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氷の闇姫は辺境で禁書を開く

第3話 第3話

第3話

第3話

夜明けは、灰色の薄布を一枚ずつ剥ぐように訪れた。

私は北の物見台に立ったまま、東の稜線が朝霞に滲む様を眺めていた。袖の触媒に触れた指先が、まだ僅かに熱を保っている。昨夜の遠吠えは三度繰り返され、四度目はとうとう鳴らなかった。鳴かなかったのではない。声を上げる必要がなくなったのだと、胸の奥の冷たい点が告げていた。

「お嬢様。お顔が、お青うございます」

マルタが羊毛の肩掛けを差し出した。私はそれを受け取らず、代わりに彼女の皺ばんだ手を一瞬だけ握った。指先は氷のように冷えていた。私のそれよりも、ずっと。

「マルタ。村の女と子は、領主館へ上げて」

「お嬢様、それは——」

「七人ぶんの寝床は、北塔の客間で間に合うはず。フリッツに伝えて。男手は半刻後、広場に集合」

老侍女は反論を呑み込み、深く頭を垂れた。マルタが祈祷書を抱えて石段を下りていく後ろ姿を見送りながら、私は袖口の銀糸を弄った。糸の一本が、夜露を吸って黒ずんでいた。糸とは思えぬほど、それは黒かった。

東の森から、また、ひと声。

今度は遠吠えではなかった。短く、低く、咆哮に近い。森の梢が一斉に揺れたのが、四半里先からでも見えた。鳥が一群、空へ吐き出されるように飛び立つ。

——来る。

私は石壁から指を離し、塔の螺旋階段を駆け下りた。靴底が古い石に擦れ、踵に小さな痛みが走る。痛みは、思考を冷やすのに都合がよかった。

広場に集まった領兵は、十二人だった。

槍を握る者、弓を背負う者、革鎧の継ぎ目を麻紐で繕った者。最年長は四十がらみ、最年少は私と同じくらいの少年だった。少年の頬には、まだ熱を持った擦り傷が残っていた。

「総員、東の街道に布陣する。村の入口に薪を積み、油を撒いて。火の壁を作るわ」

「お嬢様。火の壁では、あの群れは止まりませぬ」

口を開いたのは、隊長らしき髭の濃い男だった。革鎧の胸当てに、古い爪痕が三本走っている。

「上位種が混じっておりやす。先月、私の弟が、炎を真正面から浴びても引かぬ個体に喰われました。毛皮が、燃えながら、こちらへ歩いてきよりました」

「燃えながら、歩いた」

私は反芻した。男は唇を噛み、頷いた。

火属性に対する耐性。書庫で読んだ瘴気個体群の記述が、頭の隅で頁を捲った。瘴気を体内に取り込んだ魔物は、属性反転を起こすことがある。炎は熱ではなく、栄養として消化される。学院の演習場では、私の炎は近衛の防御陣を一息で崩した。けれど近衛の鎧と、瘴気を喰らった毛皮は別物だ。

「では、火の壁は陽動。本命は別に置く」

私は触媒を抜き、月光石の小片を地面に三つ並べた。三角点を結ぶ線が、街道を斜めに横切るよう向きを直す。指先で簡素な印を切ると、石は微かに白く灯った。

「この線の内側に魔物を引き込む。線が結界を作る。長くは保たない、十数えるあいだ。その間に、私が浄化詠唱を試みる」

「試みる、と仰いますか」

「初見の魔法よ。保証はしないわ」

髭の男は黙って頷いた。少年兵が、震える手で槍を握り直す。私はその手の甲に、人差し指の腹で軽く触れた。汗で湿った皮膚が、ぴくりと跳ねた。

「あなたは後列。村の女と子を、領主館へ上げる隊につきなさい」

「で、でも、お嬢様」

「あなたが残ったら、お母上が泣くわ。私は、泣かれるのは、嫌いなの」

少年は唇を結び、頷いた。涙を堪える顔を見ないふりをして、私は触媒を握り直した。冷たい水晶の角が、掌の付け根に小さな痕を残す。胸の奥の点が、二度、続けて脈を打った。鼓動より速い。

魔物の群れが街道を埋めたのは、陽がまだ低い時刻だった。

先頭の一頭は、馬よりも一回り大きな黒狼だった。前肢の関節が、本来あるべき場所より一節分長く曲がっている。瘴気に侵された個体の徴だ。その後ろに、八頭。九頭。数え終える前に、次の影が梢の隙間から滑り出てきた。

「火、放て」

髭の男の号令で、油を撒いた薪に火矢が落ちた。炎の壁が街道を裂き、熱風が私の前髪を煽る。視界の半分が橙に染まり、もう半分の視界の中で、黒狼は——速度を緩めなかった。

毛皮の縁に火がつき、橙が黒に滲む。それでも前肢は折れず、顎は閉じない。一頭、二頭、三頭が炎の壁を抜けた。燃えながら、歩いてきた。

月光石の三角点が白く灯る。先頭の一頭が、線を踏んだ。瞬間、石から薄い帳のような結界が立ち上がり、後続三頭をも内側へ閉じ込める。私は触媒の先端を地面に突き、書庫で見たばかりの古代詠唱を、初めて唇に乗せた。

「淀みよ、淀みへ。澱みよ、澱みへ——」

詠唱が、舌の奥で詰まった。

魔力の循環が、いつもの順序で動かない。心臓から肩、肘、手首、指先——その順路の途中で、何かが横道に逸れる。冷たい点が、それを引き寄せている。私の意思とは無関係に、暗い側溝へ魔力が流れ込んでいく。

結界が、軋んだ。

四頭目の黒狼が、燃え残った毛皮で線を踏み割った。私は触媒を構え直し、火属性の上位詠唱に切り替える。掌の中で炎が膨れ、しかし——膨れたまま、放てなかった。私の炎を、結界の内側で、瘴気を吸った魔物が静かに見上げている。喰らうために、待っていた。

そのとき、結界の外で、小さな悲鳴が上がった。

振り向けば、避難の隊列から逸れた幼子が一人、私の背後の石垣の陰でうずくまっていた。母親の裾を握っていた、あの子だった。母を呼ぶ声を、声にできずに喉を引き攣らせている。黒狼の一頭が、すでに石垣を越えて、子の三歩手前で前肢を撓めていた。

私は炎を捨てた。

触媒を投げ出し、子に駆け寄り、その小さな体を腕に抱え込んで石垣の根本へ転がる。背中に、熱い息と、湿った腥さがかかった。鉄錆の臭気が、舌の上に苦く広がる。狼の顎が、私の肩のすぐ上で閉じる音がした。

——その音より早く、胸の奥の冷たい点が、弾けた。

肋骨の内側から、黒い霧が滲み出るのを、私は確かに見た。

煙ではない。湯気でもない。質量を持たぬ墨のような何かが、夜会服の襟元から、袖口から、銀糸の隙間から、音もなく溢れ出る。霧は私の周囲で渦を巻き、それから、迷いなく、四方の魔物の影へと伸びた。

伸びて、絡んで、喰らった。

街道に伸びていた黒狼の影が、地面から剥がされるように立ち上がり、霧の渦の中へ吸い込まれていく。影を失った狼の体が、糸の切れた人形のように崩れる。崩れた体は燃え尽きた毛皮を散らし、後には湿った骨の山だけが残った。

四頭。六頭。八頭。

霧は、私が指を動かさずとも、私の呼吸の速さに合わせて伸縮した。ひと息吸えば膨らみ、吐けば次の影を捕えに走る。喉の奥に、冷たい蜜のような味が広がった。甘くはなかった。けれど、ひどく、満ちた。

最後の一頭が崩れ落ちると、霧は満足したように、ゆっくりと私の胸へ戻ってきた。襟元に吸い込まれていく感触は、雨の沁みた絹に似ていた。

腕の中で、幼子が小さく身じろいだ。生きている。私は子の頭を抱き直し、額に唇を寄せた。子の汗の塩が、舌の先で弾けた。

街道に、誰の声もなかった。

髭の男も、少年兵も、十二の領兵全員が、槍を地面に突き立てたまま、私を見ていた。マルタは祈祷書を取り落としていた。フリッツが、白くなった唇で、何かを呟こうとして、呟けずにいた。

私は子を抱いたまま、ゆっくりと立ち上がった。膝が、僅かに笑った。膝が笑うのは、十三の夏に魔法書を初めて開いた日以来だった。

——これだ。

胸の奥で、冷たい点はもう脈を打たなかった。代わりに、肋骨の内側を、しっとりと温かい何かが満たしている。それは飢えではなく、戻ってきた、という感触に似ていた。

「お嬢様……これは、いかなる、御業で」

フリッツが、ようやく声を絞り出した。

私は子を母の元へ戻し、袖口の銀糸を整えた。糸の黒ずみは、もう銀に戻っていた。空を見上げると、東の稜線の上で、朝の太陽が雲を割っていた。光は、私の影を、足元へ濃く落とした。影は、ほんの少しだけ、私が動かないのに揺れた。

「フリッツ。地下書庫の、いちばん奥の書架の、いちばん下の段。『失われし第七属性に関する考察』を、卓上に出しておいて」

「ただ今、すぐに——」

「それから」

私は、扇のない指先で、口元を覆った。研究者の笑みに戻すために。

「私の母上の、お部屋の鍵も。あの方が、何故あんなに早く逝かれたのか——その答えが、おそらく、同じ場所にあるわ」

家令は、深く頭を垂れた。

街道の向こう、燃え残った薪が、最後の一筋の煙を空へ立ち上らせていた。風が、その煙を、東ではなく、西へ——王都の方角へ、ゆるやかに運んでいった。

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