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氷の皇妃は祖国を見返す

第3話 第3話

第3話

第3話

廊下の床板に一歩踏み出すより先に、宿の主が、階段の下から、震え声で、私を呼び止めた。

「──お、お嬢様、いえ、その、御方様。ど、どうか、奥の納戸へ。あの、裏口から……」

ランプを握る手が、節の浮くほど、震えていた。善意ではなく、己の宿を騎馬六十の踏み荒らしから守りたい、という、ごく正しい商人の計算が、声の裏に、透けていた。私は、その計算を、咎める気には、ならなかった。

「ご主人」

私は、階段の中ほどから、静かに、声を掛けた。

「裏口から抜けたとして、あの紋章を頂く騎馬が、街道を、一里も走らせると、お思いですか」

主は、言葉を詰まらせた。双頭の鷲の紋を、この男は、おそらく、見たことがないのであろう。ただ、宿の庭先に、帝国式の馬具を携えた騎影が六十、列を揃えていること、その事実の重みだけは、商人の勘として、嗅ぎ取っていた。

「納戸は、ご辞退いたします。──むしろ、玄関の広間を、お借りしてよろしいでしょうか」

「玄関……、の、広間……?」

「私は、この宿の皆様に、ご迷惑をおかけしとうございません。玄関先にて、あの御方たちを、お迎えいたします」

主の瞳が、一度、大きく、揺れた。けれども、この女を匿う、という選択肢を、最初から持ち合わせていなかった商人の顔は、すぐに、安堵のほうへ、滑り落ちていった。私は、それを、見た。見たうえで、何も、言わなかった。

階段を降りる途中で、私は、先ほど襟の裏から千切った、ヴェスターベルク家の小さな身分章を、掌の内で、もう一度、握り直した。家令が、最後の瞬間に、私の腰帯の内へ押し込んでくれた、母の銀の鎖は、腰骨のあたりで、布越しに、冷たく、息づいている。家名と、母の鎖。前者は、もはや、私のものでは、ない。後者は、名を剥がれた私に、ただ一つ、残されたものであった。

土間に降り立ったとき、商人たちは、すでに、酒杯を置き、奥の間へ、足音を殺して、下がりつつあった。煮込みの鍋は、囲炉裏の縁で、ゆっくりと、湯気を細らせていた。薪の爆ぜる音が、一つ、二つ、続けて、落ちた。私は、外套の襟を、一度だけ、正した。

──討伐、と、いう言葉が、胸の内に、浮かんだ。

帝国が、王太子殿下の追放令の隙を突き、故国の元王太子妃候補を、国境で、始末しにきたのだとすれば。あるいは、交渉の材として、生け捕りに、したいのだとすれば。いずれにせよ、私は、一人である。剣も、従者も、供もなく、この半ば崩れかけた宿駅で、帝国騎馬団六十を、迎える。

勝ち負けの場ではない。もはや、そのような場ですら、ない。

私は、土間の梁から下がる、煤けた鉄のランタンを、一瞥した。揺らめく火芯の奥で、光は、静かに、澱んでいた。息を、ひとつ、吸う。十年前、母の棺の前で、私が吸った夜気と、同じ温度の、夜気であった。

身分章を、囲炉裏の縁に、そっと、置いた。木の縁の、煤で黒く汚れた一点に、公爵家の紋が、ひっそりと、沈んだ。炎に、くべは、しなかった。くべることは、故国への、別種の意趣返しに、なってしまう。そのような感傷は、もはや、私には、不要であった。ただ、「置いていく」──それで、足りる。

玄関の引き戸の、冷えた木の把手に、私は、右手を、掛けた。左手には、扇を、持たなかった。今宵、扇は、大広間で、一度、閉じた。それで、足りる。

外の空気が、戸の隙間から、一筋、流れ込んできた。馬の息と、革の匂い、そして、燃える松明の松脂の、重たい香りが、ひとつに、混ざり合って、土間に、低く、這った。

戸の向こうで、石畳を踏む複数の足音が、整然と、近づいてくる。一歩、二歩。鎖帷子の擦れる、規則正しい音。号令の声は、ない。静かであった。それが、かえって、長い軍旅を経た隊の、呼吸だと、私は、肌で、理解した。

戸が、外から、叩かれた。

拳ではない。革手袋を嵌めた、指の節で、三度。ごく、礼儀正しい、叩き方であった。

「──御免」

男の声であった。太くはない。けれども、低い。声には、長い軍旅と、さらに長い、何か別種の疲労の匂いが、染み込んでいた。

私は、把手を、引いた。木戸は、油の切れた軌で、短く、鳴った。

戸の外には、松明の列を背に、黒衣の男が、一人、立っていた。

首から下は、全身を黒鉄の甲冑で覆い、胸当てには、双頭の鷲の紋。肩の外套は、夜気を孕んで、わずかに、膨らんでいた。兜は、腕に抱えている。頭部を、あえて、曝していた。

その顔を、私は、知っていた。

八年前、私が十八の年の春、故国の離宮で、一度だけ、同席した、通商条約の交渉卓。隣国の若き皇帝として、我が国の老宰相と、穀物関税率について、一刻の間だけ、言葉を交わした男。──フェルディナント帝国皇帝、ヴァルトラウト陛下。

漆黒の前髪は、あの日より、いくぶん、長く伸び、左の眉の上には、あの日にはなかった、細い切り傷の痕が、走っていた。瞳の色だけは、変わっていない。冬の湖の底に沈んだ青、と、私が、あの日、心中で、密かに名付けた色であった。

その青が、今、玄関の灯を、ゆっくりと、反射し、私の上で、止まった。

陛下は、兜を、従者へ渡さず、自らの腕に抱えたまま、黒鉄の膝を、ひとつ、折られた。

土間の、煤と藁屑の混じった、冷えた地面に、である。

私は、息を、止めた。

「──エレノア・ヴェスターベルク嬢。いや、今宵より、その家名は、あなたのものではない、と、聞き及んだ。ならば、エレノア嬢、と、呼ばせていただく」

低い、けれども、澄んだ声であった。稽古されたものでは、なかった。大広間で、王太子殿下が、あれほど、磨き上げられた抑揚とは、まったく、種類の違う、声の置き方であった。

「──陛下」

呼びかけの一語が、自分でも意外なほど、平らな音で、喉を、通った。震えは、起きなかった。

「かような夜更けに、他国の廃姫を、帝国皇帝陛下が、自らお迎えに参られる道理が、私には、ついぞ、分かりかねます。恐れながら、お立ちくださいませ」

「立たぬ」

陛下は、冷えた土間に、黒鉄の膝を、深く据えたまま、顔を、上げられた。松明の灯が、青い瞳の底を、一度、深く、照らした。

「──八年前、離宮の交渉卓で、穀物関税の率を、〇・二五刻みで、ただ一人、言い当てた女人を、私は、忘れていない」

土間の、煤の匂いが、一段、濃くなった。

「あの日以来、私の書斎の抽斗には、あなたが卓上に残された、走り書きの、国益の読みが、ただ一枚、しまわれている。──冷酷、と、あの国の王太子は、あなたを、呼んだそうだが」

陛下の唇の端が、かすかに、上がった。笑みには、ならなかった。

「あれを、冷酷、と呼ぶ国に、あなたを、置いてはおけぬ」

玄関の外の六十騎は、微動だに、しなかった。松明の火芯だけが、夜気に、揺れていた。私は、右手を、木戸の把手から、静かに、離した。掌の汗が、把手に、ごく淡い、指の跡を、残していた。

「陛下。恐れながら、──あなた様のお国にとって、私は、もはや、何者でもございません。身分章は、先ほど、囲炉裏の縁へ、置いて参りました」

「身分章は、あなたの価値ではない」

陛下は、膝を折ったまま、静かに、仰った。

「私が欲しておるのは、紋の入った娘では、ない。──穀物関税の〇・二五を、初見の卓で、言い当てた、頭脳である」

私は、一度、瞼を、閉じた。瞼の裏に、先ほど、大広間で見た、シャンデリアの揺らぎが、ごく薄く、蘇り、そうして、遠のいていった。代わって、十八の春、離宮の窓から差し込んでいた、若葉色の、午後の光が、意外なほど、鮮明に、戻ってきた。

目を、開けた。

「──お立ちくださいませ、陛下。夜気が、冷えまする」

陛下は、今度は、従われた。立ち上がる折の、甲冑の擦れる音は、低く、しかし、どこか、軽い響きであった。長く、膝を据えていたかった、というよりは、ようやく、用件を、口に出せた者の、音であった。

「お話は、馬車の中で、うかがいとう、存じます」

私の声は、この夜、初めて、ごく僅かに、温度を、帯びた。陛下は、頷かれた。そうして、私の背後、階上の窓の闇を、一度だけ、見上げられた。藁の寝台の残る、あの部屋である。

「──置いていかれるものが、ほかに、おありか」

私は、首を、横に、振った。

置いていくものは、もう、囲炉裏の縁に、置いてきた。

戸口の外、石畳の上で、鎖帷子の擦れる音が、ひとつ、整えられた。六十の松明が、風の向きに、一斉に、傾いた。陛下は、私に、片手を、差し伸べられた。黒鉄の手甲の、関節の一つひとつに、松明の火が、小さく、分かれて、宿った。

私は、その手を、まだ、取らなかった。

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