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白百合の女主人と銀の王太子

第2話 第2話

第2話

第2話

夜明け前の灰色のなか、私の寝室の扉が叩かれた。

三度。間を置いて、また三度。執事ギルベルトの拳でしか鳴らない、低く乾いた音だった。

「お嬢様。旦那様が大広間にお呼びでございます」

声が、いつもより半音だけ低い。

私はすでに着替えを終えていた。昨夜、暖炉の前で書簡を燃やしたあと、寝台に横たわることをやめ、深い藍色のドレスに袖を通していた。装飾は最小限——胸元の白い襟と、祖母から譲られた銀細工の扇、それだけだった。鏡の前で前髪を整えるマリーの指は、まだ微かに震えていた。

「お嬢様」マリーは私の背に回り、留め金を一つずつ丁寧に閉じながら囁いた。「今朝は、いつもより髪の艶が増していらっしゃいます」

「灰の匂いが残っていなくて?」

「炭の薫りが、ほんの少しだけ。けれど、香水のように上品にお似合いですわ」

私は鏡越しに彼女と目を合わせ、口角だけを上げた。マリーは肩をすくめて、扇を私の手に渡した。

廊下を歩く。

窓の外では、東の空が薄墨を溶いたように白み始めていた。庭園のヒソップの茂みが、まだ夜の青を残して揺れている。広間に近づくにつれ、絨毯の足音が吸い込まれて、自分の心音だけが鼓膜の内側で鳴り続けた。三百を超える視線に晒された昨夜より、今朝の静寂のほうが、よほど冷たかった。

大広間の扉の前で、ギルベルトが立ち止まった。

「お嬢様」白髪の老執事は、靴先に視線を落としたまま、震える唇でひと言だけ告げた。「どうか、お聞き届けくださいませぬよう」

その意味を問い返す前に、扉は内側から開かれた。

父——ファルクリッド公爵ハロルドは、上座の長椅子に座っていた。

膝に広げているのは、王家の紋章で封じられた羊皮紙だった。朱の封蝋が割られ、紐がだらりと床に垂れている。父の隣には、十六になったばかりの妹オリヴィアが、桃色の朝着のまま立っていた。睫毛を伏せているけれど、頬の血色はやけに明るい。私と目を合わせようとはしなかった。

「エレノア」

父の声は、私を呼ぶのではなく、判決を読み上げる役人のそれだった。

大広間の高い天井から、朝の薄明かりが斜めに差し込み、父の銀色の髭の先で微かに揺れていた。暖炉の火は半分落ちて、灰がぱちりと小さく爆ぜる。私は、その音の数を数えるように呼吸を整えた。床の大理石は、靴底ごしに、地下水のような冷たさを伝えてきた。

「王家より、書状が届いた。読み上げる」

私は扇を腰の前で組み、深く一礼した。三歩前に進み、絨毯の縁——昨夜まで私が立つことを許されていた線——の手前で、足を止める。

「——『公爵家令嬢エレノア・ファルクリッドの王太子妃候補としての資格を、この日をもって取り下げる。並びに、王家の意向として、当令嬢が王都および隣接三州にこれ以上滞在することは望ましからず。よって、月の十五日までに、王領北端ヴェルニア国境の屋敷へと身柄を移すこととする』」

父は、最後の一文を読むあいだ、一度も私の顔を見なかった。

「……婚約の破棄ではなく、追放、ということでしょうか。お父様」

「言葉を選ぶな」父は羊皮紙を畳んだ。「王家のご意向だ。この家が逆らえる類の話ではない」

「ファルクリッド家として、王家に弁明をなさるおつもりは」

「ない」

短く、刃物のような答えだった。

私の喉の奥で、何かが小さく軋んだ。十八年間この家のために学んできた帳簿術も、隣国の言語も、領地経営の細かな計算も——それらが、たった三文字の「ない」によって、用済みの紙束へと変えられたのだと知る。けれど、不思議と涙は浮かばなかった。涙のかわりに、頬の内側で舌先が冷たく乾いていくのを、私はただ感じていた。父は、弁明を「しない」のではなく、「する価値がない」と判じている。その判断の早さこそが、十八年分の答えだった。

私は、絨毯の縁を見つめたまま、扇の銀細工を指でなぞった。鹿の細脚。昨夜、爪を立てた箇所が、僅かに体温を持っていた。

父の視線が、はじめて私の額のあたりを掠めた。

「セシリア・ブランジェ嬢の母君は、王妃陛下の従姉妹にあたる。今後、ブランジェ家との繋がりを我が家がどう保つか——それが当家の存続を左右する。お前の身柄をヴェルニア国境に置くことは、王家への恭順の証となる。理解できるな」

「承知いたしました」

「オリヴィアには、追って王太子殿下との縁談の打診がある。お前の妹だ。お前と顔立ちも近い。王家としては、ファルクリッドの血を完全に切るわけにはゆかぬのだ」

私は、ようやく顔を上げた。

妹のオリヴィアが、桃色の襟元を指で弄んでいた。その指輪——昨夜セシリア嬢の頤に光っていたのと、同じ細工の薔薇模様だった。私はそれを、責めるでも嘆くでもなく、ただ、ひとつの事実として瞳に収めた。妹は十二の頃から、自分が姉のドレスを着てみたがる癖があった。

「お父様」私は静かに言った。「では、私の領地経営の帳簿は、どなたに引き継がれますの」

「家令に整理させる」

「北の麦畑の小作人、エイダの三男坊が秋に徒弟に出ます。手紙の宛先だけ、辺境に転送いただけますよう。それと、南の港の関税改定の件は、年明けまでに私の覚書を写本してございますので、書斎の二段目から——」

「エレノア」

父が、はじめて、声を荒らげた。

私は、淡く微笑んだ。

「承知いたしました、お父様。出立は明朝、夜が明ける前に。ご迷惑はおかけいたしません」

頭を下げ、踵を返す。妹のオリヴィアの頬が、視界の端で、ほんの少しだけ強張ったのが見えた。

私室に戻ると、マリーがすでに荷造りを始めていた。

「お嬢様」彼女は両膝を絨毯について、革のトランクの前で振り向いた。「昨夜のうちに、必要なものだけ纏めておきました。ドレスは三着、外套は冬用と春用を一着ずつ、書物は薬草学と帳簿術と——」

「銀の燭台と、銀の食器は置いていきます。家のものですから」

「ですが、お嬢様の分はお嬢様のもので——」

「マリー」

私は屈み込んで、彼女の頬に両手を添えた。マリーの目尻が、また濡れかけていた。

「あなたは、本当に私についてきてくれるのね」

「他のどこに、まいりますの」彼女は唇を噛んだ。「私の母は、この家の洗濯女でございました。母を看取ってくださったのは、お嬢様の白い手でございましたわ。あの恩を、ヴェルニアの果てで返さずに、どこで返せと」

私は、しばらく答えられなかった。

代わりに、彼女の額に額をそっと寄せた。マリーの髪から、昨夜の蝋燭の残り香と、朝露の冷たさが、半分ずつ立ち上ってきた。

トランクの底に、私は祖母の扇を入れ、その上にカモミールの押し花が挟まったままの絹布を畳んで重ねた。十年前、薬草学の写本を返してくれと言わなかったあの少年——レオンの指の感触を、絹は、まだ薄く覚えているように思えた。

馬車が中庭に回されたのは、東の空がようやく金色を帯び始めた頃だった。

私は外套の襟元を指で整え、屋敷の正面玄関を出た。父も、母も、見送りには現れなかった。出迎えのときと同じく、ギルベルトひとりが、白髪を朝の風に揺らして立っていた。

「お嬢様」老執事は、しわがれた声で言った。「私は、この家の家令として、お見送りを申し上げる立場にございます。けれど、もし——」

「ええ。もし、来世があったなら、また」

私は彼の手を一度だけ握り、ステップに足をかけた。

馬車が動き出す瞬間、私は窓の外に視線を投げなかった。

——けれど、車輪が二度ほど回ったとき、馬車のガラスに、屋敷の二階の窓影がうっすらと映った。父の書斎の窓と、その隣——妹オリヴィアの私室の窓。両方の窓辺に、人影が立っていた。父の影は微動だにせず、妹の影は、何かを口元に当てていた。笑っていたのか、泣いていたのか、距離が遠すぎて、私には分からなかった。

ガラスの映り込みが、街路樹の影に呑まれて消える。

馬車は王都の北門を抜け、街道を進み始めた。並木の若葉が頭上を流れ、車輪の下で砂利が歌うように鳴った。マリーは向かいの座席で、私の膝掛けの端を握りしめたまま、頬に薄く朝陽を受けていた。

「お嬢様」彼女が、ようやく口を開いた。「ヴェルニア国境までは、どれほどかかりますの」

「順調にゆけば、四日。森を抜ける道があるそうよ」

「森……」

「大丈夫。私たちには、護衛が二騎ついています」

そう答えた瞬間、私は扇の銀細工を、指の腹でそっと撫でた。鹿の細脚。乾いたカモミールの押し花。十年前の夏の、埃の匂い。

——私は、振り返らない。

街道の先には、まだ見ぬ森と、その奥のヴェルニア国境が横たわっている。馬の鼻息が朝の冷気に白く立ち、車輪の音が一定のリズムで石を踏み砕いていく。並木の葉擦れの彼方で、何か、別の蹄の音が、ふいに混じった気がした。

——気のせい、と、私は扇を握り直した。

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