第3話
第3話
街道に出て三日目の昼下がり、馬車は深い森の縁へと差しかかっていた。
頭上を覆う枝葉のあいだから、午後の陽が斑に零れ落ちている。葉擦れと車輪の軋みのほかには、馬の鼻息と、御者のクラウスがときおり口に出す道筋の確認だけが、耳に届く音の全てだった。
「お嬢様」向かいに座ったマリーが、膝掛けの端を指先でなぞった。「もう半日もすれば、森を抜けられるのでしょうか」
「順調にゆけば、夕刻にはヴェルニアの国境街が見えるはずよ」
私は革紐で吊るした小さな水筒の蓋を捻り、ぬるくなった蜂蜜水を一口含んだ。舌の上で、蜜の甘さがわずかに発酵の酸を帯びている。王都を発って三日、馬車の中で口にできる物は、しんなりとした干し葡萄と、堅くなりかけたチーズと、前夜の宿場で買い足した黒パンだけだった。それでも私は、空腹を口にしなかった。マリーのほうが、もっと、こらえていることを、私は知っていたからだ。
護衛は、二騎。
ファルクリッド家から付けられた、古参の剣士レナルドと、まだ二十歳になったばかりのトルクェ。公爵令嬢の旅路に、これほど少ない手勢が許される道理はない。けれど今の私は「公爵令嬢」ではなく、王家のご意向で辺境に送り出される、名目だけの女主人に過ぎなかった。
馬車の小窓から、私はそっと外を覗いた。森の道は、馬車二台がすれ違うには狭く、片側が緩い斜面に落ち込んでいる。樺の若木の葉が、白く裏返って揺れていた。昨夜、宿場の女将がそっと耳打ちしてくれた言葉が、ふと頭の中で蘇る。——「お嬢様、近頃、この森の奥に流れ者が居着いてございます。どうかお気をつけて」
女将の皺深い指先が、私の手の甲に触れた感触まで、いま鮮やかに指先の皮膚の下から蘇ってくる。あれは単なる親切ではなく、何かを知っている者の目配せだった。
私は扇を手の中で握り直し、銀細工の鹿の細脚へ、爪先を当てた。
——その時、前方で、レナルドの馬が、ぶるりと首を震わせた。
「止まれ!」
御者台のクラウスが、革帯を引き絞った。馬車が斜めに揺れて、私はマリーの肩を支えた。マリーの息が、私の頤の下で、薄く凍りついた。
「お嬢様、伏せなされ!」
レナルドの叫びと同時に、左手の斜面の藪から、ばさりと黒い影が四つ、飛び出した。
革鎧と、煤けた布で顔の下半分を覆った男たち。手にしているのは、鞘の塗装が剥げ落ちた長剣と、柄が黒ずんだ手斧だった。先頭の男の頬には、古い火傷の痕が、瞼から顎まで一筋に走っていた。汗と、何日も洗っていない革の匂いが、風に乗って馬車の内側までねっとりと届いた。
「銀の家紋。やはり、当たりだぜ」
しゃがれた声が、湿った苔のように耳に絡んだ。
「公爵令嬢様のお下りだ。荷を全て置いていけ。命までは取らねえ」
男の言葉尻には、獲物を見定めた者特有の、粘ついた笑いが混じっていた。私はそれを聞き分けた——「命までは取らない」と言う者ほど、あとで何をするか分からない。
私は、扇を膝の上で閉じた。
レナルドが、無言で剣を抜いた。馬上から斜めに切り込み、最初の一人の手斧を弾き飛ばす。鋼と鋼がぶつかる乾いた音が、森の梢まで跳ね返り、鳥たちがいっせいに飛び立つ翼音を残した。けれど火傷の頭領は、その隙に二人目へ目配せをし、馬車の側面へと回り込んだ。トルクェが叫び声をあげて応戦したが、若い剣士の太刀筋は、明らかに、二度三度と数を重ねるごとに乱れていった。額から流れる汗が、兜の庇の下で光っていた。
「マリー」
私は、彼女の手をきつく握った。その掌は、雪解け水に浸したように冷えていた。
「扉の留め金を、内側から外しなさい。指が震えても、二度に分けて回せば、必ず外れる」
「お、お嬢様」
「私の合図で、右の斜面に飛び降ります。下りた先には榛の茂みがある。腰を低く、息を殺して」
茂みのことは、半刻ほど前に窓越しに記憶した地形を、私は頭の中で正確に呼び戻した。領地巡回のたびに、馬車の窓から土地の起伏を覚える癖があった。十八年、ファルクリッドの娘として身につけた習慣は、無駄なものなど一つもない。
馬車の屋根が、ばきりと裂ける音がした。手斧の刃が屋根板の繊維を割って差し込まれ、細かい木屑が私の睫毛の上に降りかかった。外から覗き込む男の片目と、私の視線が、一瞬だけ交差した。男の瞳が、欲のかたちに鈍く光る。息のにおいは、酒と、古い血の鉄錆だった。
——私は、扇を逆手に持ち替えた。
銀細工の鹿の脚——その鋭い先端を、私は男の覗いた瞳に向けて、迷いなく突き上げた。
短い悲鳴と、鉄錆びた血の匂いが、屋根の裂け目から落ちてきた。生温かい滴が私の手首にも一筋、線を引いて走った。男はのけぞって屋根から滑り落ち、馬車が大きく揺れた。私は素早くマリーを抱き寄せ、外れた扉の隙間から、彼女を斜面の茂みへと押し出した。
「お嬢様、ご一緒に——!」
「先に行って。私は、レナルドを置いては行けません」
茂みに転がり込んだマリーの白い手が、葉のあいだから、最後まで私の指を求めて揺れていた。その指先の震えを、私は一生、忘れないだろうと思った。
私は扉の縁に手をかけ、もう一度、馬車の外に視線を戻した。
レナルドは、片膝をついていた。剣はまだ握っているけれど、左肩から血が滲み、革鎧の継ぎ目を黒く染めている。荒い息が、白い霧のように唇から漏れていた。トルクェは、すでに馬から落ち、地面に倒れ伏していた。意識があるのか、無いのか、若い剣士の頬には、土がべったりと張り付いていた。彼が昨夜、宿場で照れながら語っていた——故郷の妹の名を、私は不意に思い出した。
火傷の頭領が、ゆっくりと、私の方へ歩み寄ってきた。
「気の強えお嬢さんだ」男は抜き身の長剣を肩に担ぎ直した。「銀細工の扇で、ヤニーの目を潰しやがった。生きて辺境まで届ける約束だったが、少しばかり、躾が必要らしい」
「届ける約束」——その一言が、私の胸の奥で、小さな鐘のように鳴った。この襲撃は、偶然の追い剥ぎではない。誰かが、私を「生きたまま」辺境まで運ぶよう、この男たちに金を渡している。
私は、扇を握り直した。鹿の脚の銀には、男の血と、十年来の私の手の脂が、薄く混じり合って光っていた。
恐怖は、なかった。
代わりに、頭の奥で、不思議なほど冴えた声が響いた。——お前は、ファルクリッドの娘だ。十八年間、剣を抜く代わりに帳簿を抜き、戦の代わりに領地経営を覚えた娘だ。今、この瞬間、お前に出来ることを、一つずつ数えなさい。
私が扇を構え直した、その時——
森の北、街道の奥から、低く重い、別種の蹄の音が、地を打って近づいてきた。
遠雷のようでいて、遠雷よりも規則正しい。土を蹴り上げる拍子には、一頭の獣ではなく、幾つもの心臓が同じ速度で打っているような、揃った意思があった。
数は、十、いや、それ以上。よく訓練された軍馬の、揃った歩調だった。火傷の頭領が、はっと顔を上げた。頭領の喉仏が、乾いた音を立てて上下するのを、私は見逃さなかった。
枝葉を割って、銀色の鎧を纏った騎馬の一団が、街道の彼方から疾駆してきた。先頭の旗には、見慣れぬ紋章——青地に、剣を咥えた銀の鷹。
——隣国、ヴェルニア王家の紋章。
「下がれ!」
凛とした、若い男の声が、森の中に響いた。
号令に従って、騎馬の半数が私の馬車の周囲を取り囲み、残りが山賊たちへと矢を番える。弦を引き絞る乾いた軋みが、ほとんど同時に十数本、森の湿った空気を貫いた。火傷の頭領は、舌打ちを残して斜面の藪へと身を翻し、配下の二人もそれに続いた。鏃の影が三本、彼らの背を追って空を裂いたが、深い藪が結末を覆い隠した。
私は、扇を胸元に下ろした。
馬車のすぐ脇まで、先頭の馬が静かに歩み寄ってきた。蹄鉄が柔らかな土を踏み、軍馬の温かい鼻息が、私の頬の横を掠めた。
鞍上の青年が、片手で兜の留め金を外し、ゆっくりと、それを脱いだ。
風が吹いた。
森の梢を抜けてきた緑の匂いを纏って、青年の——銀色の髪が、午後の陽の斑のなかへと零れ落ちた。瞳の色は、薄い湖のような青緑。幼い日、書庫の窓から射し込む光の下で、同じ色に輝いていた瞳。
私は、息を、忘れた。
「エレノア様」
青年の声は、私の名を、十年ぶりに、けれど一度も忘れなかったかのように、静かに呼んだ。
「ご無事で、何よりでございます」
レナルドの呻きも、マリーが茂みから這い出てくる衣擦れの音も、自分の心音さえ、私の耳からは遠ざかっていた。扇を握る指の腹に、十年前の埃の匂いと、薬草学の写本のページをめくる、薪割り豆だらけの少年の指の感触が——いま、ふいに、戻ってきた。
——あの子が。銀の鎧を纏って、ここに、立っている。
私は、まだ、その名を呼ぶことが、出来ずにいた。