第2話
第2話
夜気は、王都を出てから三里ほどで、急に、刺すような冷たさに変わった。
外套の襟元から、冷気が、じわりと、滑り込んでくる。荷運び馬車の床板には、節の抜けた穴が一つ開いており、街道の土埃が、その穴から立ち上っては、繻子の裾を、苔色に、薄く汚していった。御者は、声をかけてはこない。私もまた、声をかけなかった。馬の蹄が、凍りはじめた轍を踏むたび、車輪の軸が、骨に響くような、低い唸りをあげた。革帯の擦れる音、車輪の軋み、そして、遠く、夜鳥の啼き声──それらは、王宮の大広間で耳に馴染んだ、絹擦れと拍手の余韻とは、何一つ、似ていなかった。
蝶番の歪んだ小窓から、先刻の黒衣の騎影は、もう、見えなかった。丘を一つ越えた時点で、馬上の影は、夜の襞のうちに、溶けて消えた。けれども、消えてしまったわけでは、ないと、私は知っていた。あれは、立ち去るための姿勢では、なかった。距離を詰めず、けれども、決して離れず──追跡というよりは、繋留に近い、奇妙な、間合いの取り方であった。御者すらも、おそらくは、気づいていない。気づかぬまま、運ばれている、というのが、最も、正しい言い方であろう。
膝の上に、両手を重ね、私は、一度だけ、目を閉じた。指の関節は、まだ、冷えていた。震えは、止まっていた。けれども、止まった、ということと、痛まぬ、ということは、同じ言葉では、ない。瞼の裏には、王太子殿下が「冷酷」と、言い放たれた、その瞬間の、大広間のシャンデリアの、揺らぎが、まだ、残っていた。光は、確かに、揺れていたのである。誰の手も、触れていなかったというのに。
王都から北東へ街道を辿れば、二日と半日で、隣国フェルディナント帝国との国境に至る。父の、最後の指図は、明確であった。──国境の宿駅まで送り、そこで馬車を返せ。それ以上の沙汰は、ない。要するに、私は、国の外へ、押し出されるのである。罪状は、王太子殿下の御口から賜った「冷酷」の二字、ただそれのみ。証拠は、必要とされなかった。問答も、許されなかった。十年、私が積み上げてきたものは、ただ二字の御言葉によって、紙切れのように、舞い上がり、踏みしだかれたのであった。
馬車が、街道脇の関所で一度、止まった。
「通行札を」
雇われ御者の応えは、聞き取れぬほど低かった。詰所の灯りが、馬車の小窓越しに、ちらと、私の右頬を照らした。番兵の若い男が、首を伸ばして、車内を覗き込もうとした。鼻先には、安酒の匂いが、ほのかに混じっていた。歳の頃は、おそらく、私と、さほど変わらぬ。彼の制服の襟章は、王都の近衛のものではなく、地方守備隊の、安手の真鍮であった。
「中の御方は、どなたで?」
「沙汰書のとおりだ」
御者は、それきり、口を噤んだ。沙汰書、とは、王宮から下された追放令の、写しであろう。番兵の眉が、束の間、寄った。彼は、小窓越しの私の繻子の夜会服を、月明かりで、ひととおり、見て取ったらしかった。視線は、私の頸から鎖骨のあたりで、一度、止まり、それから、慌てたように、滑り落ちていった。装身具のあるべき場所が、何もないままに、月の光だけを返していたためであろう。
「──お通りください」
通された、というよりは、見送られた、のであった。馬車が、再び、車輪を回しはじめた直後、番兵の一人が、詰所の奥に向かって、低く、何かを叫ぶ声が、聞こえた。「──早馬を、至急。北東街道、六番宿駅」。声の最後は、馬の嘶きに掻き消されたが、宿駅の番号だけは、はっきりと、夜気に刻まれた。
報告は、王宮へ走ったか、あるいは、別の宛先へ、走ったか。確かめる術は、ない。
夜半を二刻ほど過ぎた頃、馬車は、最初の宿駅に、辿り着いた。
宿駅とは、申しても、屋根の藁が半ばまで剥がれた、村役場の二階を借りただけの建物である。一階の土間では、商人たちが車座に酒を煽り、二階へ通じる階段の下で、宿の主が、ランプを片手に、私を待っていた。土間からは、薪の煙と、煮込まれた根菜の匂い、そこへ、汗と、湿った革の匂いとが、入り混じって立ちのぼっていた。商人の一人が、酒杯を持ち上げかけた手を、私の繻子の夜会服を見るなり、宙で、止めた。場が、半呼吸ぶん、静まり、それから、わざとらしく、賑やかさを取り戻した。
「──二階の、奥でございます」
主は、私の身分を、御者から聞かされていたらしい。視線は、終始、足元の土間の、藁屑のあたりに、落とされていた。礼ではなく、関わりたくない、という、生々しい身振りであった。階段の踏み板は、私の重みに、一段ごと、長く、軋んだ。主は、私の半歩先を、ランプの灯を低く保ったまま、登っていった。灯を、私の顔に、当てぬよう、気を遣っていた、というよりは、私の顔を、見たくないのであろう、と、私は、思った。
通された部屋には、藁を布で巻いただけの寝台と、欠けの目立つ陶器の水差し、そして、油の少ない燭台が一つ。それで、すべてであった。窓は一つ。鎧戸は、片方の蝶番が外れかけ、夜気が、絶えず、室内へ、滲み込んでいた。
私は、外套を脱がず、寝台の縁に、ただ、腰を下ろした。
この十年、私は、自分のための部屋を、持ったことがない。公爵令嬢の私室とは、政務のための私室であった。机には、北部三領の収穫報告と、帝国語の古詩と、礼法書とが、夜毎、積み上げられた。十二歳で母を喪ってから、私は、母の代わりに、父の代わりに、そして、いずれは婚家のために、と、ただ、役目に応じる身体として、磨かれてきた。微笑の角度、扇の動かし方、酌の傾き、書状の文字の太さ──そのすべてが、誰かの、何かのために、整えられた。今宵の、この藁の寝台は、十年ぶりに、私のためだけに、用意された場所である。皮肉な、報酬であった。
膝の上で、外套の裾を、掌で、ゆっくりと、撫でた。繻子の織り目は、土埃を吸って、もはや、光を返さなかった。
母が、十二の年の冬に、私の枕元に置いていった、銀の鎖の所在を、私は、馬車の中で、ずっと、案じていた。腰帯の内側に、布で包んで縫い付けてある。家令が、外套を羽織らせた折に、ごく素早く、私の右の腰のあたりに、押し込んでくれたのだ。あの折の、家令の指は、震えていた。震えていながら、目は、私を、まっすぐに、見ていた。「お嬢様」と、唇だけが、動いた。声には、ならなかった。装身具は、すべて、剥がされた。残されたのは、ただ、家令の指の温度の名残のみであった。
水差しの欠けに、燭台の灯が、揺れて映った。それを見るともなく見ていたとき、ふいに、二階の廊下を、忙しなく駆け上がる、宿の主の足音が、聞こえた。先ほど、私を案内したときの、慎重な踏み方ではなかった。爪先が、踏み板を、蹴り上げるような、急ぎ方であった。
主は、私の部屋の前で一度、足を止め、それから、扉を、叩かなかった。
代わりに、隣室の扉を、二度、強く、叩いた。低い、慌てた囁きが、薄い壁越しに、漏れてくる。
「──表の街道に、騎馬が、十、いや、二十……。松明を掲げております。お武家様、いかが、いたしましょう」
藁の寝台から、私は、ゆっくりと、立ち上がった。寝台の枠が、最後にもう一度、軋んだ。
油の少ない燭台を持ち上げ、窓辺へ、寄った。窓硝子は、ところどころ、白く曇り、外気が、隙間風として、私の頬を、冷たく、撫でた。指の腹で、曇りを、ひとすじ、拭った。
宿の前の街道に、松明の列が、ちょうど、三筋に分かれて、宿の建物を、半円に、囲みつつあった。一筋の長さで、おおよそ、二十騎。三筋で、六十。前面の松明の先頭には、馬上で、整然と、隊列を整える、騎士団長らしき影が、一つ。隊列の動きには、即興の慌ただしさが、なかった。あらかじめ、この宿駅で会合することが、決められていたかのような、静かな手際であった。
肩の紋章は、燭台の届かぬ闇のうちで、黒く、沈んでいた。けれども、松明の照り返しが、一瞬、紋の縁を、白く、走らせた。双頭の鷲。翼を、広げきった、構図。
──故国の紋では、ない。
私は、燭台を、机の上に、置いた。机の縁を、掌で、一度、なぞった。木目の節が、指の腹に、ざらりと、応えた。息を、ひとつ、吸った。冷えた空気が、肺の底まで届き、そこから、不思議なほど、静かな熱が、立ち上ってくるのを、感じた。
腰帯の内側へ、指を、差し入れた。布で包まれた、母の銀の鎖の感触を、確かめた。鎖は、布越しにも、ひやりと、硬かった。それから、もう一方の手で、外套の左襟の裏に縫い付けられた、ヴェスターベルク家の小さな身分章を、糸ごと、ぷつ、と、引き千切った。糸の切れる音は、思いのほか、軽かった。十年の重みが、一筋の、亜麻糸ほどでしか、なかったことを、私は、その音で、知った。
身分章は、もはや、私のものでは、ない。それを掴んだまま、私は、扉の方へ、二歩、踏み出した。
廊下の床板が、自分の靴の踵で、低く、軋んだ。