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冷遇令嬢と氷の騎士の二度目の誓い

第2話 第2話

第2話

第2話

膝頭が、磨き抜かれた石畳に触れる乾いた音が、大広間の端から端まで、静かに渡った。

氷の騎士、アルヴィス・カーライル団長が——わたくしの、退出の足許で、片膝を落としていた。

甲冑の胸の装飾が、天蓋から降りる水晶の光を受けて、鋭く一閃した。深紺のマントの裾が、絨毯の縁に、音もなく掛かる。三百の貴賓のうちの誰一人、身動ぎの音すら立てられない。先ほどまで宙で止まっていた楽団の弓は、今度はさらに高い位置で、凍りついたままだった。

わたくしは、扇を握り直したまま、一歩も、足を動かすことができなかった。

「——団長?」

エドガルド殿下の声が、場違いなほど高く裏返った。

「何の、真似だ。下がれ。下がるがよい、アルヴィス」

アルヴィス卿は、顔を上げなかった。

その代わりに、片膝をついたまま、右の掌を、静かにわたくしの方へ差し出した。手のひらの上には、何一つ、乗ってはいない。ただ、差し出されているだけ——けれど、意味は、この大広間の誰の目にも、明らかだった。

手を、預けよ。

貴族の女に対して、騎士が片膝をついて掌を差し出す所作は、宮廷の礼法において、たった一つの意味しか持たない。主従の誓い、ないし、献身の申し出である。

わたくしは、動けなかった。

見知らぬお方だった。一度も、言葉を交わしたことはない。王宮の夜会警備の列に、遠目に姿を認めたことがあるばかりで、その氷色の瞳が、わたくしに向けられたことなど、ついぞ、なかったはずだった。

なのに——

わたくしの指先が、扇の柄を、ひとりでに離れていく。止めようと、思った。けれど、わたくしの内側で、十八年ぶん、凍りついていた何かが、小さな音を立てて砕けるのが、はっきりとわかった。

わたくしは、手袋越しの指先を、彼の掌の上に、置いた。

その瞬間、アルヴィス卿の睫毛が、わずかに伏せられた。

彼は、わたくしの指先を自らの方へ引き寄せ、手袋の内側——親指の付け根のあたりに、形だけの口づけを、落とした。

息が、止まった。

貴族の男が貴族の娘の指先に唇を寄せる所作そのものは、決して珍しいものではない。けれど、見知らぬお方の唇が、手袋越しに触れた、その一点から——冷えた鎧の肩口からは想像もつかぬ熱が、指の骨を伝い、手首、肘、喉の奥までを、一息に昇ってくる。

その熱は、けれど、決して焼け付くものではなかった。むしろ、永い旅路の果てに焚かれた、よく熾った炭火のような——身体の芯から、ゆっくりと、確かに灯る種類の温もりだった。手袋の薄い革を隔てているはずなのに、唇の輪郭が、はっきりと、わかった。形だけの、と、自らに言い聞かせようとして、けれど、形だけの所作で、ここまで深く、人の体温が伝わってくるはずがない、と、わたくしの内側のどこかが、静かに反論する。わたくしは、息を吐く方法を、一瞬、忘れた。

扇が、絨毯の上に、音もなく落ちた。

「——ようやく、お迎えに上がれました。セレスティア様」

声は、低く、澄んでいた。

ようやく。

その一語が、わたくしの耳の中で、繰り返し軋んだ。ようやく、とは。十年、殿下の婚約者として王宮に参内してきた、その間のことを指しているのか。それとも、もっと長い、わたくしの知らぬ、どこか別の時間のことを指しているのか。

卿の伏せられた睫毛の影が、わたくしの手の甲の上に、淡く落ちている。その影の輪郭が、なぜか、わたくしの胸の、ずっと深い場所——名のつかぬ、けれど確かにそこにあると感じられる場所——を、そっと撫でていく。覚えのない感触のはずだった。なのに、覚えがある、と、身体のどこかが、頑なに、囁いて、譲らない。

「アルヴィス!」

殿下の声が、今度ははっきりと、裏返って叫んだ。

「お前、何を——」

「殿下」アルヴィス卿は、顔を伏せたまま、静かに答えた。「不躾を、どうかお許しください。けれど、この御方が、この大広間を退出なさるのであれば——私は、この身を以て、その行く手を、お守り申し上げねばなりませぬ」

「お守り、申し上げる、だと?」

「婚約を解かれた元公爵令嬢の身の安全は、今この瞬間より、王宮騎士団長の庇護下に置かれるのが——建国の書の定める、しきたりにございます」

しきたり、などというものは、聞いたこともなかった。

けれど、アルヴィス卿の声は、たった今、その書を読み下してきたかのように、揺るぎなかった。——三百の貴賓のうちの、半数以上の視線の重心が、その揺るぎなさの方へ、静かに、けれど確かに傾き始めているのが、わたくしにも、はっきりと伝わってきた。

リリエンヌ嬢の指先から、扇が、今度こそ、床へ落ちた。

わたくしは、一度、瞼を深く閉じた。

瞼の裏で、先ほど胸に灯したばかりの小さな火が、ゆっくりと、別の形に変わっていく。——この方の厚意に、縋ってはならない。そう、わたくしの中の凛とした部分が、静かに告げる。見知らぬ御方の差し伸べる手は、恩ではない。借りだ。借りは、いずれ必ず、清算を迫られる。わたくしは、もう、誰かの掌の上で舞う人形であることに、疲れきっていた。

けれど——

瞼を上げたとき、わたくしの指先は、まだ、アルヴィス卿の掌の上に、残っていた。振り払うためには、一度、こちらから力を込めて、指を引き抜かなければならない。それが、貴族の娘としての、正しい振る舞いのはずだった。

わたくしは、指を、引き抜かなかった。

代わりに、小さく、喉の奥で息を整えた。

「——カーライル卿」

自分の声が、氷の湖面に落ちた石のように、静かに渡った。

「ご厚情、謹んで、承ります。ただし」

卿の伏せられた睫毛が、わずかに揺れる。

「わたくしは、これより公爵邸へ戻り、父より、追放の書状を受け取りに参ります。そののち、母の遺した辺境の小領へ、一人で向かうつもりにございます。卿のお立場を、わたくしごときの道連れに煩わせる訳には、参りませぬ」

「お一人では——なりませぬ」

初めて、卿の声に、ごく微かな、震えのようなものが走った。

「お許しください、セレスティア様。私には、あなた様を、お一人で行かせる訳には参らぬ、——理由がございます」

「理由、でございますか」

「今、この場で、申し上げる訳には参りませぬ。ただ」

卿の喉仏が、一度だけ、深く上下した。鎧の襟元の、ごく狭い肌の縁——そこに、長い年月をひとり堪え抜いてきた者だけが持つ、薄い影が走るのを、わたくしの目は、確かに、捉えてしまった。その影は、戦場で負った傷の跡などとは、種類が違っていた。誰にも見せず、誰にも告げず、ただ独りで磨り減らしてきた、永い夜の重みの、輪郭そのものに見えた。

ようやく、卿は顔を上げた。

氷色の瞳が、わたくしを、真っ直ぐに射抜いた。その奥に、先ほどから滲んでいた、わたくしの知らぬはずの長い長い歳月の色が、今度ははっきりと、見えた。——見知らぬ御方の瞳に、なぜ、わたくしを十年も待ち続けたような色が、ある。

「どうか、この掌の上に、もう一度だけ、お指を。そして、この大広間を、——私と共にお出ましいただきたく」

わたくしは、答える代わりに、落とした扇を、自らの手で、拾い上げた。

膝を一寸だけ折り、絨毯の上に指先を伸ばしたその瞬間、アルヴィス卿の肩が、わたくしを庇うように、半歩、前へ踏み出したのがわかった。それは、まるで、何十度、何百度と繰り返してきた動作のように、淀みがなかった。

扇を握り直し、わたくしは、深く息を吸った。

「——殿下」

振り返らずに、背後へ告げた。

「母の形見の銀の鎖飾り、明日、使者を遣わしますゆえ、お返しくださいませ。それが、わたくしから殿下への、最後のお願いにございます」

返事は、なかった。

返す言葉を、殿下がすでに、お持ちではなかったのかもしれなかった。

わたくしは、扇を胸の前に立て、アルヴィス卿の隣に並んだ。卿の足取りに合わせ、半歩だけ、先へ出る。騎士が、己の守るべき主の、半歩後ろを歩くための位置取りである。——そんなしきたりを、わたくしは、ついぞ、教わったことがなかった。なのに、なぜか、身体の方が先に、その位置を、選んでしまっていた。

扉の前で、一度だけ、卿の方を見上げた。

見知らぬはずの、その横顔に——わたくしの胸の奥は、静かに、けれど確かに、軋み始めていた。

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