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偽聖女と騎士団長の藍

第2話 第2話

第2話

第2話

坂道の途中で、空から最初の一粒が落ちた。  鼻先に当たり、額を滑り、鎖骨の溝を辿って薄布の下へ消えていく。冷たさよりも先に、雨は匂いで来た。石畳に埋まった土埃を濡らし、水路の苔を起こし、遠くの豚小屋の饐えた匂いを、私の足元まで押し寄せさせる。続いて二粒、三粒。それが十、それが百になるまで、幾つも数えることはできなかった。  気がつくと、王都の下町に続く石畳が、薄黒く色を変えていた。薄布はすでに肩から冷たく重く、胸元に押し込んだ黒パンの表皮が、じんわりと水を吸い始めている。  雨、だ。  そう口の中で呟いてみる。呟いた声は、自分でも驚くほど小さかった。雨そのものが、返事をせずに私の周りを駆け抜けていく。  行商人が一人、幌の荷車を引いて擦れ違った。私を見た。見て、濡れた肩布で顔の下半分を覆い直し、そのまま通り過ぎた。すれ違い際、荷車の木の車輪が、石畳の水たまりを撥ねた。冷たい泥の飛沫が、私の脹脛に、点々と食い込む。痛くはなかった。けれど、何かが痛いと思うべきだった場所に、ただ冷たい染みが増えただけだった。  拭わなかった。拭う手が、まだ、震えていた。

 下町の通りは、雨のせいか、人がまばらだった。それでも窓辺から、軒先から、洗濯物を取り込む指先から、視線は飛んできた。聖衣を剥がれた薄布一枚の姿は、私が自分で想像しているよりずっと、この街では目立つらしい。どこそこの娘でないことは明白で、けれど娼館の女にしては痩せすぎていて、物乞いにしては髪の長さが無駄に整っている。誰も、声はかけなかった。かけないことで、かけるよりも確かに、私をこの街から弾いていた。  石段の下で、三つ四つの男の子と目が合った。母親が慌てて子の手首を掴み、子を自分の腰の後ろへ回す。子は、振り向いて、私を、珍しい鳥でも見つけたような顔で見ていた。その顔の、曇りのない好奇の、頬の柔らかさが、かえって胸に刺さった。私は、笑い返すための表情の作り方を、もう、思い出せなかった。唇の端を、ほんの少しだけ、動かそうとした。動かないわけではなかった。ただ、その動きが、どんな形を作るべきだったのか、思い出すための記憶の棚が、雨に濡れて、全て、封をされていた。  青物屋の軒下で、一瞬、雨宿りをしようと足が止まった。店主は、私と目が合った瞬間、煙管を口から外し、ふ、と短く煙を吐いた。煙の白が、雨の灰に溶ける前に、店主は黙って店先の竹籠を一つ、私の立ち位置との間に、すっと置いた。竹籠の底には、売り物にならなくなった萎れた青菜が、雨を含んで、くたりと曲がっていた。その青菜の匂いが、一瞬だけ、私の鼻先を掠めた。土と、苦みと、生きていたものが腐っていく、あの湿った甘さ。  追い払う言葉を、使わずに追い払う術だった。  私は俯いて、歩き出した。目尻で雨と混ざるものが、少し増えた気がしたけれど、それが雨なのか違うのか、もう自分でも分からなかった。  黒パンを、守るように胸の前で抱え直す。薄布の下で、それだけが、ほんのりと温いような、温くないような、曖昧な体温を保っていた。神殿裏門の老兵の、節くれだった指が、この黒パンに最後に触れた。その事実だけが、今の私に残された唯一の「拒まれなかった記録」だった。  半年ぶりの雨だった。思えば神殿の塔の窓からは、空は見えても、雨の匂いは一度も届かなかった。石と乳香と、汗と血の匂いだけで満たされた半年。その半年の最後に、私は、人に見せてはならぬ姿のまま、こうして雨に濡れている。皮肉だとも、戻るべきところへ戻ったのだとも、もう、どちらでもよかった。  下町の外れで、石畳は尽きた。代わりに、雨でぬかるんだ土の道が、緩やかに雑木林へと吸い込まれていく。路銀、と、ふと、場違いな言葉が頭の奥で鳴った。銅貨一枚、持っていない。一晩の宿はおろか、一椀の粥を買うことすら叶わない。半年の神殿暮らしは「光」を授かるための浄めだと言い含められて、手元から金という金を、全て、祭壇の布の下へ取り上げられていた。  それでも、私は、森の方へ、脚を踏み出した。

 雑木林は、雨の中で、深く、静かだった。  入口の一歩で、世界の音量が半分に落ちた。葉の重なりが雨を受け止め、路上に届くはずの雫を、枝の上で何度も転がしてから、ようやく地面へ下ろす。ぱ、ぱ、と、大粒の雫が、不規則な間隔で、私の髪に、肩に、裸足の甲に落ちた。冷たい、というより、一粒ごとに、体のどこかを消していく感じだった。指先の感覚から先に、雨の音へ吸い取られていく。その次に、踵の感覚が、濡れた落ち葉の冷たさに、ゆっくりと鈍っていった。歯の根が、いつの間にか、かちかちと鳴り始めていたことに、途中で、気づいた。気づいて、止めようとしたけれど、顎の奥の筋は、もう私の言うことを聞かなかった。  どれくらい歩いたのか、すぐに分からなくなった。道は、道ではなく、人が通った跡というだけの細い踏み分けで、時折、腐った倒木や、水を含んで柔らかくなった苔の塊を、跨がねばならなかった。踏み外した足が、落ち葉の下の泥に、踝まで沈む。その泥は、昨夜、祭壇の前で吐いた鼻血よりも、ずっと深く、ずっと、黒かった。  三本目の大樹を越えたところで、私の膝が、一度、がくりと折れた。  折れて、すぐには立ち上がれなかった。木の根に手をつく。樹皮の細い筋に、爪の割れ目がひっかかり、また薄く血が滲む。鉄の味が、口の中にじゃなく、指先のほうに、先に戻ってきた気がした。膝頭の下で、濡れた腐葉土が、ぬるりと体温を奪っていく。息を吐くと、白い曇りが一瞬だけ雨の幕に溶け、すぐに、私とは関係のない冷気の一部になった。  ——立て。  自分に命じる声が、誰のものでもない声で、頭蓋の奥に響いた。  立たねば、ここで、ただの塊になる。薄布と、黒パンと、割れた爪とを持った、名前のない塊に。  半年前、この国へ召喚されたばかりの、あの夜の祈祷の間を、なぜか、ほんの一瞬、思い出した。円形の床に描かれた金の魔法陣。焚かれた乳香。知らない言語の、聖歌。その真ん中に立たされた私の、震える指先を、「光が、兆すまで」と言い含めながら、大神官が、初めて、銀の鎖で飾った。細い、銀の鎖だった。重くはなかった。ただ、冷たかった。その鎖を外された今朝、私は初めて、自分の手首の骨が、思ったよりも、ずっと、細いことに気づいた。  今、雨の中で、手首には、もう何もない。鎖の跡だけが、うっすらと、輪を描いて残っている。  その輪を、私は、反対の手の親指で、そっと、一度、なぞった。爪の先が、鎖のあった皮膚の、わずかに窪んだ線を辿る。そこだけが、半年間、日に焼けず、汗にも晒されず、保たれていた。私という人間の、半年分の、証のような、呪いのような、細い一本の輪。  なぞった指先から、何か、熱いような、温くもないような、よく分からないものが、頬の筋に、もう一筋、流れた。  そのとき。  遠く、雨の向こうで、石でも土でもない何かを叩く音が、混じった。  ぱか、ぱか、ぱか——と、規則正しく、けれど、急いでいる。  馬蹄だ。  急使のそれとは、違った。さっき神殿の坂道を駆け上がっていった、あの浅く乾いた響きではない。もっと重く、鎧を乗せた馬の、地を深く押す足音。雨を、叩き割って、こちらへ近づいてくる。

 私は、木の根に手をついたまま、顔を上げた。  雨粒が、瞼の縁で一度溜まり、睫毛を伝って、頬の筋を流れ落ちる。その一筋の温度だけが、妙に、人肌に似ていた。  近づいてくる。確実に、こちらへ。  逃げなければ、と、頭の浅いところで、言葉が形になろうとする。追放された者を、わざわざ森まで追ってくる者がいるのなら、それは、私を殺しに来た者かもしれなかった。けれど、膝は、もう一度立ち上がることを、私の意思より先に、諦めていた。指先が、木の根の、湿った凹凸を、何度も、無意味に撫でる。逃げるための力ではなく、ただ、何かに掴まっていたいだけの、それは、動物の、最後の仕草に近かった。  馬蹄は、さらに、近く。  雨の幕が、一瞬、白く揺れた。その揺れの向こうに、鈍い銀の光が、ひとつ、見えた気がした。冬の朝の湖面に似た、あの——

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