第1話
第1話
大理石の冷たさが、額の皮膚を通り越して眉骨にまで染み込んでいた。 汗の匂いのする自分の吐息が、磨き上げられた床に白く曇っては消える。香炉から流れる乳香は甘く重く、その甘さに、今朝神官に頬を張られた痕の、鉄の味が混じる。 「偽聖女」 大神官の声が、円天井の高い広間に響いた。たった三文字のはずなのに、それは私の背骨を一段ずつ崩して、床に縫い止めるようだった。 「半年、待った。貴様の中に『光』の兆しは、一度たりとて認められぬ。召喚の儀を穢した責は重い」 舌打ちとも吐息ともつかない音が、左右に居並ぶ神官たちから、一斉に漏れた。顔を上げられない。上げたくない。視界の隅で、白銀の刺繍が入った聖衣の裾が、もう私のものではない布のように遠い。 床に垂らした髪の先から、滴が一つ落ちた。涙ではない。鼻血だった。昨夜も、その前の夜も、祈りの祭壇で力を絞り出そうとして、けれど絞るべき何ものも、私の中にはなかった。 「追放とする。神殿の塔からは、即刻退去。聖衣も、名も、剥奪する」 ——名も。 その一言が、私の肺の底を浅く引っ掻いた。 そのとき、広間の奥、太い柱の影で、金具の軋む微かな音がした。誰一人身じろぎせぬこの場所で、ただ一人、鎧に包まれた人が、ほんの少しだけ重心を移した気配だった。 顔を上げてはいけない。そう自分に言い聞かせながら、私はわずかに瞼を持ち上げてしまう。 騎士団長ロウェン。 藍色の瞳は、磨き上げた刃のように鋭いのに、こちらへ注がれる角度だけが、咎めでも憐れみでもなかった。ただ、静かに、私の惨めさを、そのままの形で受け取っていた。
「立てるか」 声が落ちた。遠くで、けれどすぐ傍で。 彼は、いつの間にか私の三歩前まで歩み寄っていた。磨かれた銀の胸甲が、冬の朝の湖面に似た光を返している。差し出された手は皮の手袋に覆われ、指の節だけが硬く盛り上がっていた。何度も剣の柄を握ってきた手だ、と思った。 皮の縫い目は古く、親指の付け根だけ、油を吸って艶を失っている。冬の演武場で、素手の代わりにこの手袋が何を受け止めてきたのか、私は知る由もない。けれどその皺の一筋ごとに、私の知らない朝と夜が、きちんと畳まれて仕舞われているのが見えた気がした。手袋の縁からわずかに覗く手首の肌は、私のそれよりずっと日に焼けていて、血管が青く、地図のように浮いていた。 私はその手を、見た。 見て、見て、それから、見ないことにした。 穢れた身で触れたら、この人の手袋に、きっと染みが残る。聖衣を剥がされた私の指先は、爪の割れ目に昨夜の血が乾いたまま、泥色にこびりついている。乳香の甘い空気の中で、自分の体だけが、屍のような匂いを放っている気がした。 震えた。指が、ではない。肩が。 内側から、骨が一本ずつ外されていくような震え方だった。喉の奥で、声にならない何かが湧いては冷え、舌の上で砂のように砕けていった。 それでも私は、両手を床についた。大理石は、相変わらず冷たかった。掌の下で、脈が一つ、二つ、跳ねる。 膝を押し上げる。重い。自分の体重ではない重さが、どこからか肩に乗っている気がする。ふと、下ろした視線の先で、ロウェンの爪先が動いた。一歩、退くのかと思った。けれど彼はその位置で止まったまま、差し出した手を、引かなかった。 引きもしないし、押しつけもしない。 気がつくと、私は立っていた。 揺れる視界の中で、彼の手はまだそこにあった。私はそれを取らず、ただ、自分の二本の脚で、ほんの一歩だけ、後ずさった。 何か言葉を言わねばならない気がした。非礼を詫びるか、感謝を告げるか。けれど口を開けば、鼻の奥に溜まった鉄の味が舌先に流れてきて、私は結局、口を閉じたまま、深く頭を下げた。 ロウェンの手が、ゆっくりと下ろされた。彼の喉元で、鎧の留め具が小さく鳴った。低く、抑えた音だった。咎めではない。嘆きでもない。ただ、何かを飲み下した音だと、そのときの私には、わからなかった。 「行け」 大神官の声が、再び背を叩く。 私は歩き出した。裸足の足裏に、大理石の冷たさが這い上がる。一歩ごとに、聖衣の重さが肩から抜け、代わりに、見えない視線の重みが積もっていく。振り返ってはいけない。けれど。 両開きの扉に手をかけたとき、私は、ほんの一度だけ、振り返った。 柱の影のロウェンは、まだそこに立っていた。差し出されたままの格好の手を、彼はようやく、胸の前でゆっくりと握り込んだところだった。
扉が閉まる音を、私は背中越しに聞いた。 神殿の外廊下は、内陣と違って、石の継ぎ目に雨染みが滲んでいた。半年、一度も出なかった——いや、出されなかった場所だ。薄布一枚で立つ私を、行き交う下働きの女たちが、一斉に目を逸らす。ひそめた声の端が、羽虫のように耳朶を掠める。偽聖女、役立たず、よく平気で歩けるものだ。 年嵩の洗濯女が、濡れた布の山を抱えたまま、私の通り道にわざと水を零したような足取りで擦れ違った。薄布の裾に、冷たい染みがじわりと広がる。誰一人、目を合わせようとはしなかった。誰一人、笑いもしなかった。ただ、空気そのものが、私を外へ外へと押し出そうとしていた。鐘楼の鐘が、正午を告げて鳴った。その残響の中に、裸足の足音だけが、他と違う響きをして吸い込まれていった。 私は歩いた。歩く以外に、私にできることはなかった。 天窓から差す光が、斜めに、私の足元だけを切り取っていた。神殿は広く、追放される者のための出口など、誰も案内しない。下働きが使うらしい狭い螺旋階段を、私は咎められぬまま降りていく。一段ごとに、世界の音が変わっていった。聖歌の残響が消え、代わりに竈の匂いと、家畜の声と、風に混じる湿った土の匂いが、薄布の裾を撫で始める。 裏門の小さな潜り戸が、風に揺れていた。 押し開けた瞬間、冷たい風が真っ直ぐに、鼻腔を駆け上がった。 その風の中に、私は一瞬、鉄の匂いではない、別のものを嗅ぎ取った。雨上がりの泥、馬房の藁、そして——磨かれた鉄と、油の、ごく微かな香り。 ロウェンの鎧の匂いだ、と気づいたのは、ずっと後のことだった。 その時の私は、ただ、それが自分を追ってくる匂いではないことに、深く、安心した。もしも今、この背後にあの人の足音が重なったら、私はきっと振り向いて縋ってしまう。縋って、そしてこの薄布の袖で、あの白銀の胸甲に、染みを残してしまう。 そう、なるに、違いなかった。 だから、振り向かずに歩ける間に、歩かなければならなかった。 裏門の外は、緩やかな下り坂になっていた。遠く、王都の屋根瓦が、夕暮れの色に染まり始めている。門番の老兵が、私を見て、何か言いかけて、言わなかった。ただ無言で、懐から硬い黒パンを一つ取り出し、私の手の甲にそっと押しつけた。薄布越しに、焼き立てではない、けれど確かに人の体温が残ったパンの重みが、手のひらに落ちた。 老兵の指は、節くれだって、節のひとつひとつに古い切り傷が白く残っていた。その指先が、私の手の甲の骨に、ほんの一瞬だけ触れた。触れて、すぐに離れた。まるで、触れた事実そのものを、自分に許さないと決めているかのように。白く曇った老兵の目の奥で、何かが揺れた気がした。憐れみではなかった。もっと古く、もっと硬く、言葉にする前に飲み込み続けてきた、何かだった。 私は、それを受け取った。 受け取った自分の手が、初めて、少しだけ震えた。
遠く、馬蹄の音がした。 坂道のずっと下、王都の石畳を叩く、ひどく急いた四つ蹄。神殿の奥へ駆け込む急使のものだ。私はそれを、振り返らずに聞いた。聞きながら、坂道の端に広がる雑木林へと足を向ける。 森の方角を見る。雨雲が、低く垂れていた。 雑木林の入り口で、木の葉が風に裏返り、銀色の腹を一瞬だけ見せた。その色は、さっき広間で見たロウェンの胸甲の光と、どこか似ていた。似ていて、けれど遠く、もう二度と届かない高さにあった。 黒パンを薄布の胸元に押し込み、私は歩き出した。名も、聖衣も、行く当てもない。ただ、歩く。穢れた指先に乾いた血をこびりつかせたまま、一歩ずつ、神殿から離れていく。 背後で、扉の閉まる音は——もう、しなかった。 けれど私の耳の奥では、さっき、あの広間で、ロウェンの拳がゆっくりと握り込まれた、その鎧の擦れる、ごく微かな軋みが、まだ止まずに鳴っていた。