第1話
第1話
扇の骨が、わたくしの指先で微かに軋んだ。
大広間を満たしていた弦楽の余韻が、天蓋から垂れた無数の水晶の雫ごと、凍りついた瞬間——第一王子エドガルド殿下の声が、静寂を割った。
「セレスティア・ヴァレンシュタイン公爵令嬢。余は、お前との婚約を、ここに破棄する」
つぶやきではなかった。宣告だった。あえてこの夜会を選び、あえて三百に及ぶ貴賓の耳目の前で告げるために、念入りに磨き上げられた一太刀。
視界の端で、殿下の腕に縋るようにして立つ令嬢の姿が揺れた。薄紅のドレス、栗色の巻き毛。伯爵令嬢リリエンヌ。昨晩、わたくしが殿下に差し上げるはずだった手紙が、厨房の使用人の手から消えたと聞いている。消えたものの行き先など、今この景色を見れば、聞き返すまでもない。
「——理由を、お聞かせ願えますでしょうか」
わたくしは扇を閉じ、両手を腰の前で静かに重ねた。深紅のヴェルヴェットのドレスは、母が最後に仕立ててくれた一着である。裾の金糸は、八年の歳月を経ても、まだ色褪せてはいない。
「理由?」殿下の唇が、薄く吊り上がる。「お前の傲慢さ、冷酷さ、民の心が分からぬその様——余に寄り添うべき王妃の器ではないと、判じた」
傲慢。冷酷。
言葉は綺麗に研がれていたけれど、そのひとつひとつが、どこか別の人の身の回りから借りてきた仮縫いの衣のように、わたくしには響いた。十年、殿下の隣で、扇の骨を何度も軋ませながら仕えてきた。その十年の細部のどこにも、その罪状が当てはまる形をしていたためしはない。
けれど、反論はしなかった。
反論して勝てる場ではない。勝たせぬために整えられた場なのだから。
わたくしは一度、瞼を閉じた。瞼の裏に、十二の歳で公爵邸の離れに追いやられた日の、冷えた廊下の石の感触がよみがえる。継母のため息、異母妹の忍び笑い。その中で、ただ一つ差し出された、白い絹の手袋の指先。
——ここまで、よく保ちました。
そして、瞼を上げる。
「承知いたしました、殿下」
ドレスの裾を、親指と人差し指で一寸だけつまみ上げる。膝を落とす角度は、宮廷の礼法で最も深い、三十度。そこから首筋をまっすぐに立てたまま、わたくしは礼を返した。
「長きにわたるご厚誼、謹んで、御礼申し上げます」
声は、思いのほか澄んでいた。
わたくし自身、驚いた。泣くでもなく、震えるでもなく、ただ夜明けの鐘のような一音が、するりと喉を通っていった。
大広間のどこかで、息を呑む音がした。
一つ、二つ——いや、四方から。
顔を上げれば、楽団の弓は宙で止まり、老侯爵の杯は傾いたまま留まり、若い令息は唇を半ば開いたまま固まっている。最前列、三日月の弧のように並んでいた令嬢たち——そのうちの幾人かは、先ほどまで扇の陰でわたくしを見て嗤っていた顔ぶれだった。その扇が、音もなく指先からすべり落ちる者さえある。
リリエンヌ嬢の視線だけが、別の色をしていた。
勝ち誇った紅が、わずかに引いている。彼女はわたくしが泣くものと思い込んでいたのだろう。髪を乱し、喉を詰まらせ、ドレスの裾を汚して逃げ出すものと。この大広間の全員が、きっと、同じ絵を思い描いていた。
わたくしは、その絵を破った。
破るつもりで破ったのではない。
ただ——泣くほどの愛では、なかった。それだけのことだった。
冷えた廊下の石の上で、異母妹からの贈り物と偽って与えられた、底の割れた靴を履いて踊ったとき。継母から「公爵家の娘としての最低限」と差し出された古い生地を、夜更けに指を刺しながら自分で仕立て直したとき。わたくしは、涙の使い方を早くに忘れていた。殿下の隣に立てるという約束だけが、ただ一つ、わたくしに許されていた居場所だった。居場所を失う痛みは知っているけれど、それは——今、この瞬間、この大広間で、声を乱すほどの痛みには、ならなかった。
居場所は、内側にある。
そう気づかせてくれたのは、皮肉にも、今、わたくしを断罪している御方だった。
「……ずいぶん、殊勝な返事ではないか」
殿下の声が、わずかに低くなった。想定した筋書きと違う頁を読まされたときの、役者の声だった。
「なにか、申し開きがあるなら——」
「いいえ、殿下」
わたくしはもう一度、静かに答えた。
「陛下の御前で整えられたこの約束を、殿下御自ら解かれるとおっしゃるのです。公爵家の娘として、それ以上に、申し上げるべきことはございません」
リリエンヌ嬢の扇が、カタリと小さく鳴った。
「ただ——」わたくしは一度、言葉を切った。「最後に、ひとつだけお願いを差し上げてもよろしゅうございますか」
「……申してみよ」
「わたくしから殿下に差し上げた手紙の類は、すべて火にくべてくださって構いませぬ。ただ、母の形見の、銀の鎖飾りだけは——どうか、わたくしの手許にお返しいただきたく」
「鎖、飾り?」
「二年前、殿下のお部屋に預かっていただきました。亡き母が、最期にわたくしの首にかけてくれた、ただひとつの宝にございます」
わたくしは、初めて、殿下の瞳を真っ直ぐに見つめた。
糾弾ではなく、懇願でもなかった。ただ、母が残した唯一の物を、これ以上、粗末な場所に置いておきたくないという、娘としての、あまりに控えめな申し出である。
殿下の視線が、わずかに泳いだ。
逸らしたのは、わたくしの瞳からだったか。それとも、あの小箱の中身を——すでに、どこかの令嬢の首にかけ替えてしまったという事実からだったか。
指の中で、扇の骨が、もう一度、かすかに軋んだ。
大広間の空気が、奇妙に反転していくのを、肌で感じていた。
先ほどまで嘲弄に傾いていた視線の重心が、ゆるやかに動いている。殿下側にあった秤の皿が、わずかに——いや、確かな音を立てて、わたくし側に傾き始めた。
同情、ではなかった。
同情する者は、こんなふうに息を呑んだりしない。
彼らの眼に映ったのは、ただひとつ——「この令嬢は、崩れなかった」という事実である。貴族の社交界が何よりも尊ぶもの。金でも地位でも血筋でもなく、崩れぬ姿そのものを、わたくしは、破棄の宣告を受けたその瞬間に、示してしまった。
殿下にとっては、誤算であったに違いない。
「——下がるがよい、セレスティア」
殿下の声には、もはや先ほどの切っ先はなかった。
「では、失礼いたします」
もう一度、ドレスの裾をつまむ。もう一度、三十度の礼。顔を上げたとき、わたくしの中に、静かな決意が一点、灯っていた。
公爵邸には、一度だけ戻ろう。
父上の前で、追放の書状を正面から受け取る。継母が嬉々として差し出してくるだろう、婚約破棄と同時に娘としての籍を抜くための書類に、わたくしは一切抗わない。抗ったところで、父があの屋敷でわたくしを庇ってくれたことは、十八年の間、ただの一度もなかった。
そして——母が遺した、辺境の小領へ向かう。
継母と異母妹が「あんな痩せた土地、くれてやる」と嗤って、書面のまま放置していた、北の端の森林地帯。地図の上では一点の黒い染みにしか見えず、ここ三年、代官からの報告書すら届いていないという土地。
あの土地を、わたくしの脚で踏もう。
それが今、わたくしに差し出されている、ただ一つの道であった。リリエンヌ嬢を睨みつけることでも、継母に向けて牙を剥くことでもなく——ただ、母の名で呼ばれていた小さな領地へ、自分の足で向かうこと。
そう思った瞬間、胸の奥に、冷えた石ではなく、小さな火が点ったのが、たしかにわかった。
わたくしは、踵を返した。
扉までの通路に並ぶ貴賓の列を、一人ずつ視界に収めながら、絨毯の上を歩いてゆく。
扇を取り落とした令嬢。杯を傾けたまま固まった老侯爵。唇を半ば開いたまま、わたくしを正視できずにいる若い令息たち。
彼らの目の中で、わたくしはもう、一人の婚約破棄された哀れな娘ではなくなっていた。一瞬にして、別の何か——別の誰かに、なってしまったのだ、らしかった。
その視線の列の、ちょうど半ばあたりだった。
一人の男が、壁際から一歩、通路の中央へ踏み出した。
楽団の影が覆っていた位置である。わたくしは先ほどまで、そこに誰かが立っていたことにさえ、気づいていなかった。
黒の正装の上に、深い紺の騎士団マント。肩に留められた銀の団章は、王宮騎士団長のそれ。
——氷の騎士。
アルヴィス・カーライル。表情を変えぬ男。笑わぬ男。王妃陛下の暗殺未遂を三度退け、隣国の騎士三十を独りで斬り伏せたと噂される、王宮最強の刃。王太子の婚約破棄などという貴族の私事に、本来ならば、一言たりとて介入する立場ではないはずの、その御方。
その男が、わたくしの退出の進路を、静かに塞ぐように立っていた。
靴を止める。
見知らぬお方である。舞踏会の列で、視線を合わせたことすら、ただの一度もなかったはずだった。
なのに、彼の氷色の瞳は——わたくしを、見ていた。
いや、「見ている」などという軽い言葉では、足りない。
その奥には、わたくしの知らないはずの、長い長い歳月の色が、静かに滲んでいた。
彼の右手が、剣帯の柄から、ゆっくりと離れていく。
そして、片膝が——大広間の、磨き上げられた石畳に向かって、落ちていこうとしていた。