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沈黙の悪役令嬢、辺境にて影の女王となる

第3話 第3話

第3話

第3話

母の遺言——その四文字が、鎖骨で護符を跳ねさせた。

私は馬車を降りて、ひび割れた石畳の上を三歩、エーリッヒに歩み寄った。細剣の柄を握る掌が、革の縫い目に微かに汗をにじませる。老執事の白髪の後頭部が、夕陽の残照でうっすら銅色に染まっていた。

「御母堂様は、王都の病床で最後に仰せでございました」

エーリッヒは、頭を上げずに続けた。声は枯れ井戸の底から汲み上げられたように低く、語尾だけが微かに震えていた。

「——もしアデレイドが、何らかの理由でヴァルトシュタインの地を踏むことがあれば、お前は帳簿を開いて、数字の裏を読む女に育っているはずだ、と」

私は喉で、ひとつ、息を呑んだ。数字の裏を読む女。令嬢教育で私が最も得手としたのは、舞踏でも花卉でもなく、帳簿算勘だった。家計簿を一行読めば、下女が昨夜厨房で何を盗ったか、七歳の私は当てることができた。それを誇らしげに母に告げた日の、母の困ったような微笑み——あの表情の奥に、こうした段取りが既に仕込まれていたのか。寝台の白い手巾の下で、母はいったい、いくつの未来図を畳んで仕舞っていたのだろう。

「エーリッヒ」

私は、老執事の肩を支えて立たせた。擦り切れた執事服の下の肩は、ヤコブ老人のそれよりは厚かった。銀の徽章が、指先に触れて冷たい。三日月と蔦と、鍵穴と、星の粒——母の祖国を知る印なのか、それとも、もっと別の何かか。指先の腹で蔦の紋様をなぞると、細工の溝に、長い年月で固まった蝋の粕が、わずかに残っていた。

「前代官の帳簿は、残っているのですね」

「焼き捨てる暇を、奴らには与えませんでした」

しわがれた声の奥に、鋼の響きが一筋、通った。

「地下の文書庫に、隠して保管してございます。鍵は、私が一本。——もう一本は、御母堂様がお嬢様に残された銀の鎖の、護符の内側にございます」

私の指が、反射のように襟元に伸びた。母の形見の銀の鎖。その先端の護符——小さな楕円の銀細工。子供の頃から、何度も指で弄んだ。継ぎ目などなかった、はずだった。ないはずの継ぎ目を、母は十年前から私の胸元に隠して、今日この時まで連れ歩かせてきたのだ。鎖が肌に触れる度に、その小さな鍵は、私の鼓動の数だけ揺れていたことになる。

屋敷の書斎は、西向きの窓から枯れ庭の残光が差し込んでいた。

石造りの床には前代官の履き古した靴跡が二筋、絨毯の毛足を踏み均して残っている。エーリッヒが蝋燭を三本灯した。書棚の革装帳簿は表紙の金文字が掠れ、頁を開くと、古紙と鼠の糞の匂いが入り混じって鼻を刺した。窓枠の隙間から忍び込む隙間風が、蝋燭の炎を一斉に同じ角度へ傾け、棚の影が獣の背のように壁を撫でていった。

「セリーナ。銀の鎖を」

老侍女が震える指で、私の襟から鎖を外した。護符を手のひらで転がすと、夕陽に透けて、内側に細い切れ目が一条、光った。爪の先で慎重に押すと、ことり、と蓋が開く。中に、指の腹ほどの小さな真鍮の鍵が一本、薄紙に包まれて横たわっていた。薄紙には、母の几帳面な筆跡で「Ad.」とだけ、青褪めたインクで記されている。私の幼名の頭文字。インクは陽に灼けて、ほとんど鎖の銀に溶けかかっていた。

母の温度が、十年越しに掌に戻ってきた気がした。——泣かない。鍵は涙で錆びる。

エーリッヒの案内で地下文書庫に降り、隠し棚の扉を開ける。黴の匂いの奥から、革装の帳簿が七冊、肩を並べて現れた。私はその場で、七冊を書斎へ運ばせた。

「セリーナ、蝋燭をもう二本。——夜は、長くなるわ」

羊皮紙の頁を開いた瞬間、私は息を止めた。

表向きの徴税記録、次頁に朱筆の但し書き、そして最奥の頁に、別人の筆跡による二重帳簿。前代官ベルガーは、村から五割を巻き上げた上で、王都へは二割分のみを送金し、残り三割を「街道整備費」「魔物討伐備金」「凶作準備金」の三名目に分けて、別口座に積み上げていた。別口座の宛先は——王都、宰相フォンターネ家、出納係・リヒテル。

「……宰相」

指の節が、紙面に食い込んだ。三日前、広間で私を一瞥したあの愉悦の眼。その男の金庫に、この領地の子供たちの種麦が、十年分、積み上がっていたのだ。喉の奥に、鉄の味が薄く滲んだ。怒りは、奥歯で噛み殺すと血の味になる——母が、よくそう言っていた。

「お嬢様、お顔の色が」

「大丈夫、セリーナ。——怒りは、仕舞いどころを選ぶ」

私は頁を繰り続けた。一冊、二冊、三冊。数字が、私の指先に全て吸い込まれていく感覚があった。蝋燭の芯がじりりと焦げる音、頁を捲るたびに立ち上る古紙の埃、遠くで鼠が壁の裏を駆ける微かな足音——それらすべてが、数字の列の余白に、別の意味を書き加えていく。帳簿の余白に、前代官が走り書いた独り言が数箇所ある——「ヤコブ老めの畑、来春までに差し押さえ」「リィナなる童女、身売り交渉、銀貨三枚」

私は、その頁を、ゆっくりと閉じた。閉じた拍子に、紙の縁が指の腹を浅く切った。血の珠がひとつ、革装の表紙に落ちて、すぐに吸い込まれて消えた。

「エーリッヒ。——屋敷に残った使用人は、何名ですか」

「十六名でございます。そのうち、前代官が王都より連れて参った者が九名、先代領主様の代より奉公しております古参が七名にございます」

「九名は、明朝、暇を出します。退去手形は私が書きます。——古参の七名には、今宵のうちに集まってもらえますか。私が自ら、名と役目を確かめたい」

「承知仕りました」

七名。心許ない数字ではある。けれど、九名の腐った歯を抜かずに、新しい歯は生えない。母の墓前で私が学んだ唯一の政道は、人数ではなく、忠節の純度だった。

夜半を過ぎて、厨房の床に蝋燭が七つ並んだ。集まった七名——六十を越えた厩番、片腕を落とした元兵士、寡婦の洗濯女、十六の下男、双子の料理女、そして老会計士ベッケル。皆、先代ヴァルトシュタイン家に仕え、前代官の赴任後は端役に追いやられていた古参である。誰もが粗布の上着の襟を整え、それでも袖口の擦り切れまでは隠せず、蝋燭の炎が彼らの皺と痣を一つずつ拾い上げていた。

私は帳簿の一冊を、床に置いた。

「今夜から、徴税を凍結します。——向こう半年、村からは一銭も取らない」

厩番が、息を呑んだ。片腕の元兵士が、床に膝をついた。双子の料理女のうち姉のほうが、口元を両手で覆い、肩を一度だけ大きく波打たせた。

「代わりに、この屋敷の銀器、燭台、織物のうち、換金できるものを明朝一覧化します。ベッケル、貴方の算術を借りたい」

「……このベッケル、七十二にございますが、数字はまだ、目に沁みます」

老会計士の瞳に、蝋燭の炎が映って揺れた。前代官の九年間、彼は一度も帳簿を触らせてもらえなかったのだ、と、その目の濡れ方が語っていた。節くれ立った指が、膝の上で、見えない算盤の珠を二度、三度、弾く真似をした。

「それと——明日の朝、私は自ら、村外れの涸れ井戸を見に参ります。水脈が本当に死んでいるのか、生きているのか、自分の目で確かめたい」

洗濯女が、躊躇いがちに口を開いた。

「お嬢様。あの井戸の辺りは……野盗の逃げ道に近うございます。昼でも、馬の蹄の音がいたします」

「承知の上です」

私は、剣を腰に差し直した。革帯の留め金が、夜気の中で硬く鳴った。

「領主が、自分の領地の水の在処も知らぬまま、どうして半年、民を食わせられますか」

翌朝、霧の深い刻限に、私は小さな二頭立ての馬車で屋敷を出た。

護衛はエーリッヒの推挙で片腕の元兵士クラウス、御者は厩番の孫の下男ヨーナス。車輪が枯れ藪を踏み分け、涸れ井戸への小径を下り始めた頃、白い霧の向こうから、二度、三度、鈍い音が聞こえた。

——蹄鉄が、凍った土を蹴る音。

一頭ではない。少なくとも、四頭。

私は膝の上で、扇を開いた。王都で握り潰した痕のある象牙の骨が、朝の冷気で指先に冷たく沁みる。扇の縁を、ゆっくりと、一度だけ、頬に当てた。冷たさが、頬の内側で熱を立て直す合図になる。母から教わった、最初で最後の作法だった。

「クラウス」

「はっ」

「馬車を、止めないで。井戸まで、あと幾らですか」

「四半里にございます」

霧の中で、蹄の音は、徐々に、私たちの馬車の速度に合わせて、近づいてきていた。

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