者、聞け! 我が婚約は、本日この場をもって、破棄する!」
シャンデリアの腕に揺れる七十二本の蝋燭は、ぴくりとも乱れない。乱れたのは、私──クラリス・ヴェルディアーヌの呼吸だけだった。
殿下の腕に縋りつくのは、男爵令嬢ミレーヌ・フェルナン。涙でうるんだ青い瞳が、こちらを盗み見るたび、勝ち誇るように細められる。すぐ後ろに控えるのは、聖騎士団長のご子息、セドリック様。剣の柄に手をかけ、「貴様の悪逆非道、もはや看過できぬ!」と声を荒げてみせる。
殿下の婚約者として過ごした七年間、私はただの一度も、足音を乱さなかった。茶会で笑い声を上げすぎぬよう、舞踏会で殿方の手を強く握りすぎぬよう、夜会服のヒールの傾きまで気を配ってきた。それなのに今、私の足元から後ろに長く伸びる夜会服の裾は──夢で見た角度と、寸分違わない。
私は扇の陰で、そっと息を吸い込んだ。十二の年に亡くなった母様が、最後に教えてくださった作法だ。──公爵家の娘は、何があっても顔色を変えてはなりません、クラリス。微笑みは、ちゃんと唇の端に乗っている。震える指先は、白い羽根の下にしっかり隠した。
ご令嬢方は、扇の陰で囁き合っている。「まあ、本当に断罪が」「あの完璧なクラリス様が」──興味と憐憫と、それから幾分かの愉しみが、囁きの隙間に滲んでいた。
──ああ。
喉の奥で、笑いがつかえた。
これは、見たことがある。三日前の朝、目覚める寸前の、まどろみの中で。
夢、というには、輪郭が硬すぎた。
あの朝、私は寝台の上で半身を起こしたまま、しばらく動けなかった。窓の隙間から差し込む光に、爪の半月がやけにくっきりと浮かんで見えたのを覚えている。──いま、扇の隙間から殿下を見上げている、その光と寸分違わない。
侍女のローズが朝の支度を整えに入ってきたとき、私は「変な夢を見ました」と笑って流した。三日前のことだ。夢など、誰でも見る。卒業を控えた憂さが、ありもしない断罪を見せただけだろうと。そう思って、忘れたかった。
そして、夢の続きが、今この瞬間、目の前で律儀に再演されている。
ミレーヌ嬢の白い指が、殿下のお召し物の袖をつまむ角度。セドリック様が踏み出した左足の幅。床に落ちる影の濃さ。殿下の頬がわずかに紅潮し、聞き慣れた美声が、いつもより半音高く響いていること。給仕の少年が銀盆を取り落としそうになって、ぎりぎりで持ち直すこと。すべて、知っている。
『──修道院送りを命じる』
殿下の唇が、夢で見た通りの形を結ぶ。
私は扇を、ゆっくりと閉じた。象牙が掌に触れる感触が冷たい。震えた指先を、その下に隠す。微笑みは、崩さない。
ここからだ。
ここから、夢が、夢で終わらない領域に入る。
『──クラリス様』
夢の中で、私の名を呼ぶ声があった。
侍女頭のマルタが、処刑前夜の独房に差し入れに来てくれた声。藁の棘が膝裏に刺さる感覚。粗末な毛布の重み。鉄錆の浮いた水の、舌の奥に残る味。マルタは私の手にそっと、母様の形見の銀のロケットを握らせた。「お父様から」と一言だけ言って、彼女は格子の向こうに消えた。
そして、毒杯。
ガラスの縁が下唇に触れた瞬間の、甘いお香のような匂い。喉を焼いた火の塊。三百二十まで数えたところで、視界が傾いだ。
それでも、私は死にきれなかったらしい。
夢は、続いた。
火刑台。縄が手首に食い込む。麻の繊維がひと筋、皮膚を裂いて、血の玉を作る。薪の匂い。集まった群衆のざわめきの中に、子供の泣き声が混じっている。修道服姿のミレーヌ嬢が、殿下の隣で胸の前に手を組み、祈るふりをして俯いているのが、煙の向こうにかすかに見えた。
そして、私は誰かを探していた。
群衆をかき分けるはずの、馬車の音を。 紋章入りの上着の、深い藍色を。 私を抱きしめてくれたあの大きな手の、形を。
毒杯の前夜から、火に焼かれるその瞬間まで。独房の格子越しに、私はずっと、廊下の足音に耳を澄ませていた。
──父様が、来ない。
そこで、夢は途切れた。
煙の向こうに、来るはずの誰かが、ついぞ現れなかった。
私を疎んじていたわけではない。月に一度の領地からの便りに、いつも私の体調を案じる一行が添えられていた、あの父様が。婚約の報を聞いた夜、書斎で「クラリス、お前の幸福が第一だ」と、私の手の甲に額を押しあててくださった、あの父様が。娘が処刑される朝に、馬車も走らせない。
来ない、ではない。
来られなかった、のだ。
『──おかしい、わ』
胸の奥で呟いた声が、扇を握る指先まで届いた。
夢の中の私は、その違和感を呑み込んだまま、毒を呷った。火に焼かれた。けれど、今ここに立っている私は、まだ呑み込まなくていい。
「クラリス嬢! 弁明があるなら申されよ!」
殿下の声が、現実を引き戻す。
私はゆっくりと顔を上げた。広間を埋めるご令嬢方の囁き、扇の陰から覗く好奇の目、二階の回廊から身を乗り出す若い貴族の青年たち。十八年積み上げてきた公爵令嬢の所作が、背筋を勝手に伸ばした。
「──ごきげんよう、レオナルド殿下」
声は、思いのほか凪いでいた。
「謹んで、婚約解消を承りますわ」
ミレーヌ嬢の瞳が、わずかに揺らいだ。早すぎたのだろう。夢の中の私は、ここで取り乱したのだ。床に膝をつき、お赦しをとお縋りして、ミレーヌ嬢の靴の汚れに頬を擦りつけた。
今夜は、しない。
「ただ、その前に」
私は閉じた扇の先で、自分の手のひらを軽く、二度叩いた。
「一つだけ、確かめさせてくださいませ。──ミレーヌ嬢のご証言、いくつか、日付に齟齬がございますの」
殿下の眉が、ぴくりと動く。 ミレーヌ嬢は、私から目を逸らした。
『──七つ』
頭の中で、すでに数え終えていた。三日前から、夢を反芻するうちに、自然と組み上がっていた違和感。
階段から突き落としたとされる日、私は領地の修道院で慰問にいた。茶会で罵倒したとされる午後、お父様と二人で母の墓前にいた。書庫で書物を破ったとされる夜、私は熱を出して寝台から動けなかった。
日付。場所。証人。すべて、嚙み合わない。
そして、嚙み合わない証言の七つすべてに、共通する穴があった。──私の不在が、容易に確認できる場所と日にちを、ことごとく外している。
つまり。
これは、誰かが書いた台本だ。
私の生活と公務の隙間を熟知し、私の不在の日を巧みに避けて並べた、誰かの台本。男爵令嬢ミレーヌに、こう証言せよと書いた誰か。
そして、書いた誰かは──私の父様の名で動ける場所にいるか、もしくは、父様にこの場へ駆けつけることを許さない権限を持つ、誰かだ。
近すぎる。
公爵家の中に、いる。
私は、扇の陰で唇の端をわずかに上げた。それは、貴族の娘として七年間磨き上げた微笑みではなく──十二の年、母様の柩の前で初めて知った、静かに据わる類いの笑みだった。
「七つ、申し上げてもよろしいですか?」
扇の骨が、もう一度、小さく軋んだ。けれど今度は、悲鳴ではなかった。
──父様。
胸の奥で呼びかける。 父様、どうか今夜は、馬車を走らせて、迎えに来てくださいませ。 夢の朝とは違って。
私は、まだ修道院に行かない。 私は、まだ毒を含まない。 私は、まだ火に焼かれない。
大広間の床を、夜会靴の踵が一歩、踏みしめた。コツン、と、夢では聞こえなかった音が鳴る。
シャンデリアの光が、私の影を、まだら模様に床へ落とす。広間の誰も、まだ気づいていない。
ミレーヌ嬢を脇から差し向けた誰か。父様を遠ざけた誰か。台本を書いた誰か。
それが、屋敷の門で私を出迎える、あの柔らかな微笑みの──。
私は扇を、もう一度開いた。
今夜から、脚本を書き直す側に、私が回ったことに。