第2話
第2話
セリーナが差し出した細剣の柄に触れた瞬間、古い革の匂いが鼻腔を刺した。父の書斎で長年埃を被っていた護身用の一振り——屋敷を出る前夜、私が密かに旅装の底に忍ばせていた代物である。重みは思ったよりも軽く、鞘の金具が指の震えに合わせて、かちり、と一度だけ鳴った。
「お嬢様、本当に」 「本当によ、セリーナ」
私は馬車の扉を押し開け、踏み段を一段だけ下りて、止まった。
山風が一気に吹き込んで、喪服の襟元で母の護符が跳ねる。鎖骨に冷たい円を一つ刻まれて、肋骨の奥の木箱の蓋が、ことり、と揺れる気配がした。赤の山脈の麓は王都より五度は低い。足元の石畳は削れて、所々に苔の跡すらなく、ただ乾いた砂埃だけが秋の陽に晒されて白く光っていた。
街道脇に座り込んだ三人の子供が、こちらを見ていた。一番年長の少年——十歳ほどだろうか——が、年下の妹らしき少女を庇って後ずさり、小さな背中に隠す。少女の腕は、麦打ち棒に折られた藁のように細い。三人目、一番幼い男の子は、泥だらけの裾を指でつまんだまま、口を半ば開いていた。靴を履いていなかった。甲の皮膚が、霜に焼けて赤紫に腫れている。
——これが、私の領地。
野盗の黒煙は、村の外れから今も細く立ち上っていた。風で傾いて、また真っ直ぐに戻る。蹄鉄で踏まれた泥道に、血の色はまだ乾いていない。
私は剣の柄を握り直し、馬車から地面に降り立った。
「セリーナ。この子たちに、乾パンを」
セリーナは馬車の荷台から銀紙の包みを取り出した。五日分の旅の糧として用意してあったもののうち、残り三日分。公爵家の厨房が焼いた、柔らかい白パンである。王都の夜会で、こんなパンを一切れ残したことを、私は生涯忘れないだろうと思った。
私がしゃがんで包みを差し出しても、子供たちは身を固くしたまま動かなかった。最年長の少年が、唇を震わせて、ようやく言葉を絞り出した。
「——税、ですか」 「税?」 「徴税官様が……お着きになった、のかと」 「いいえ」
私は首を横に振った。剣を背中に回し、掌だけを子供の前に開いてみせる。掌紋に、王都で扇を握り潰したときの赤い痕が、まだ薄く残っていた。私はその痕を、子供の目から隠すようにして、指を一本ずつゆっくりと開いた。
「今日から、此処の領主です。徴税は、しばらく止める」
少年の目が、大きく見開かれた。その瞳の奥で、何かが音もなく崩れていく気配がする——十歳の子供の目の奥に、諦念が地層のように積もっている様は、一度見たら忘れられるものではない。彼は何度、期待して、裏切られてきたのだろうか。積もった地層は、嘘で固められたあとに何度も踏みつけられて、黒く硬く、砥石のように冷たい艶を放っていた。
妹が兄の袖を引っ張った。兄は躊躇った後、震える手で乾パンを一切れ取って、妹に先に持たせた。妹の小さな歯がパンの端を齧った瞬間、その目から涙が一粒、ぽたりと落ちて、頬の泥を薄く流した。齧った跡から、バターの香りが微かに立ち上った——王都の厨房では当たり前のその匂いが、ここでは、まるで禁忌の香水のように空気に広がって、弟の鼻孔がひくり、と動いた。
「……兄ちゃん、あまい」
喉の奥が熱くなった。私は扇を握り直した——王宮で握り潰した痕が、象牙の骨に今もくっきりと残っている。泣くな、と指の節に命じる。泣けば、この子たちが困惑する。涙は後だ。涙にも、仕舞い込む順序というものがある。
「セリーナ、残りの乾パンも全て。旅のワインも一本、水で三倍に割って配りなさい」 「お嬢様、明日からの我々の——」 「明日のことは、明日考える。——私の胃袋より、この子たちの胃袋のほうが、薄い」
村への街道の先から、一人の老人がよろよろと歩いてくるのが見えた。痩せ細った肩に、空の麻袋を担いでいる。一度、二度、膝が砕けてよろめき、三度目に石畳に手をついた。私は御者に合図して、馬車を横につけさせた。
「そこのお方」 「……へ、へえ」 「此度、此処に参りました、アデレイド・ヴァルフォードと申します」
老人は、私の顔を見上げて、しばらく瞬きを忘れたように立ち尽くした。日に焼けた皮膚が皺の奥でひび割れ、片目が白く濁っている。その濁った眼球の奥で、ゆっくりと、ひとつの光が灯された。
「……公爵家の、お嬢様が」 「ええ」 「——まことに、此処へ」 「まことに、此処へ」
老人は、空の麻袋を地面に落とした。膝が折れた。そのまま土に手をついて、頭を垂れる。額が土に触れる寸前、私は歩み寄り、皺だらけの肩を両手で支えた。肩甲骨が、指に直接触れた。薄い麻布の下に、骨と、僅かな皮しか残っていない。肩の骨は、枯れ枝を二本、ぞんざいに布で包んだような頼りなさで、支える私の指のほうが、逆にその軽さに戸惑った。
「頭は、上げてくださいませ。聞きたいことがあります」
老人の名はヤコブと言った。村の長老格で、三代続く麦農家の末裔だという。十年前まで麦畑は黄金色に実ったが、今は灰色の草も生えないと、ヤコブは皺だらけの指で遠くの丘を指した。その指の腹は、長年の鋤の柄で磨り減り、爪が貝殻のように歪んでいた。
「前の代官様が、税を上げ続けましたでな。一昨年、三割。昨年、さらに二割。今年、五割——種麦まで供出させられて、春に撒く種すらございませんでした」
五割。私は数字を胸の中で、一度、二度、繰り返した。王国法の租税上限は二割である。前代官は、法の倍以上を徴収していた計算になる。喉の奥に、鉄の味が微かに滲んだ——怒りが、歯茎の血管を一瞬だけ、痛くしたのだろう。
「徴収された税は、どこへ送られているのですか」 「さあ、私どもには……王都のお城へ、と伺っておりますが」
私はセリーナと目を合わせた。老侍女は、微かに、首を横に振る。公爵家の家令を五十年勤め、王国中央の財政を誰より知っている彼女の目が、一言だけ告げていた——王都の国庫に、辺境からそれほどの税が上がってきた形跡はない、と。
横領。
私の指が、再び剣の柄を握った。革の縫い目が掌の皺に食い込み、血が通う。が、その怒りは、胸の奥の木箱の——王都に残した復讐の鍵とは、別の鍵穴に仕舞い込んだ。復讐は錆びる。領地の経営は、錆びさせてはならない。この順序を間違えれば、この子たちは春を待たずに飢え死ぬ。
「ヤコブ。村に、生きている井戸はありますか」 「……三つございましたが、二つは涸れました。残り一つも、水が出ますのは朝晩、合わせて桶二杯ほど」
桶二杯。成人二十人分の飲み水にも足りない。
私は立ち上がり、街道の先、煙の立ち上る村落を見据えた。納屋が焼かれたのだろう、炎の筋が三本、夕風に煽られて上下に揺れている。
「セリーナ。護衛を二人、野盗の後を追わせて。深追いはさせない。奴らが何処から来て何処へ帰るか、道筋を確かめるだけでいい」 「はい、お嬢様」 「そして貴方は——残りの糧を、村の井戸端に運んで。まず、この子たちの腹を満たす。前代官への追及も、王都への問い合わせも、その後よ」
私は振り返って、三人の子供に微笑んでみせた。妹の頬に、涙の筋がまだ乾き切らずに残っている。
「名前を、教えてくださるかしら」 「……ミカ、です。妹はリィナ、弟はトート」 「ミカ。今夜、皆を村の広間に集めてほしいの。新しい領主からの、最初の挨拶を」
ミカは、硬い頷きを、一度だけ返した。その頷きの振幅が、先刻、乾パンを齧った時の振幅より、ほんの僅かに大きかった。
馬車が村道を再び進み始めた時、夕陽はもう赤の山脈の稜線に触れていた。山肌の赤銅色が、鉄錆のような鈍さで空を染めていく。車輪が石畳の継ぎ目を踏むたび、軋む音が私の骨を細かく叩き、膝の皿の裏側で、旅の疲労が鈍く疼いた。窓の外、道端に転がる農具の柄は折れ、荷車の車輪は芯を失って枯草に埋もれていた。畑であったはずの場所に、畔道だけが亡霊のように残っている。
屋敷は領内の最奥、崖の肩に建つ古い石造りだった。窓の半分は板で塞がれ、正面の門扉の蝶番には錆が幾層にも重なっている。前代官の残党が、既に逃げ出した後なのは一目で知れた。
しかし——門の手前、ひび割れた石畳の前庭に、一人の老人が深々と腰を折って待っていた。白髪を後ろで束ね、擦り切れた執事服の襟元には、小さな銀の徽章が光っている。見覚えのない顔。見覚えのない徽章——徽章の意匠は、私が令嬢教育で叩き込まれたどの貴族家の紋とも、一致しなかった。三日月と、蔦と、その間に抱かれた小さな鍵穴——鍵穴の周囲には、微細な星の粒が散らされている。私は令嬢教育で学んだ全ての紋章帳を、頭の中で素早く繰った。一致する家は、どれもなかった。
「ヴァルフォード公爵令嬢、アデレイド様。お待ちしておりました」
低く、しわがれた声。その奥に、不思議と澄んだ響きがあった。
「貴方は」 「屋敷執事、エーリッヒと申します。——御母堂様より、お嬢様が此処へお越しになる日のために、御遺言を預かっております」
母の、遺言。
馬車の中で、私の指は、扇の骨を、もう一度、強く押していた。