第1話
第1話
銀の盆に載せられた一通の封書を見た瞬間、私は紅茶を一口含み、それから静かにカップを置いた。
王家の紋章。第二王子オルセン殿下のご署名。華燭の典まで、あと三日と数えていた朝のことだった。
「アリシア様、いかがなさいましたか」
給仕のセラが、私の指先に視線を落とし、息を詰めるのが分かった。私は黙って封を切る。便箋は一枚きり。侍従が代筆した字ですらない、殿下ご自身の筆跡だった。
『家格に見合わぬ凡庸さを以て、貴殿との婚約を破棄するものとする』
たった一行。朝の光に翳して読み返しても、文意は変わらなかった。 紅茶のカップが、私の指の中でわずかに鳴った。
「お父様にお知らせを」
声は震えなかった。十九年、王妃たるべく仕込まれてきた喉だ。涙の出し方など、もう忘れて久しい。
セラが扉の外へ駆け出す音を背に、私は窓際の白薔薇に目をやった。今朝、庭師が摘んで活けたばかりの花。婚礼の宴のために、わざわざ南国から取り寄せた品種だった。三日後には花嫁の指にあるはずだった蕾が、朝露を弾いて、何も知らずに開きかけている。
胸の奥が、痺れるように冷たくなった。それは悲しみと呼べるほど鋭くもなく、怒りと呼ぶには重すぎる、ただ慣れ親しんだ理不尽の味。幼い頃から幾度となく飲み下してきた味だった。
思い返せば三日前、最後の宴の打合せに登城した折、殿下は私と目すら合わせず、扇で口元を覆って侍従に何かを囁いておられた。あの瞬間に、もう答えは出ていたのだ。私だけが、知らぬふりをしていたに過ぎない。
紅茶はもう冷めていた。一口含むと、舌に残る渋みだけが、いつもより明瞭に感じられた。
──
父が朝食の間に飛び込んできたのは、それから一刻と経たぬうちのこと。フォルブレイズ公爵──王家に次ぐ古き血筋を引く我が父は、白い髭を震わせ、けれど私の手から便箋を受け取る指は、外科医のように冷静だった。
「……平民の娘か」
それが、父の最初の言葉だった。
私は驚かなかった。三月ほど前から、王宮には一人の少女が出入りしているという噂が、公爵家の耳にも届いていた。下町の薬種商の娘で、名はミレーヌ。透けるような白い肌に、誰もが振り向く愛らしい笑顔。殿下が彼女を伴って夜会に現れた折、宮廷雀どもが何と囁いていたか、私は知っていた。
(──あの方は、籠の鳥のような婚約者には飽きておられるのよ)
私は黙して、ただ微笑んでみせた。沈黙は肯定。否定もまた肯定。十九年の王妃教育で身につけた処世術は、自分の心を守るためにも役立った。皆が同情する顔をして、その実、舞台の幕間を楽しむ観客であることを、私はとうに理解していた。
「アリシア」
父の声が、ふいに重くなった。
「お前は、これを、どう受ける」
問いに、私はすぐには答えなかった。 答える代わりに、便箋の一文をもう一度指でなぞった。「家格に見合わぬ凡庸さ」──フォルブレイズの格を低く言うこの一文は、父にとっても侮辱に等しい。なのに父はその一文ではなく、私の心を先に問うた。
胸の奥が、わずかに動いた。 それは幼い頃、熱を出して寝込んだ夜に、父がたった一度だけ私の額に手を当ててくれた、あの掌の温度に似ていた。公爵家の跡継ぎとして厳しく育てられた私が、父から「娘」として扱われた記憶は片手で足りる。その数少ない一つが、今、この朝にそっと重なっている。
「殿下のご決断であれば、謹んでお受けせねばなりません」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど平らだった。
「ただ、お父様。一つだけ、お願いがございます」
「申せ」
「本日の登城、私の選んだ装いで参りとうございます」
父は私の顔を見つめた。何かを察したように、目元が一瞬だけ和らいだ。
「好きにせよ。お前はもう、王家の駒ではない」
その一言が、便箋一枚の宣告よりも深く、私の胸を揺らした。 私は座を立ち、深く礼をして父の前を辞した。
廊下を歩く間、視界の端で侍女たちが目を伏せるのが分かった。噂は屋敷の隅まで、もう走っているのだろう。けれど誰一人、私を哀れむ表情を見せなかった。フォルブレイズの女に同情を向けてはならぬ──それを、屋敷中の者が知っていた。
階段の踊り場で、私は一度だけ立ち止まった。窓の外、北の空に、薄く灰色の雲が流れていた。 婚約の祝いに、晴れろとは祈るまい。
──
衣装室の扉を、私は自分の手で開けた。 普段は侍女頭が選ぶ仕事。けれど今日ばかりは、誰の手も借りたくなかった。
扉の蝶番が、低く軋む。室内には、乾いた薔薇の香と、絹を仕舞う杉箱の匂いが、薄く混じり合っていた。子供の頃、母に手を引かれてこの部屋に入るたび、私は必ず胸がどきどきしたものだった。今日、同じ部屋で、同じ香りを吸い込みながら、胸は奇妙なほど静まり返っている。
吊られた数十着のドレスを、指先で順に撫でていく。淡い桜色──殿下が「君に似合う」と仰った色。象牙色──婚約発表の夜に纏った色。臙脂──お茶会で殿下の隣に立った色。一つひとつに、私が積み上げてきた十九年が結びついていた。指先でなぞるたび、絹の冷たさが、過ぎ去った時を返してくる。
桜色のドレスに触れたとき、指先がほんの一瞬だけ止まった。初めてこれを纏った日、殿下は私の手を取り、庭園の噴水のほとりで「よく似合う」と囁いてくださった。あの日の水音が、今も耳の奥で鳴っている気がした。けれどそれは、もう誰のものでもない記憶だ。私は手を離し、次の絹へ指を滑らせた。
それらの間を抜けて、私は奥の一着の前で足を止めた。
濃紺。深い夜の色。 喪服にこそ仕立てられていないが、慶事には決して纏わぬ色合い。襟元と袖口にだけ、銀糸で控えめな蔦文様が刺してあった。亡き母が、自らの嫁入り道具として持参した一着──まだ五つの頃、この色を見ると不思議と胸が静かになるのを覚えていた。母は私を膝に乗せ、銀糸の蔦を一葉ずつ指でなぞって見せてくれたものだった。
「これに、いたします」
背後から付き従ってきた侍女頭が、息を呑む気配がした。
「アリシア様、それは……」
「ええ。本日は、祝いの席ではございませんもの」
侍女頭の手が、ほんの一瞬震えるのを、私は静かに待った。やがて彼女は深く一礼し、衣紋掛けからドレスを下ろす。布が床に擦れる微かな音が、私には妙に厳かに聞こえた。
着付けは、しずしずと進んだ。 コルセットの紐が締まるたびに、背骨に小さな芯が一本ずつ通っていく心地がした。それは王妃となるための気高さではない。ただ、自分の足で大広間を歩き出すための、私一人分の芯。紐の端が肩甲骨の下で結ばれる瞬間、侍女頭が小声で「きつくはございませんか」と尋ねた。私は首を振る。きつい方がよい。今日に限っては、弱さを宥める余裕などいらぬのだ。
化粧は、最低限にとどめた。頬紅を払い、唇には透明に近い紅を薄く一刷毛。髪は結い上げず、母の形見の銀細工で、肩のあたりにひと房だけ留めた。 鏡の中の私は、花嫁ではなかった。寵姫を選ぶ王子に祝福を捧げる令嬢でも、もはやなかった。
──ただ一人の、フォルブレイズの娘。
「……お美しゅうございます」
侍女頭の声が、わずかに湿っていた。 私は鏡から目を逸らし、宝石箱には手を伸ばさなかった。装飾品の代わりに、母から受け継いだ細い銀の十字架を、襟の内側にそっと忍ばせる。
胸元で、その金属がひやりと冷たかった。 冷たさは、不思議と心地よかった。ちょうど、熱した額に当てる濡れた布のように、滾りかけた何かを鎮めてくれる冷たさだった。
「参りましょう」
私が告げると、侍女頭は深く頭を下げた。
──
馬車に乗り込む前、玄関の階段で一度だけ振り返った。 父はそこに立っていた。何も言わず、ただ私の目を見て、わずかに顎を引いた。それが父に許される最大の励ましだった。
私もまた、深く一礼を返す。
馬車の扉が閉まる。蹄の音が、ゆっくりと動き出した。
窓の外、見慣れた庭園が後ろへ流れていく。 私はもう、白薔薇には目をやらなかった。
王宮までの道のり、私はただ膝に置いた両手をじっと見ていた。指先が、ほんのかすかに熱を帯びているように思えた。緊張のせいだろうと、そのときの私は片付けた。車輪が石畳の継ぎ目を拾うたび、膝の上で拳が小さく跳ねる。革張りの座席に染みついた古い香油の匂いが、幼い頃の遠出の記憶を微かに呼び起こした。けれど今日のこの道は、どこにも帰り着かぬ道のように思えてならなかった。
胸の奥で、何か見知らぬものが、ゆっくりと息をしているような気がした。 けれどそれが何かを確かめる間もなく──
王宮の鐘楼が、午後二時を告げる音を、低く響かせた。