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氷の皇妃は祖国を見返す

第1話 第1話

第1話

第1話

「エレノア・ヴェスターベルク。余はお前との婚約を、今宵この場にて破棄する」

百の蝋燭が吊るされた大広間の、ちょうど中央。私は、閉じかけた扇を、ぴたりと止めた。扇の骨に掛けた右手の中指が、確かに、微かに、震えていた。

王太子レオナルト殿下の声には、震えはなかった。台詞を稽古してきた者の抑揚である。広間の空気が一拍、凍りついたまま、止まった。並ぶ貴族たちの視線が、細く磨いた針のように、私の剥き出しの肩に落ちてくる。

「理由は、この場で公言するに及ばぬ。されど──この場にある誰もが、察していよう」

殿下は、そこで一度だけ、息を継がれた。

「民の心を解さぬ冷酷な女を、わが国の次なる王妃として戴くわけには参らぬ」

民の心、と、私は内心で、薄く繰り返した。──先月、飢饉に陥った北部三領の救援穀決裁書を、はじめに差し戻されたのは、殿下ご自身でございます。「穀倉の帳尻が合わぬ」と。喉元まで上がったその言葉を、私は扇の陰で、そっと呑み下した。

宮廷とは、正しさを述べる場所ではない。勝ち負けの場である。それは、この十年で身に沁みた、第一の戒めであった。

耳鳴りがするほどの静けさのあと、大広間の壁際から、低い咳払いが、一つ落ちた。父の声だった。振り返らずとも、声の向きで、分かる。

「──殿下。不肖の娘の不始末、父としてお詫び申し上げまする。ヴェスターベルク公爵家は、本日をもって、この娘を、家より除きまする」

勘当。しかも、この場で。殿下の断罪に、父自らの声を、添える形で。

扇の骨に指を掛けたまま、私は、静かに、それを閉じた。象牙の骨が、微かに鳴った。

十年であった。母を喪った夏の夕べから、帝国語の韻律を母の墓前で唱え、穀倉の帳簿を夜毎繰った、あの十年。

膝を折る。淑女の礼としては、深すぎるほどに深く。しかし、背筋だけは、一分たりとも、曲げなかった。

「──承知いたしました、殿下。お父様。長らくのご厚誼に、謹んで、感謝を申し上げます」

顔を伏せたまま、私は、指の震えを数えた。右の薬指、左の親指。いずれも、この十年、帝国語の古詩を墓前で暗唱するたび、硯の墨で黒く汚してきた指である。震えは、確かに、ある。けれども、目の縁に、熱は上がらなかった。

涙を見せるな、見せてはならぬ。──幼き日より、父自身が、私に言い続けた家訓である。皮肉に、効く家訓であった。

顔を上げたとき、殿下の瞳が、一度だけ揺らいだのを、私は見逃さなかった。涙を、期待しておいでだったのだろう。悲鳴を、取り縋る白い腕を、絨毯に崩れ落ちる娘の姿を。それが、殿下が幾度となく稽古してこられた筋書きだったのだ。

しかし私は、その筋書きを、今この場で、閉じる。

「──殿下。一つだけ、伺うことを、お許しくださいませ」

殿下の眉根が、僅かに、寄った。

「……申せ」

「先月、北部三領へ回されるはずでありました救援穀の決裁書は、殿下の御手によって、一度、差し戻されておりました。付箋に記された差し戻しの理由は、『穀倉の帳尻が合わぬゆえ、再精査を要す』。──再精査のため、民の口に粥が入るのが、三日、遅れました。民の心を解さぬ者が、いずれであったか。記録は、嘘を申しません」

広間の静けさが、ほどけ方を変えた。貴婦人たちの扇の裏で、別の言葉が、囁かれ始める。殿下の頬に、血の色が、差した。怒りの色である。

「──貴様」

殿下が、唇を動かしかけられた。けれど、次の句が出る前に、父が、一歩、進み出た。

「──この者は、すでに我が家の娘ではございません。以後の詮議は、殿下のご随意に」

父の背は、ついに、一度も、私の方を向かなかった。

かつて母の棺を送った日も、父は、私に背を向けて、雪の庭に立っていた。あのときと、まったく同じ姿勢であった。少なくとも父は、娘を送るときと、娘を捨てるときで、背の角度だけは、変えなかったらしい。

それで、よい、と私は思った。

玉座のすぐ下、大理石の柱の陰から、こちらをおずおずと覗く少女の姿が、見えた。新たな婚約者となる予定だと、前夜の社交で耳にしていた、伯爵家の末娘である。華奢な白い肩が、怯えで、小刻みに、震えていた。

可哀想に、とは、思えなかった。

ただ、一つだけ、案じた。──来月、北部三領から、また届くであろう穀倉報告を、あの娘の代わりに、読み解ける者が、これから宮廷に、残るのだろうか。

その一点だけを、私は、ひそかに、案じた。

そうして、扇を、もう一度、握り直した。

私は、静かに、礼を返した。王太子にではない。広間そのものに、である。この十年、私が通った回廊の一つひとつに、謹んで。

「──ごきげんよう、皆様」

扇を閉じる音が、思いのほか高く、大広間の天井へ、立ち上った。私は、踵を返した。赤絨毯の縁を、踏まぬよう、歩幅を、二度、整えて。絨毯の毛先が、繻子の裾を、ごく僅かに引く。それだけが、今夜、私に許された抵抗の感触であった。

背後で、誰かが、息を呑む音を、聞いた。

大広間の扉が、背後で閉じられたとき、私は、ようやく、扇を下ろした。指は、まだ、微かに震えていた。しかし、それは、先ほどまでの震えとは、別種のものだと、私自身が、分かっていた。

控えの間では、侍女たちが目を伏せ、誰ひとり、私を迎えなかった。主を失った娘に、布一枚の敬意も払わぬのが、この宮廷の作法である。──ただ一人、二十年来、私に帝国語の発音を仕込んでくれた老いた家令だけが、無言で歩み寄り、繻子の夜会服の上に、旅装用の外套を、そっと、掛けた。

「公爵家の馬車は、ご使用いただけません」

「存じております」

「従者も、付きません」

「存じております」

家令の手袋の指が、外套の襟を整えようとしたとき、一度だけ、微かに、詰まった。しかし、彼は、父の家令として、最後まで、視線を上げはしなかった。

私は、彼の手を、一度だけ、握った。手袋越しの掌の皮が、記憶にあるより、ずいぶん、薄くなっていた。労いの言葉は、もう、私に許された贈り物では、ない。

「──長らく、お世話になりました」

それだけを、ごく小さく、告げた。

表に回されていたのは、荷運び用の、屋根の低い箱馬車だった。装飾はなく、扉の紋章は削り落とされ、削り跡の粗さが、月明かりに、白く、浮いた。御者は、雇われの男であろう。無言で、頭を下げた。

馬車に乗り込む前、私は、一度だけ、夜空を、仰いだ。

三月とは思えぬほど、冷たい夜気が、襟元から入り、背筋を走る。繻子の夜会服の裾は、大広間の絨毯の埃を、かすかに、吸っていた。私は、その埃を、払わなかった。母が、生前に私のために仕立ててくれた、最後の一着である。

星の配列は、王宮の庭から見ても、辺境の街道から見ても、同じだけ、降るものだ。私は、十年前、母を喪った夏の夕べにも、この配列を、見た。その夜から、私の仕事は、ただ一つだった。この国の穀倉を、冬に、空けないこと。それだけを、忠実に、私はやってきた。

復讐は、しない、と決めた。

未練を抱いて、手紙を書くことも、しない。夢に、殿下の肖像を、見ることも、しない。

ただ、見返す。

十年は、この国のためだけに、費やされたのではない。私自身の、十年であった。帝国語も、政務の読み筋も、穀倉の数字も、礼法も──すべて、この、手の内にある。奪われたのは、家名と婚約だけであって、私自身では、ない。

馬車の扉を、私は、自分の手で、閉めた。蝶番が、鈍く、鳴った。

車輪が石畳を噛みはじめ、王都の灯が、ゆっくりと、遠ざかっていく。石畳が途切れ、土の街道に変わった瞬間、馬車が一度だけ、大きく、揺れた。

城門を抜けるとき、詰所の衛兵の一人が、私を見ていた。目を逸らさずに。

気付いた、と思った次の瞬間、衛兵の瞳が、──彼の主ではない、どこか遠い誰かからの合図を受けたかのように、ごく僅かに、頷いた。

誰の合図であったかは、分からぬ。分からぬまま、馬車は、夜の街道へ、出た。

街道を半里ほど進んだ、小高い丘の上。黒い外套を纏った、馬上の影が、ただ一騎、静かに、佇んでいた。

馬も、騎手も、微動だにしない。こちらを見下ろすでもなく、かといって、見過ごすわけでも、ない。そのままの姿勢で、ただ、そこに、在る。

肩に縫い取られた紋章が、月光で、白く、縁取られていた。故国の紋では、ない。

外套の内側で、私は、指先を、もう一度、強く、握りしめた。

震えは、止まっていた。

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