Novelis
← 目次

偽聖女と騎士団長の藍

第3話 第3話

第3話

第3話

馬蹄が、雨の幕を割って、すぐそこまで来ていた。  木の根を掴んだ指に、もう力は入らなかった。爪の割れ目から滲んだ血が、雨水に洗われ、苔のひだに細く流れていく。その流れを、私は、瞼の重さの向こうから、他人事のように眺めていた。冷たさは、もう、痛みの形を失っていた。指先から腕、腕から肩へ、白い帳のようなものが一枚ずつ下ろされていく。雨音が、耳の奥で、少しずつ遠くなっていった。  馬の鼻息が、雨を吹き払う音が、すぐ頭上で止まった。  鎧の擦れる、低い軋み。あの、神殿の広間で、柱の影で聞いた音に、ひどく似ていた。 「——ここに」  誰かが呟いた。低く、雨を突き抜けない声だった。けれどその一言は、私の頬を打った最後の雨粒よりも、確かな輪郭で、私の耳の中に落ちた。  馬上から人が降りる重い音がした。鎖帷子が鳴り、湿った落ち葉が踵の下で押しつぶされる。足音は、迷わず、私のすぐ傍まで来た。  視界の端に、磨かれた銀の胸甲が、雨を弾いて、鈍く光っていた。冬の湖面の色だ、と、どこかで、すでに知っていた色だ、と、思った。思ったのに、認める力が、もう、瞼の裏に残っていなかった。

 ひどい、と、短く、声がした。  咎めではなかった。独り言に近かった。けれど独り言にしては、語尾が、わずかに、震えていた。  皮の手袋を嵌めた手が、私の肩の、薄布の上に乗せられた。重みは、思っていたよりずっと軽かった。軽く、けれど、確かに、そこにあった。今朝、大理石の上で差し出され、私が取れなかった手だ。取れなかった手が、今、私の肩に、そっと、触れていた。 「意識は」  短い問いだった。私は、瞼を動かそうとした。動いたのかどうか、自分でも分からなかった。答えの代わりに、歯の根が、また、かちかちと鳴った。その音を、相手は、たぶん、聞いた。 「失礼する」  断りの一言が、落ちた。  次の瞬間、鎧の腕が、私の膝裏と、肩甲骨の下に、回された。  持ち上げられる、というよりは、すくい取られる、という感覚だった。濡れて重くなった薄布ごと、私という小さな塊が、雨のぬかるみから、ひとつ、掬い上げられる。鎖帷子の鉄の輪が、腰の骨に当たり、一度、鈍く痛んだ。けれどその痛みよりも、鎧の内側から伝わる、別の体温のほうが、先だった。  冬の湖面のような胸甲の、その奥に、人の体がある。当たり前のことが、私には、信じがたい発見だった。半年、誰の体にも、触れたことがなかった。触れられたことも。頬を打たれたあの鉄の味は、触れた記憶ではなかった。打たれた、という、衝撃の記憶だった。  今、鎧越しに伝わるものは、衝撃ではない。ただ、人ひとり分の、湯気の残りのような熱だった。それが、私の、氷の一歩手前まで冷えた薄布を通って、肋骨の下の、もっと奥の場所を、ゆっくりと、こそばゆく、溶かし始める。  顔の横で、湿った黒い髪が、私の額に一筋、触れた。鎧の匂い——雨に洗われた鉄、油、そして、朝、広間の柱の影で私を見ていた人の、汗の下にある、いちばん薄い体臭。それらが、私を運ぶ腕の動きに合わせて、一拍ごとに、近くなり、遠くなった。  馬の鞍の上へ運ばれるのかと思った。けれど彼は、鞍へは行かなかった。  大樹の根元、雨のいちばん細くなる枝の下へ、一度、私を、置いた。置く、といっても、地面には下ろさない。自分の片膝を落とし、その膝の上に、私の背を凭せかける形だった。片腕は私の肩を支え、もう片手で、鎧の下から、たたんだ油紙のようなものを取り出し、私の膝から胸元まで、手早くかけた。 「しばらく、こうしていろ」  低い声だった。咎めではなかった。嘆きでもない。今朝、神殿の広間で、私が取れなかった手を、胸の前でゆっくり握り込んだ——あの時飲み下した何かの、続きが、この声に、かすかに、混じっていた。  私は、瞼を、ほんの少しだけ、持ち上げた。  藍色の瞳が、間近にあった。雨の粒を睫毛に抱えて、それでも、磨き上げた刃の鋭さは失っていない。けれどその刃の峰が、今朝より、ほんのわずかに、こちらへ傾いていた。 「——騎士団長、さま」  声が、自分の喉から出た音だとは、思えなかった。掠れて、湿って、けれど、半年ぶりに自分の意思で口にした呼称だった。  彼は、答えなかった。答える代わりに、薄布越しの肩の位置を、ほんのわずか、動かし直した。私の首が、鎧の凹みに、うまく嵌まるように。その動きの、音のなさが、かえって、彼が今、何を選んで何を選ばなかったか、を、私の内側に、そっと、置いていった。

 胸の下で、小さく、何かが、疼いた。  心臓ではなかった。心臓は、ずっと前から、遠くで、鈍く鳴っている。そのもっと手前、みぞおちのやや上。半年の間、空っぽだと告げ続けられた場所が、ふ、と、温度を持ち始めていた。  最初、それを、ロウェンの体温が移ったのだと思った。鎧越しに、私の凍えた胸へ、少しずつ、熱が滲んでいるのだと。けれど、違った。熱は、外から入ってきたのではなく、私の、その、空っぽだった場所から、ゆっくりと、起きようとしていた。眠っていた小さな獣が、長い冬の底で、自分の毛皮の中に埋めていた鼻先を、たった今、わずかに持ち上げた——そんな、ささやかで、けれど取り返しのつかない目覚めの感触だった。  指先が、勝手に、動いた。  動いたというより、指先の皮膚が、ひとりでに、内側から押し上げられる、そんな感触だった。私は、自分の意思を差し挟む暇もなく、右手を、油紙の下から、そっと持ち上げた。その手は、私の意思の外側で、まっすぐ、ロウェンの、もう片方の手——手袋の甲の、古い傷跡の上へと、伸びていった。  手袋の甲、親指の付け根のやや外側に、縫い目が一箇所、不自然に盛り上がっている場所があった。油を吸って艶を失ったその部分を、朝、大理石の上で、私は、見た。見て、この人が何度も剣の柄を握ってきた手だと思った、その、まさに、同じ場所だった。  私の指先が、その縫い目に、触れた。  触れた、というより、ただ、置いた、に近かった。爪の割れた、土と血で汚れた、半年分の薄汚れた指が、磨かれた革の、一番くたびれた一点に、迷子のように、行き着いた。  途端。  蝋燭の芯に火を移すように、指の腹から、淡い、金の色が、滲んだ。  それは、光、と呼ぶには、優しすぎた。陽だまりの色、あるいは、春の朝、湖面に届く最初の一筋の色。雨の灰色の中で、その金色は、少しも眩しくなかった。ただ、そこに、当然のもののように、存在していた。誰かが見つけてくれるのを、ずっと、私の指の奥で、息をひそめて待っていた——そんな、慎ましい色だった。  ロウェンの肩が、鎧ごと、強張った。 「——!」  彼の口から、息を呑む音が、落ちた。短い音だった。剣を構える人の、ではなく、全く別の何かに、不意を打たれた人の、音だった。  金の光は、私の指先から、彼の手袋の、あの縫い目の盛り上がりへ、静かに、吸われていった。手袋の、古い、油の染みたひびの奥で、何かが、ほどけていく感覚があった。長く結ばれていた紐が、誰の手によってでもなく、ただ時が来た、というだけの理由で、自分から先端を解く——そういう、ほどけ方だった。私の中の、空っぽだった場所も、それと同じ速度で、薄く、軽くなっていった。  やがて、光は、溶けるように、消えた。  残ったのは、雨の音と、私の、自分でも驚いている息と、それから、ロウェンの、鎧の胸が、一度だけ、大きく、上下した、その気配だけだった。  彼は、ゆっくりと、反対の手で、手袋の甲を、指で、撫でた。縫い目の上を、一度。二度。何かを確かめるように。そして、その下で、皮の内側の、長く、痛みとして残っていたはずのものが、今、消えている——それを、自分の指で、認めた。  認めて、彼は、私の顔を見た。  藍色の瞳の奥で、朝、神殿の広間では、絶対に揺れなかったものが、ほんの、雨粒の一滴分だけ、揺れた。

 雨は、まだ、降っていた。  けれど、私たちの上の、樹冠の下の、この、半歩分の空間だけは、さっきまでとは、明らかに、別の温度になっていた。  ロウェンは、何も、問わなかった。  問わない代わりに、手袋をしたままの指の腹を、私の濡れた前髪の、額にかかった一筋に、ほんの一瞬、触れさせた。触れさせて、すぐに、離した。まるで、触れた事実そのものを、自分に、許すかどうかを、これから決める、という手つきだった。  それから、彼は、視線を、森の奥、王都とも神殿とも違う方角へ、向けた。雨の幕の向こう、濃い灰色に沈む、辺境の、稜線だった。 「——連れて行く」  短い一言が、落ちた。  馬が、私たちの傍で、一度、小さく、嘶いた。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!