第3話
第3話
老神官の杖の音が、廊下の石畳を、一つ、また一つと、律儀に刻んで近づいてきた。
乾いた木の先端が、磨き抜かれた大理石を叩くたび、ごく微かな反響が高い天井に昇り、ステンドグラスの色硝子をひとつずつ震わせていくようにも思えた。遠くで、祝宴のために奏でられていた弦楽の音は、すでに止んでいる。耳に残るのはその杖の音と、庭先の樅の木を渡る四月の風と、自分自身の心臓が胸の奥で打つ、ただ三種類の拍子だけだった。
私は窓辺に立ったまま、指先を銀の花瓶の縁からそっと離した。白い献花は、萎れかけた茎を器の肩に傾げ、花弁の先を茶色く縮ませている。南国から取り寄せられたという百合──祝宴のための花である。その宴がもう自分のためのものではないことを、花はいまだ知らずにいた。
窓硝子の向こうでは、王宮の中庭に植えられた白樺の若葉が、夕日に炙られて赤銅色に透けている。ほんの一刻前まで、私はその光を、生涯の伴侶となる方の隣で眺めるはずであった。今はただ、その眺めを、ひとり背中で受け止めている。
「アリシア様、でございましょうか」
背後から、低く、かすれた声が私を呼んだ。
振り返ると、白髪の神官が、杖を両手に添えて深く一礼しているところだった。王宮付きの神官長、セレスタン猊下。私が五つの頃、母の葬儀で祭文を読んでくださった方である。皺深い瞼の奥で、昔と変わらぬ紺碧の瞳が、今日はなぜか、さざなみのように揺れていた。
その瞳の色は、幼い日、祭壇の前で私の頭に手を置いてくださった時と、一分も違わぬ深さをしていた。けれど、その瞳の底には、今、言葉にならぬ何かが沈んでいる。畏れにも似て、歓びにも似て、そのどちらでもない色だった。
「猊下。ご無沙汰をいたしております」
「……大広間での御振舞、控えの間にて、聞き及びました」
老いた声は、廊下の高い天井に吸い取られて、かえって私の耳許に近く残った。
「ご立派にございました。御母堂さまも、天上にて、さぞお喜びのことでございましょう」
私は深く頭を下げた。返す言葉が、なぜか喉の奥で留まる。大広間では微塵も崩れなかった私の声が、たった一言の「ご立派」で、ふいに詰まった。──そういう類の労わりを、私は、もうずいぶん長い間、受けてこなかった。
咽喉の奥で、粒の小さな痛みが、ひとつ、またひとつと跳ねた。泣くまい、と己に言い聞かせるよりも先に、瞼の裏側がじわりと熱を持つ。婚約を解かれた瞬間にも、嘲笑の囁きが耳を這った時にも、揺らがなかった私の内側が、今、年老いた神官の、ただ一言の前で、静かに綻びようとしていた。
胸の奥で、あの温かな灯が、もう一度、小さく揺れる。 指先は、いつのまにか、じんと痺れていた。
「──あの、猊下」
顔を上げかけた時、廊下の奥、大広間の方角から、ざわめきが帯になって流れてくるのを、私は聞いた。先ほどまでの観客じみた囁きの波とは、明らかに音色が違っている。もっと、かたちを持たぬ、戸惑いの音だった。
人々の声というより、空気そのものが震えている、といった方が近い。石造りの廊下を伝って、その震えは、私の踝から膝、膝から腰へと、下から順に登ってくる。
猊下の白い眉が、ぴくりと動いた。
「アリシア様。──今一度、その花瓶に、お手を」
問う前に、指が動いていた。 銀の器の縁に、私は右の掌を、そっと添える。
冷たい、と感じたのは、一拍だけだった。 次の瞬間、掌の付け根から、胸骨の奥まで、たった一筋の熱が、ひと息に通った。熱とも言い切れぬ。むしろ冷たい清水が身の内を縦に貫いていく、そういう逆さまの熱だった。
指の腹の皮膚が薄くなっていくような、奇妙な感覚があった。皮膚の下を巡る血潮が、いつもとは別の道順を辿って、掌の中心へと集まっていく。そこから先は、もう、私の身体ではないところへと続いている気がした。
「──っ」
私の喉から、初めて、小さな声が漏れた。漏れた声を、自分の耳が、どこか遠くで聞いている。
掌のすぐ下、萎れかけていた百合の花弁が、ふるり、と震えた。 茶色く縮れた縁から、内側に向かって、乳白色が戻っていく。花弁の厚みが返り、茎の節が緑を取り戻し、葉先にまで、透きとおるような張りが戻る。一輪だけではなかった。銀の器のなかの七輪が、息を合わせるように、一斉にいのちを吹き返した。
花弁と花弁が、かすかに触れ合う、絹を撫でるような音がした。枯れかけていた茎の繊維が、水を吸い上げ直す、ごく小さな呼吸音が、静まり返った部屋の中に、確かに在った。
活き返った百合の香りが、ふっと立ち上る。 それは祝宴のために調えられた、あの装飾的な甘さではない。もっと清く、もっと深く、朝露を含んだ野の百合のような、本物の香り。
その香りは、私の知らぬ場所の記憶を、胸の奥から呼び起こした。幼い頃、母が私を抱いて歩いた領地の北端、朝霧の下りる白い野原。母の肩口に感じた体温。──忘れていたはずの景色が、花の香りの芯に、折り畳まれて眠っていた。
「猊下──これは」
問いかけた私の声は、自分のものに聞こえなかった。 掌を離すのが、怖い。けれど握り込めば壊してしまいそうで、指先はただ、空中で宙吊りになった。
背後の廊下で、通りすがりの侍女が、盆を落とす音がした。 銀器の跳ねる音が、石畳を三度跳ねて、止まる。
老神官は、もう私を見ていなかった。 その紺碧の瞳は、花瓶の中の、返ってきたいのちに注がれ──ついで、私の胸のあたりに、釘付けになっていた。
胸元。 襟の内側で、母の形見の銀の十字架が、ふいに、熱い。 熱い、と感じた次の瞬間、私は自分の肋骨のすぐ下の布地を通して、薄い金色の光が、じんわりと滲み出しているのを、見た。見た、というより、肌で「在る」と分かった。
光はまるで、胸骨の奥に灯された小さな蝋燭が、絹のドレスを一枚透かして、外の世界に挨拶をしに来たかのようだった。痛みはない。熱さも、もはや痛みではない。ただ、自分の中に、これまで気づかなかった一つの泉が、音もなく湧いて、あふれ始めたのだと、そう感じた。
セレスタン猊下の杖が、手から離れた。 老いた身体が、床にゆっくりと崩れ落ちる──のではなかった。崩れるより先に、その両の膝が、自ら、石畳に折れたのだった。
杖が、乾いた音を立てて、私の足元まで転がってくる。
「猊下……!」
声をあげたのは、私ではなかった。いつの間にか、廊下の向こうから、控えの近衛が幾人か、この間を覗き込んでいる。その一人が、老神官の姿勢を見て、絶句していた。
近衛の一人が、腰の剣の柄に掛けかけた手を、途中で止め、そのまま拳を握り込むのが見えた。どう振舞ってよいのか分からぬ、という戸惑いが、磨き上げられた兜の庇の下で、ありありと読み取れた。
セレスタン猊下は、両手を胸の前で組み、深く、深く、頭を垂れた。
「──お待ち申しておりました」
声は、震えていた。嗚咽を抑えた者の、あの独特の震え方だった。
「数百年、聖典に記され、御神殿にて語り継がれて参りました……本物の、聖痕。アリシア様──いえ。聖女様。この老いた目で、今生にて拝することのできる日が参ろうとは」
聖女様、という三文字が、高い天井を巡って、もう一度、私の耳に戻ってきた。 私は、自分の掌に視線を落とした。薄い金の光は、もう消えかけている。けれど、胸の奥の灯の方は、まだ、静かに、確かに、息をしていた。
その灯は、先刻まで、ただの熾火であった。大広間で投げつけられた言葉、婚約者の冷たい眼差し、そうした氷のような仕打ちの下で、辛うじて暖を保っていた、小さな火種。それが今、風を得た篝のように、真っ直ぐ、天を目指して立ち上がろうとしている。
その時。 廊下の奥、大広間の二枚扉が、押し開けられる音がした。
聞き慣れた靴音が、幾つも、こちらへ駆けてくる。 先頭に立っているのは、薔薇色のフロックコート。金糸の肩章。腰には、儀礼剣。──殿下だった。
「アリシア! 今、ここで、何が──」
言葉が、途中で、切れた。
殿下の青い瞳が、膝をついた老神官の姿と、活き返った献花と、そして、私の胸元で消え残った薄金の残光を、一息に捉えた。 その整ったお顔から、みるみる血の気が引いていく。 私は、初めて、この方が驚愕されるお姿を拝見した。
幼き日から数え切れぬほど、この方の微笑みを、この方の退屈そうな横顔を、この方の作り物めいた怒りを、私は見てきた。けれど、今、この瞳の奥に生まれたものは、そのいずれでもなかった。追いつけぬもの、取り返しのつかぬものを前にした、一人の男の顔。それは、王家の跡継ぎの顔では、もはやなかった。
扇の骨が、私の手のなかで、今日二度目の、小さな軋みを立てた。
私はゆっくりと、もう一度、礼の姿勢を取った。今度は、王子に対する礼ではなかった。──膝をついた老神官へと向けた、こちらからの、一礼だった。
「猊下。どうぞ、お顔をお上げくださいませ」
声は、自分でも驚くほど、凪いでいた。
「わたくしは、なお、フォルブレイズの娘にございます。聖女と呼ばれるに足る振舞いが出来ているかどうか──それは、これより先の日々にて、お示しするよりほかにございますまい」
老神官の肩が、震えた。けれど、顔は、上がらなかった。 背後で、殿下が一歩、踏み出そうとされるのが、衣擦れの音で分かった。その一歩を、私は振り向かずに、閉じた扇一つの気配だけで、制した。
「殿下。先ほどお暇を頂戴いたしましたゆえ、わたくし、そろそろ、失礼を」
濃紺の裾を、軽く払う。 胸骨の奥で、温かな灯は、もう迷わず、静かに、燃え続けていた。
王宮の大理石の廊下を、私は、来たときとは違う歩幅で、踏み出した。