第2話
第2話
王宮の白亜の階段に降り立った瞬間、靴底に伝わった石の冷たさを、私は今も覚えている。
午後二時、晩春の陽は中天をやや過ぎ、円柱の影を一段ずつ薄く伸ばしていた。馬車から下ろされた鉄の踏み段が、踝のあたりに乾いた金属音を立てる。差し出された侍従の手を、私は一拍置いて借りた。指先はまだ、ほんのかすかに熱を帯びていた。
「フォルブレイズ公爵令嬢、アリシア様。御成り」
吹き抜けの玄関に通された途端、いつもなら張り上げるはずの先触れの声が、どこか遠慮がちに低くなった。控えていた近衛の若い兵が、私と目を合わせかけて、慌てて視線を伏せる。鎧の留め金が小さく鳴った。
──知っている、と私は思った。 私が今日、何のために召されたのか。それは王宮の隅々にまで、もう走ってしまっているのだ。
濃紺のドレスの裾をひと撫でし、私は背筋を伸ばす。コルセットの紐が、肩甲骨の下で律儀に芯を支えている。十九年の王妃教育で学んだ歩幅、踵の置き方、扇の角度。今日この時にこそ、それらは私のものとして役に立つ。
大理石の長廊下を進むあいだ、両壁の油彩肖像画が無言で私を見送った。歴代の王と王妃、そしてその子らの肖像。あの少年王の隣に並ぶはずだった私の場所は、もうない。額縁の金箔が斜めの光を弾いて、目尻にちらりと刺さる。私は瞼を伏せず、ただ前を見て歩いた。
大広間の二枚扉の前で、案内の侍従長が振り向いた。皺深い顔のなかで、その目だけが、奇妙なほど私を労わっていた。
「アリシア様。──準備、よろしゅうございますか」
その問いの含みを、私は察した。 この扉の向こうには、すでに数百の貴族たちが集まっている。今日召集されたのは、観客として、なのだ。
「ええ、侍従長」
私は微笑んだ。頬の筋肉は、十九年分の鍛錬のとおりに動いてくれた。
「謹んで、参ります」
──
扉が両開きに開かれた瞬間、ざわめきが波のように引いた。
大広間。天井から垂れる七連のシャンデリアが、午後の光を含んで鈍く煌めいている。両側に整列した貴族たちの数は、四百を下らないだろう。婚礼の三日前に登城せよ──そう触れを出されて駆け付けた者もいれば、最初から「今日この日に呼ばれた意味」を承知して、最良の装いで参列した者もいる。羽根扇の動きが一斉に止まる気配が、肌に染みた。
奥の白い壇上には、第二王子オルセン殿下が立っておられた。 初夏の薔薇色のフロックコート、金糸の肩章、腰には父王から賜った細身の儀礼剣。十九で王太子の弟、そして六つ上の私の婚約者だった方。一拍置いて、私はその隣に立つ女性に目を移した。
ミレーヌ。
下町の薬種商の娘、と聞いていた通り、装飾を抑えた淡い藤色の絹をまとっている。私の濃紺と並べれば、まるで朝霧と夜更けほどに対照的だった。けれど、その肌の透けるような白さと、肩で揺れる栗色の巻き毛は、確かに人の目を引きつけずにおかぬものを持っている。彼女は私を見るなり、わずかに目を伏せ、殿下のフロックコートの袖をそっと指で摘んだ。──まるで、怯えて見せるかのように。
扇の骨が、誰かの手のなかで小さく軋んだ。
私は、定められた位置──壇下の絨毯の中心──まで、十九歩で歩み寄った。歩幅は乱さない。襟元に忍ばせた銀の十字架が、胸骨のあたりで、ひやりと一度だけ動いた。
「アリシア・フォルブレイズ」
殿下の声が、広間に響いた。 婚礼の宣誓を読み上げるはずだった声だ。それが今日、別の文を読み上げている。
「先に書状にて伝えた通り、貴殿との婚約は、これを破棄する」
ざわめきは戻らなかった。誰一人、咳ひとつしなかった。
「理由は、書状に記したる通りである。貴殿の家格、教養、容姿、いずれも王太子妃の地位に値せぬとは申さぬ。だが、王家の次代を担う者の伴侶には──民の心を解する者が、ふさわしい」
民の心、と殿下は仰った。 その三文字が、虚空にしばし留まり、やがて壇上のミレーヌの肩の上に、そっと落ちるのを、私はじっと見ていた。
「ゆえに、我は新たに、ここなるミレーヌを我が伴侶と定める。これを今日、満座の貴族諸卿の前にて、改めて宣する」
ざわ、と、ようやく広間の端で扇が動いた。 しかしそれは驚きの音ではなかった。「やはり」「ついに」──そう囁き合う、見物人の音だった。
私は、息を一つ深く吸った。 胸の奥が、なぜか温かかった。怒りでも、屈辱でもない。もっと深い、もっと静かなところに、灯のような何かが点っている。それが何であるかは、今は問うまい。今は、ただ、為すべきことを為すだけだ。
──
私は、扇を閉じた。 絹を打つ音が、広間にひとつ、確かに響いた。
それから、ゆっくりと、両膝を折る。 深く、深く、額が床と平行になる手前まで。一介の貴族令嬢が王太子に対して取りうる、最も丁寧な礼。婚約発表の日、私が同じ姿勢でこの方の前に膝を折った時から、ぴたりと一寸の差もない、同じ角度。
「──承知いたしました、殿下」
声は、震えなかった。 むしろ、思いがけぬほど澄んでいた。
「殿下のご決断、謹んで拝受いたします。長らくのご厚誼に、心より御礼を申し上げます」
頭を下げたまま、私は続けた。
「ミレーヌ様におかれましては、これより先の御代をお支えくださいますよう、この場をお借りして、お願い申し上げます」
顔を上げた時、ミレーヌが息を呑むのが、はっきりと見えた。 彼女は何かを言いかけて、そのまま唇を結んだ。きっと、泣き崩れる私を見るつもりで、慰めの一言を用意していたのだろう。あるいは、勝者の余裕で手を差し伸べる場面を、思い描いていたのかもしれない。──私が彼女のために用意した余白は、その全てを空振りにした。
殿下の頬が、わずかに強張るのを、私は見逃さなかった。 涙でもなく、罵声でもなく、礼。それも、王妃教育のすべてを尽くした、隙のない礼。私を「凡庸」と評した方は今、その凡庸さの中身が何であったかを、満座の前で確かめておられる。
「お暇を、頂戴いたしてよろしゅうございますか」
私の問いに、殿下は一拍遅れて頷いた。 頷きながら、視線を逸らされた。あの方が私から目を逸らされたのは、これで二度目。最初は三日前、最後の宴の打合せの席。そして今日。──二度とも、私の方が先に、見届けてしまった。
私は再び礼をして、ゆっくりと立ち上がった。 立ち上がった瞬間、襟の内側で、銀の十字架が一度、ぱちりと跳ねた気がした。気のせいだ、と私は思う。けれど、胸骨のあたりに残った熱は、冷たい金属の温度ではなかった。
絨毯の中央を、振り返らず、来た道のとおりに、十九歩。 扇は閉じたまま、両手を腹の前で重ねて。歩幅は乱さない。踵は鳴らさない。
両側の貴族たちの目が、私の濃紺の背中を追っているのが分かった。誰一人、声をかけてはこなかった。それでよい。この場で同情を口にできる者は、私の本当の格を、まだ理解していない者だけだ。
扉の手前で、私は一度だけ、足を止めた。 振り返らなかった。ただ、もう一度だけ、扇の縁に指を添え、深く礼をした。背中だけで返す礼。誰に対してでもない。──十九年の自分自身に対する、別れの礼だった。
扉が、私の後ろで静かに閉じられる。 大広間の喧騒は、その厚い樫の板で遮られ、廊下にはふいに、自分の鼓動の音だけが残った。
──
控えの間まで戻る廊下で、私は壁に手をついた。 膝が、ようやく震え始めていた。けれどそれは、屈辱の震えではなかった。
胸の奥の温かさが、いつの間にか掌の付け根まで広がっている。指先を見下ろすと、薄紅色に、内側から灯がともったように光っているように見えた。──いや、見えた気がしただけかもしれぬ。瞬きを一つする間に、それはもう消えていた。
控えの間の窓辺で、私は立ち止まった。 窓際には、来賓のために活けられた白い献花が、午前の暑さで早くも萎れかけている。茎を支える銀の花瓶に、私はそっと指を添えた。冷たい金属の感触の向こう、しおれた花弁の縁が、ふと、震えた気がした。
その時、廊下の奥から、老神官が一人、こちらへ歩み寄ってくる足音が聞こえた。 杖の先が、石畳を、ひとつ、ひとつ、確かめるように打っていた。